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南郊 「羽沢氷川・渋谷八幡・伊勢野 道の枝折」

文政二年(1819)八月、村尾嘉陵は、渋谷八幡宮(金王神社)の近くの伊勢野の法如庵を目指して散策をしました(自筆本第十巻)。

以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。

下は、今回の笄橋(こうがいばし)から渋谷八幡辺りの地図です。ちょっと方位が捻れている感じもしますが、大雑把に右上が北、左下が南といったところです。図の上を青山通りが走り、図の中央の少し左を渋谷川が流れています。笄橋は図の右端中央のちょっと下辺りです。嘉陵は笄橋から地図の左側に進み、羽沢氷川社、渋谷八幡、伊勢野原へと辿ります。

江戸近郊道しるべ 江戸近郊道しるべ

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会笄橋 今回の記録は「渋谷八幡宮(金王神社 こんのうじんじゃ)の近くに、伊勢野といふところあり。そこに法如庵(ほうにょあん)と云あり。こは本郷園満寺の隠居所にて、孔雀明王(くじゃくみょうおう)を祭ると云。野の見はらしよしと、ある人いへば、一日かしこを尋ねて行」と始まります。今回は、笄橋(こうがいばし)の辺りから道順が詳細に記されています。その笄橋とはどういうところかというと、江戸名所図会の「笄橋」(右図)にその様子が書かれています。


江戸近郊道しるべこの後、いくつかの屋敷を紹介しながら道順を書いています。先ず、笄橋を渡り左に折れてすぐの道を右に曲がると堀田相模守の屋敷と山口修理亮(しゅりのすけ)の屋敷、その先の辻番所を過ぎしばらく行くと内藤紀伊守の屋敷、その先また暫く行くと左手に氷川大明神(氷川神社)が見えてきます。上の地図を参照すると経路が分かります。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会氷川明神
 氷川大明神については、「かねては、聞も及びし所なれど、詣るは今日初めて也、石の鳥居のうち、左右みな松の木だちいと物古りたり(ふるめかしい)」、「左に石階をのぼる事二十余段、拝殿、本社みな茅もてふける也。右の方に弁才天の祠あり。境内眺望なし。ただ松風の颯颯たるを聞く」とあります。右は、江戸名所図会の「氷川明神社」です。嘉陵は、右図の左側の端の少し上に見える鳥居から入り拝殿に着きました。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会金王八幡
 「今来(こ)し道はわき道にて、石階を下りて直にゆけば大門にて、ここに又石の鳥居あり」と、拝殿から表参道(左下へ向かう参道)をまっすぐ進みます。鳥居の横では、神事の角力(すもう)があるらしく準備中でした。東(図の右側)を見ると、「林をへだてて薬師堂、其こなたに坊(宝泉寺と塔頭)あり。寂莫として一人の来るをみず」という様子でした。そこから、もと来た鳥居から出て黒田松平備前守の屋敷を左に見ながら進み(上の地図参照)、先ず、渋谷八幡宮(金王八幡宮 こんのうはちまんぐう)に行きました。右は江戸名所図会の「金王八幡宮」です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会金王八幡 左のページには、当社は11世紀に河崎氏が石清水八幡官を勧請したことに始まり、ここの鎮守として続いてきたことが書かれています。そして金王桜として現在も有名な桜についての言い伝えを書いています。それによると、金王桜は渋谷金王丸(平安末期の武将)が植えたものですが、その後枯れてしまい、その子孫が植え替えた、というお話が続きます。右は、江戸名所図会の「金王麿影堂(こんのうまるえいどう)」で、金王丸を祀っています。 金王御影堂

右の写真は現在の金王丸御影堂です。嘉陵は、更に、本当にその子孫だったのか、というお話も書いています。金王丸は伝説的な人で、歴史的にはあまりはっきりしない部分の多い人です。 金王丸の詳細については、上にも記した江戸名所図会の「金王八幡宮」を見てください。

江戸近郊道しるべ 金王桜 金王桜について、「今日、境内を尋(たずね)もとむるに、それと覚しきは見へず。社(やしろ)の前鐘楼のかたはらに、さくら一もとあり、こは近頃植えしと見へて、木のもとに、例の誹諧の徒の句彫たる石を建て、何やらんかんな(仮名)文字して書きつけたるも、たしかならぬは、知らぬ後の世を誤る、よしなき(良くない)わざと思はる」ということで、金王桜は無くて、おまけに将来の人を惑わす、と警句を発しています。右の写真の中央は、現在我々が境内で目にする金王桜です。いつの時代かに植えたようです。

江戸近郊道しるべ 金王八幡宮 又、境内には「ここに金王丸の像あり、鉄衣に双刀を帯したり、平治元年十二月、渋谷冠者常光と号す。保元の乱後遁世す。死生しらずと云伝とぞ」だったそうです。右は、金王八幡宮の拝殿です。

嘉陵は「八幡宮の前の茶屋にやすらひ、伊勢野といふは何方ぞと問へば、ここの路の東側に少しのぼる所、垣の内に木立あり、其木のもとにちいさき祠あるが伊勢大神宮にて、古くよりここに祝ひ奉るゆへ、そこを伊勢野とよぶ、法如庵は大神宮のたゞにうしろ也と、あるじの女いふ」ので、「依て、そこに行てみれば、初め羽沢よりここに来るとて、はたの細道を黒田殿の屋敷にそふてこ(来)し、狐兎の径のかたへにありし。それともみへぬ小祠ぞ、この大神官にはおはしましけり」と、大神宮の小さいことに驚いたようです。

江戸近郊道しるべ  「祠は方五六尺ばかり」で雨漏りがしそうで、丸木の鳥居は形ばかりの境内を通っていっくと、「祠のうしろに、大なるぬりごめ(寝殿造)のきらきらと白土塗りたるがあるにそふて、木の下かげを北にめぐり出れば、法如庵の門のうちに出」ました。周りを見渡すと、氷川神社の松林、内藤紀伊守の屋敷の森、松平左京太夫の屋敷などが見えます。しかし、「閑静の境なれど、させる眺望もなし。祈蒔たのまざれば、みだりに孔雀明王をば拝せしめずと云」とは、なんということでしょうか。

江戸近郊道しるべ  眺望は期待したほどではなく、孔雀明王を拝むこともできず、期待が大きかっただけにショックも大きかったものと思われます。嘉陵は、伊勢野と呼ばれるこの皇大神宮の地に庵をむすびながら、明王を人に見せない狭い了見について、「されど神はおはやけにましませば」と当て付けの和歌を三首詠んで、この紀行文を終わっています。