アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之五 第十五冊
巻之五 玉衡之部
第十四冊 神田、上野、谷中、日暮里
第十五冊 根津、駒込、王子、豊島、川口
江戸名所図会 巻之五 玉衡之部 第十五冊
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
根津権現社(ねずごんげんやしろ)の挿絵の右中央辺りに根津権現の「本社」があり、その右に「御供所」があります。本社の上から反時計方向に「うら門」、「いなり」、「いなり」、「御霊八社」、「上野尾天神」、「楼門」、「ちさう=じぞう」、「弁天」、「聖天」、「別当」が見えます。挿絵左下には「此辺貸食店あり」、「此辺りょうり 茶や」とあります。 其二の挿絵は、上の根津権現社の挿絵の左側につながっています。この挿絵には、「清水」、「ちそう=地蔵」、「「いなり」、「惣門」、「いなり」が見えます。また、「当社(とうしゃ)の境内(けいだい)を世に曙(あけぼの)の里といえり」とあります。 江戸名所図会の本文には、「上野より五町ばかりを隔てて乾(いぬい 北西)の方にあり 祭神(さいしん) 素盞鳴尊(すさのおのみこと)・・・」とあります。 また、「当社(とうしゃ)境内(けいだい)は假山(つきやま)泉水(せんすい)等(とう)をかまえ草木(くさき)の花(はな)四季(しき)を遂(おう)て絶(たえ)ず。實(まこと)に遊観(ゆうかん)の地(ち)なり。殊(こと)に門前(もんぜん)には貸食店(りょうりや)のきをならべて詣人(けいじん)を憩(いこ)わしめ、かん歌の聲(こえ)間断(かんだん)なし」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。根津権現社(現在 根津神社)の詳細については、猫の足あとを参照してください。 右は、根津神社の鳥居です。おそらく、左の其二の挿絵の惣門の辺りかと思われますがはっきりしません。 右は、乙女稲荷の参道入口です。千本鳥居が続いています。挿絵の上野尾天神の鳥居の辺りかと思われます。なお、現在、上野尾天神は見当たりません。 |
上の挿絵は、 三崎(さんさき) 法住寺(ほうじゅうじ)傍らに新幡随意院(しんはんずいいいん)と云 妙林寺(みょうりんじ) 蛍沢(ほたるさわ)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。オレンジ色の楕円は妙林寺、赤い楕円は法住寺のあった場所です。両寺とも現在ありません。 |
この挿絵には、以下のように書かれています。
根津権現旧地(ねずごんげんのきゅうち)
千駄木坂(せんだぎざか) 挿絵の中央右側に「駒込いなり」、「根津権現旧地」、「動坂道」とあり、中央から下に「千駄木坂」、「茶や」、「植木屋」、とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は右の地図の紫色の楕円の辺りかと思われます。 ただし、坂の名前には注意を要します。絵図のいう千駄木坂とは現在の団子坂(上のマップの赤色)です。絵図では、千駄木坂は潮見坂ともいう、とありますが、現在、潮見坂は藪下通りともいわれ青色の楕円の辺りの道です。 又、動坂は上のマップの緑色の楕円の道ですので動坂道はオレンジ色の楕円の道ではないかと思われます。 右の写真は、団子坂の下から上の方向をみたものです。左の挿絵では、千駄木坂の坂上の右に旧地がありますので、この写真の右側の茶色のビルの向こう側に当たるものと思われます。 |
上は、 駒込大観音(こまごめだいかんのん)の挿絵です。 江戸名所図会の本文には、「大観音(だいかんのん) 千駄木(せんだぎ)七軒寺町光源寺(こうげんじ)といえる浄宗(じょうしゅう)の寺内にあり、和洲(わしゅう 大和国 現在の奈良県)長谷寺(はせでら)の写(うつし)にして、十一面観音の立像〈長一丈六尺〉なり。又、同堂内に千体(せんたい)の観音(かんのん)を安(あん)ず・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の紫色の楕円の辺りです。光源寺の詳細については、猫の足あとを参照してください。 右は、駒込大観音の正面です。東京大空襲のときに消失したのですが、平成5年に再建されました。 右は、二代目大観音です。初代の観音の大きさは、江戸名所図会では一丈六尺(約5m)となっていますが、境内の説明板では二丈六尺(約8m)だったと書かれています。二代目は6mだそうです。 |
上は、 丸山浄心寺(まるやまじょうしんじ)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りだったようです。寺の前は浄心寺坂と呼ばれ、現在も名前が残っています。丸山浄心寺は日蓮宗の寺院ですが、現在の位置は分かりません。昔の丸山浄心寺の東200~300m東に浄土宗の浄心寺がありますが、違うお寺のようです。 |
上の 吉祥寺(きちじょうじ)の挿絵には「表門(おもてもん)の内左右並木(なみき)の桜(さくら)は、其昔公(おおやけ)より植(うえ)させられ今(いま)も春時(しゅんじ)爛漫(らんまん)たり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上は、 駒込神明宮(こまごめじんめいぐう)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は当時の駒込神明宮(現 天祖神社)です。 |
上は、 富士浅間社(ふじせんげんやしろ)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上の、 六月朔日 富士詣(ふじもうで)の挿絵には、「前夜(ぜんや)より詣人(けいじん)多(おお)く、甚(はなはだ)賑(にぎわ)えり。此日麦藁細工(むぎわらさいく)の蛇(じゃ)ららびに団扇(うちわ) 五色(ごしき)の網(あみ)などを鬻(ひさ)ぐ」とあります。 | |
上は、 田畑八幡宮(たばたはちまんぐう)の挿絵で、右下に与楽寺(よらくじ)があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は田端八幡宮、青い楕円は別棟の東覚寺、オレンジ色の楕円は与楽寺です。 |
上の、 圓照寺(えんしょうじ) 五石松(ごこくまつ)の挿絵には、「当寺(とうじ)に五石松(ごこくまつ)とて一株(いっちゅう)の古松(こしょう)ありしか。今(いま)は枯(かれ)て名(な)のみを存(そん)せり。慶長(けいちょう)の頃(ころ)にや、大樹から松(まつ)に、御放鷹(ごほうよう)の折(おり)から御褒詞(ごほうし)ありて五石(ごこく)の知行(ちぎょう)を下(くだ)し賜(たま)うよりかくは名(な)づくるよし云伝えり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
無量寺(むりょうじ)七社(ななのやしろ)の挿絵には、「六阿弥陀 第三番目」とあります。 挿絵の左側中央に「本堂」があり、それを上から時計方向に「裏門」、「七の社」、「あみだ堂」、「観音」、「惣門」、「弁天」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「西光院(さいこういん)と号(ごう)す。同所(染井村のこと)北の方西原(にしがはら)にあり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の紫色の楕円の辺りかと思われます。赤い円は無量寺の本堂の辺り、オレンジ色の楕円は旧古河庭園です。 右の写真は、無量寺の山門です。無量寺の詳細については、猫の足あとを参照してください。 挿絵の左上の裏門から右下へ続く道の右上側は現在の旧古河庭園なのではなかろうかと思われます。したがって、七の社もおそらく旧古河庭園の中でした。 |
平塚明神社(ひらつかみょうじんのやしろ) 鎧塚(よろいづか) 別当城官寺(じょうかんじ)の挿絵の右側に「本社」、「よろい塚」、「くはんおん(かんのん)堂」があります。右下に「別当」があります。挿絵の左に「此辺(このへん)すべて平塚(ひらつか)の城跡(しろあと)なり」と書かれています。挿絵の下側にある道には、左側に「王子道」で、右に「 道灌山道」とあります。 平塚明神社の言われについては次の欄に記します。 城官寺については、「別当(べっとう)を平塚山(へいちょうさん)城官寺(じょうかんじ)といい、安楽院(あんらくいん)と号(ごう)す・・・」とあります。
|
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の紫色の楕円の辺りかと思われます。赤い円は平塚明神社(平塚神社)の本殿の辺りです。紫色の円は城官寺の辺りです。平塚明神の詳細については、猫の足あとを参照してください。 右の写真は、平塚神社の参道入口です。挿絵の左下の道(王子道=現在の本郷通り)に面しています。 |
上の挿絵には、 「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)兄弟(きょうだい)奥州征伐(おうしゅうせいばつ)凱陣(がいじん)のころ、武蔵国に入りたまい、豊島(としま)某(それがし)が住(すみ)し平塚(ひらつか)の城に逗留(とうりゅう)ありてありしに、鎧(よろい)一領(いちりょう)を賜(たま)わりけると、後(のち)、塚(つか)に築収(ついおさ)めて城の鎮守(ちんじゅ)とし平塚三所明神(ひらつかさんしょみょうじん)といつきまつりしも、実に武功(ぶこう)のしからしむる故(ゆえ)なるべし」とあります。 |
江戸名所図会のいう平塚城というのは、上に記載した平塚明神であるとする説があります。 |
上の、 平塚城戦(ひらつかのしろたたかい)の挿絵には、「鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)に、文明(ぶんめい)十年正月廿五日道灌(どうかん)、豊島勘解由左衛門(としまかげゆさえもん)が平塚(ひらつか)の要害(ようが)へ押寄(おしよせ)責(せめ)ければ、其暁(あかつき)没落(ぼつらく)して敵(てき)は猶九間城(くまのしろ)小机(こづくえ)の城(しろ)に籠(こもる)とあるは此平塚(ひらつか)の事なり」とあります。 | |
上は、 白鬚明神社(しらひげみょうじんやしろ)の挿絵です。 | |
音無川(おとなしがわ)の挿絵の中央を「音無川」が流れ、脱ぐ部「金輪寺」があります。川の中に、「堰*(いせき)」とありますが、漢字と読みがよく分かりません。堰(せき)のことだとは思いますが、、、 左側の道は、岩槻街道(日光御成道)です。 音無川とは石神井川のことで、挿絵の上から下に流れています。絵の左側の道は岩槻街道(日光御成道)です。その左側は飛鳥山で、下の絵に続きます。上の挿絵をよく見ると、堰の辺りの両側に土手らしきものがあり、音無川が三本に別れていることが分かります。江戸時代の地図(右上の切絵図)にも表されています。一つは、飛鳥山の東側の崖近くを流れる小川、一つは右の小川(今の音無親水公園のせせらぎの辺りを流れていたらしい)、もう一つは中央の本流(音無川)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 上は、江戸時代末期の音無川周辺の切絵図の一部です。方角は挿絵に合わせましたので、北は大体右下から下の間で、挿絵に描かれた範囲は、緑の楕円の辺りかと思われます。飛鳥山の裾に沿って走る道は、岩槻街道(日光御成道)です。この地図は、人文社の「江戸東京散歩」から引用しました。 右の写真は、挿絵の昔の音無川の辺りを、飛鳥山の上から北東を向いて撮っています。現在、この辺りで石神井川は地下を流れています。この写真で、左右に走る広い道路は明治通り(岩槻街道)、右手前の高架はJR宇都宮・高崎線等で、写真中央辺りにJR王子駅があります。 右の写真は、飛鳥山の上から北西を向いて撮ったもので現在の音無橋が写っており、挿絵の中央辺りかと思われます。石神井川はこの橋の左側で地下に入っています。手前の広い道路は明治通りです。 |
上は、飛鳥山(あすかやま) 全図 飛鳥橋(あすかばし)の挿絵です。この絵は、上の欄の「音無川」の挿絵の左側につながっています。 この挿絵には、「花をいで(出)て まつ(松)へし(染)みこむ 霞かな 嵐雪」とあります。嵐雪(服部嵐雪 はっとりらんせつ)は、江戸時代前期の俳諧師です。 挿絵の中央に「此辺料理やあり」、挿絵の右下に「あすか橋」、「此辺料理屋多し」とあります。飛鳥橋の架かっているのは、岩槻街道(日光御成道)です。 上の 其二の挿絵は、飛鳥山全図の一枚目の挿絵の左側につながっています。この絵の左上には「平塚道」があり、右端に「碑」があります。遠景に富士山が見えます。 上の2枚の絵の手前側に小川が見えます。これは、既に「音無川」の欄で記載した、音無川から別れた小川かと思われます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤丸は挿絵の「碑」で、現在、飛鳥山碑(あすかやまのひ)として置かれています。 挿絵にある飛鳥橋は上の欄の絵図の赤丸で示した位置にあります。 挿絵の平塚道は岩槻街道、日光御成道とも呼ばれ、この辺りでは現在は本郷通りと呼ばれています。 右の写真は、飛鳥山の最高点で、挿絵の右端の高くなっている場所かと思います。実際には、挿絵ほどの高まりは感じません。 |
上の 飛鳥橋(あすかばし)の挿絵には、「飛鳥橋(あすかはし)のあたりは、貸食舗(りょうりや)の亭造(やつくり)壮麗(そうれい)にして後亭(ざしき)のまえには皎潔(こうけつ 清らかなこと)たる音無川(おとなしがわ)の下流(ながれ)をうけて生洲(いけす)をかまう。この地はるかに都下(とか)を離(はな)るるといえども常に王子(おうじ)の稲荷(いなり)へ詣(もう)ずる人ここに憩(いこ)い終日(ひねもす)流(ながれ)に臨(のぞ)むて宴(えん)を催(もよお)し沈酔(ちんすい)するも多し。夏日(かじつ)は殊更(ことさら)凛々(りんりん)たる河風(かわかぜ)に炎暑(えんしょ)を避(さけ)て帰路(きろ)におもむかんことを忘(わす)るるの輩(ともがら)も又少(すくな)からず」とあります。 上は、 其二の挿絵で、上の挿絵の左側につながっています。 |
上は、「音無川」の欄に掲載した切絵図です。挿絵には、当時有名だった扇屋と海老屋が描かれているものと思われます。 左の2枚の挿絵では、絵の上側に往来があり、下側を川が流れています。右の切絵図を参考にすると、挿絵は、扇屋と海老屋を音無川(三本の流れの中央の川)から見た絵であると考えるのが妥当です。従って、飛鳥橋は挿絵の右上の画面を外れたところにあるものと思われます。 右の写真は、上の「音無川」の欄で用いた写真ですが、二つの料理屋は、この写真の明治通りの中央から手前側にあったのではなかろうかと推測しています。 |
上は、 王子権現社(おうじごんげんやしろ)の挿絵です。 上に「あすか山」、下に「金輪寺」(王子権現社の別当)が見えます。 上の 其二の挿絵は「王子権現社」の挿絵の左側に続いています。 この挿絵には、「咲きにおう はなのけしきを 見るからに 神の心ぞ そらにしらるる 白河院御製」とあります。 右手前から「楼門」をくぐり真っ直ぐ進むと、「舞台」、「鐘楼」、「荒神」、「若一王子」、「あすか明神」、「関明神」、「白山、八まん、蔵王」を見ながら「大神宮」に至ります。「楼門」から少し左に折れてから進むと、「不断さくら」、「本地堂」、「聖宮」、「天満宮」、「清光、康家」、「番神」、「山王」、「十二所、氷川、富士」、「本社」を経て「東照大権現」に至ります。右遠景に「あすか山」が、その手前に「音無川」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「本殿(ほんでん) 祭神(さいしん) 伊弉諾尊(いざなみのみこと) 左速玉男命(はやたまのおのみこと) 右事解男命(ことさかのおのみこと) 三神鎮座(さんしんちんざ) 社記(しゃき)に曰(いわく)若一王子社(じゃくいちのおうじのやしろ)は紀伊国(きいのくに)熊野権現(くまのごんげん)を勧請(かんじょう)す。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の御宇(ぎょう)元亨(げんきょう)年中豊島(としま)何がしの主(ぬし)とかや、新(あらた)に祠宇(しう)を建(たて)て崇(あがめ)けるが、風霜(ふうそう 年月)ふり歳月(としつき)深(ふかく)して・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い楕円は王子権現、青い楕円は別当の金輪寺があったところで、現在、金輪寺は少し北西のオレンジ色の楕円の辺りに移っています。 創建については、元亨2年(1322年)領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を勧請し、若一王子宮(じゃくいちおうじ)としたことに始まり、それによりこの地は王子と呼ばれるそうです。王子権現(現在 王子神社)の詳細は猫の足あとを参照してください。 右の写真は、王子権現の鳥居です。挿絵の楼門の辺りにあるものと思われます。境内は、挿絵の時代とはかなり異なっているようです。 右の写真は、王子権現の拝殿です。塞神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」というそうです。 |
上の挿絵には、「 花鎮の祭祀(はなしずめのまつり)は、今絶(たえ)たり。ふるきを存(そん)せんかため、古図(こず)を模写(うつし)て、ここに加(くわ)う」とあります。 江戸名所図会の本文には、花鎮めの歳妃について、「此神(熊野大神のこと)を祭(まつ)るには春は花をもて祭り、鼓(つづみ)をうち笛吹(ふえふき)旗立(はたたて)て諷舞(うたいまう)て祭(まつ)る。白河院(しらかわいん)の御製に『咲きにおう・・・』とよみたまえるは花鎮めのことなるべし」とあります。 | |
上の 祭礼(さいれい)の挿絵には、以下のようにあります。
毎歳(としごと)七月十三日、神前(しんぜん)の舞台(ぶたい)において、十二番の拍板(びんざさら 薄板を重ねて作る楽器)打(うち)興行(こうぎょう)あり。此日同じ舞台へ赤得水のかける番付を掲る。左の如し。 |
現在の王子権現の例大祭は「槍祭」とも呼ばれ、毎年8月中旬に行われ、お神輿が出て田楽舞が行われるそうです。 田楽の演目は、江戸名所図会の記載と同じ十二演目(一番 中門口、二番 道行腰筰、三番 行違腰筰、四番 背摺腰筰、五番 中居腰筰、六番 三拍子腰筰、七番 黙礼腰筰、八番 捻三度、九番 中立腰筰、十番 搗筰腰筰、十一番 筰流、十二番 子魔帰)ありますが、毎年その内からいくつか選んで演じられるのだそうです。 |
上の 王子稲荷社(おうじいなりやしろ)の挿絵の中央下に「惣門」があり、右端に「弁天」があります。惣門の先の会だ左横に「垢離場(こりば)」があります。これは水垢離(みずごり)をするところです。階段を登った先に「本社」があり、その右に「神木」、「本宮」、「末社いなり」があり、左に「神楽所」があります。 本社の裏の崖の上に「いなり」が見えます。絵の右下や、中央左に「此辺茶屋多し」とあります。 江戸名所図会の本文には以下のようにあります。
|
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。王子稲荷神社の詳細については猫の足あとを参照してください。 右の写真は、王子稲荷の山門です。挿絵の惣門の位置にあります。現在、山門を入った境内は幼稚園になっており、通常、門は閉じられています。 |
上の、 装束畠(しょうぞくばたけ) 衣装榎(いしょうえのき)の挿絵には以下のように書かれています。 毎歳(まいさい)十二月晦日(みそか)の夜(よ)、諸方(しょほう)の狐(きつね)夥(おびただ)しくここに集(あつま)り来(きた)る事恒例(こうれい)にして今(いま)に然(しか)り。其(その)燈(とも)せる火影(ほかげ)に依(より)て土民(どみん)明年(あくるとし)の豊凶(ほうきょう)を卜(うらなう)とぞ。此事(このこと)宵(よい)にあり、また暁(あかつき)にありて時刻(じこく)定(さだま)る事なし。
|
上の地図の緑色の楕円は、江戸名所図会の挿絵に描かれた装束榎を移し替えた場所と言われる装束稲荷神社の場所です。装束稲荷神社の詳細については、猫の足あとを参照してください。 |
上の、 十八講(じゅうはちこう)の挿絵には以下のようにあります。 毎歳(としごと)正月十七日、王子村(おうじむら)農家(のうか)に是(これ)を行(おこな)う当日(とうじつ)、権現(ごんげん)の別当(べっとう)金輪寺(きんりんじ)の住持(じゅうじ 住職)を招請(しょうせい)し酒飯(しゅはん)の饗応(きょうおう)半(なかば)にして当番(とうばん)の百姓、杵(きね)飯鍬(しゃくし)魚盤(まないた)の三品(みしな)を携(たずさ)え出(いで)てのめそよいやさの懸声(かけごえ)をなして食(しょく)をすすむ。是(これ)此地(このち)の旧例(きゅうれい)にして、十八講(じゅうはちこう)とは昔(むかし)神領(しんりょう)十八箇村(じゅうはちかむら)ありし頃(ころ)の旧称(きゅうしょう)ときこゆ。 | |
上は、 松橋弁財天窟(まつはしべんざいてんのいわや) 石神井川(しゃくじいがわ)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右の写真は、松橋弁天跡と言われるところです。手前は石神井川です。今は護岸工事をして直線的になっていますが、昔は蛇行した川だったようです。 |
上の挿絵で、 不動の滝(ふどうのたき)について以下のように記載されています。 泉流滝(せんりゅうたき)とも云。 正受院(しょうじゅいん)の本堂(ほんどう)の後ろ(うしろ)坂路(はんろ)を廻(めぐ)り下(くだ)る事数十歩(すうじっぽ)にして飛泉(ひせん)あり。滔滔(とうとう)として峭壁(しょうへき 険しい崖)に趨(はし)る。此境(このち)は常(つね)に蒼樹(そうじゅ 青々とした木)蓊鬱(おううつ 盛んに繁る)として白日(はくじつ)をささえ、青苔(せいたい)露(つゆ)なめらかにして人跡(じんせき)稀(まれ)なり |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。青い円は現在の正受院です。正受院の詳細については、猫の足あとを参照してください。 |
静勝寺(じょうしょうじ) 亀ヶ池(かめがいけ) 五葉松(ごようのまつ)。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上の、 太田持資(おおたもちすけ)の挿絵には、以下のようにあります。 太田持資(おおたもちすけ 太田道灌)、含雪亭(がんせつてい)より士峰(ふじ)を望(のぞ)み和歌(わか)を詠(えい)ず。 我庵は 松原つづき 海ちかく 富士の高根を 軒端にぞみる 持資 | |
上の 赤羽山八幡宮(あかばねやまはちまんぐう)の挿絵の中央右に「本社」、中央少し下に「宝幢院」、「神主」があります。下の道に「河口街道」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は赤羽山八幡宮(現 赤羽八幡)で、青い円は宝幢院です。 |
上は、 川口善光寺(かわぐちぜんこうじ)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上は、 河口 鍋匠(なべしょう)の挿絵です。 | |
上は、 鍋屋の井(なべやのい)の挿絵です。 | |
上の挿絵には以下のように書かれています。
西福寺(さいふくじ) 六阿弥陀第壹番 又、上の挿絵の下中央から左へ、「仁王門」、「地ぞう」、「弁天」、「井」、「本堂」があります。上には、「としま川」、「梶原塚」が見えます。豊島川とは現在の隅田川のことかと思われます。右下の川の中に、「しゃくじ川下流」とあります。 挿絵の仁王門と本堂の間の参道の左側に、キャプション無しで六体の像が並んでいます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は西福寺です。西福寺の詳細については猫の足あとを参照してください。 右の写真は、西福寺の山門です。おそらく、挿絵の山門の位置にあるのではないかと思われます。 右は、岩清水六阿弥陀です。挿絵の六体の像と関係があるのか否かは不明です。 右の写真は、若宮八幡です。小さな公園の一角にあります。その詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上は、 梶原塚(かじわらつか)の挿絵です。 | |
紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川 地藏堂 (江戸名所図会より) 上の挿絵には、 紀州明神社(きしゅうみょうじんやしろ) 清光寺(せいこうじ) 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう) 豊島川(としまがわ) 地藏堂(じぞうどう)が描かれています。 挿絵の下側には、「 紀州明神」、「観音堂」があります。左上には「清光寺」、「釈迦堂」があり、右上には「若宮はちまん」、「じぞう堂」、「としま川」とあります。 紀州明神社について江戸名所図会の本文には「・・祭神(さいしん)は五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)三座(さんざ)なり・・・」とあります。 清光寺について江戸名所図会の本文には、「豊島村(としまむら)にあり、真言宗にして豊島権頭清光(としまごんのかみきよみつ)の開基(かいき)なり・・」とあります。 地蔵堂については「・・豊島川(としまがわ)の端(はた)にあり、亀島山専称院(きとうさんせんしゅういん)よ号(ごう)す。本尊(ほんぞん)地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は行基大師(ぎょうきだいし)彫刻(ちょうこく)の霊像(れいぞう)にして・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤は紀州神社(紀州明神)、青は清光寺、オレンジは若宮八幡です。紀州神社の詳細はこちら、清光寺の詳細はこちらを参照してください。両方とも「猫の足あと」のページです。専称院地蔵堂は板橋区に移転しています。 右の写真は、紀州神社です。紀州神社の詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。 右は、本堂です。清光寺の詳細については猫の足あとを参照してください。 右の写真は、若宮八幡です。その詳細については猫の足あとを参照してください。 |
巻之五 玉衡之部
第十四冊 神田、上野、谷中、日暮里
第十五冊 根津、駒込、王子、豊島、川口