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江戸名所図会 巻之六 開陽之部 第十六冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
上を含めた以下の5枚は、金龍山浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)の挿絵で、東から西へ順にパノラマ風に書かれています。 「回国(廻国)雑記」 「東国記行」 江戸名所図会の金龍山浅草寺の挿絵には、大通りに面して大きな門「風雷神(風神雷神門ふうじんらいじんんもん)」があります。門の手前には「手水屋」「番屋」とあります。門をくぐると、仲見世通りがあり店が並んでいます。仲見世通りの進行方向右側には「かしま」、「秋庭」、「弁天」があります。眼をずっと上に移すと「浅草川(現在は隅田川)」が見えます。 |
浅草寺の本尊は聖観世音菩薩です。本尊の謂れについては、推古天皇36年(628)に、隅田川の現在の駒形橋付近で漁をしていた二人の漁師が見つけた、と伝わっています。謂れは、後ろの方の欄にも書いてあります。 江戸名所図会の5枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。浅草寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 雷門です。風神雷神門はのことです。江戸時代の風雷神門の右横に「手水屋」と「番屋」がありますが、現在は浅草警察署雷門交番があります。 |
二十軒茶屋は、歌仙(かせん)茶屋とも云えり。昔はこの所の茶店にて「御福(ごふく)の茶まいれ」とて参詣の人を呼びけるとぞ。今は其の家のかず二十余軒ある故に俗(ぞく)是をよびて二十軒茶屋といいならわせり。 五元集 金龍山浅草寺其二には、左右に走る仲見世通りの進行方向左側(手前側)には順に「松の尾 金ひら」、「不動」、「とのかは かね 遊屋」、「くじゃく門」、「観音」、「ニ王」があります。仲見世通りの右側(向こう側)には「妙けん」、「出世大こく」、「ねはん堂」、「錦袋円」があります。画面左上には「銭瓶弁天」があります。 |
挿絵の左上の小高いところに、「銭洗弁天」があります。これは、弁天堂として現在も残っています。上の地図の赤丸の辺りです。 |
金龍山浅草寺其三では、画面手前には「伝法院」があります。仲見世通りを進むと左手に「ばんや」、「てゆや? おほし?」とあり、先に「因果地蔵」とあって、中には「人丸」、「えびす」、「地主いなり」があります。仲見世通り右手には「二十軒茶屋」、「講釈」、「平内像」、「観音 せいし」、「芝居」、「手水や」があります。そしての先に二王門があります。二王門の右に「五重塔」があり、そこから反時計回りに「輪蔵」、「随身門」、「鐘ろう」、「***」、「えま堂」があります。 伝法院は浅草寺の本坊で、小堀遠州の作庭になる庭は国の名勝に指定されています。 |
右は、左の挿絵の右下にある伝法院の正面山門で、挿絵の伝法院の右、画面の外から見ている写真です。 伝法院は、浅草寺の本坊(末寺から見た本寺)であり、貫首の居宅でもあります。また、広い庭園が有名ですが、通常は非公開で、たまに公開されるようです。 挿絵の二王門の位置には現在宝蔵門があり、二王門は明治時代に本堂の東側(挿絵の随神門の位置)に移されて二天門となっています。右の写真は、宝蔵門です。 |
金龍山浅草寺其四には、右側中央に本堂が描かれ、その周囲に右端から反時計回に「手水や」、「三社権現」、「ほうそう神」、「熊谷いなり」、「秋は」、「人丸」、「かせんや?」、「念仏堂」、「釈迦」、「十社」、「地蔵」、「笠明神」、「銭塚弁天」、「えびす だいこく」、「勅使松」、「いだてん」、「御供水」、「寅やくし」、「番屋」、「山王」、「びしゃもん、かすが、八まん、ふげん、もんじゅ、第六天」、「神馬や」があります。 江戸名所図会の本文では、三社権現について以下の様に書いてあります。 本堂より艮(北東)の方にあり。土師臣中知ならびに家人檜前浜成・ 武成等の霊をあわせ崇祠(まつ)る。すなはち当寺の護法神とす。 世に三処(さんしょ)の護法ともいへり。神体は慈覚大師の作とぞ。当社は浅草 の惣鎮守にして、祭礼は三月十八日、隔年に執行(しゅぎょう)あり。三社の来由は 本尊縁起のうちに詳らかなれば、ここに略す。傍らの堂に荒沢不動尊 ・歓喜天等を安置す。 |
右は、浅草寺本堂です。浅草寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 挿絵の右上にある三社権現は現在、浅草神社と呼ばれています。右は、浅草神社の鳥居です。 右は、本殿です。浅草神社の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
法威よく衆生の憂ひを救ふ 小白華山彼岸の舟 もし馬郎を把って水を渡らしめば まさに海底に泥牛あるに同じかるべし 羅山子(らざんし) 金龍山浅草寺其五には、絵の右から左に向かって、「「くまの」、「古碑」、「えんま」、「芝居」、「ごま堂」、「みこしや」、「じぞう」、「芥の助」、「水葉や」、「なめし茶や」が複数、「若宮いなり」、「揚弓」があります。また、更に遠景に「富士(権現)」があります。 | |
上の挿絵はには、六月十五日祭礼之図とありますが、本文にはこれに関する記載がありません。 三月に行われていた三社祭(現在五月)の田楽舞・ びんざさらの舞の祭礼とはまた別に五月に行われていたのかもしれませんが、この祭礼についてはどうやら、現在不明なようです。 「びんざさら」とは何かというと、浅草神社のホームページによると、「『びんざさら』は『編木』『拍板』などと書きます。竹、あるいは木の薄片数枚から百枚前後の上部を紐で束ねた楽器で民俗芸能の中でも田楽系統の踊りに用いられています」とのことです。 |
現在、三社祭は5月17、18日に近い金曜日に御輿神霊入れを行うような日程として、行われているようです。その中で行われるびんさら舞は、五穀豊穣を祈願して行われる田楽の一種です。写真は、浅草神社のホームページから借用しました。 |
上は、節分会(せつぶんえ)の挿絵です。 | |
上は、兵藤平内兵衛 (ひょうどうへいないひょうえ)二王座禅像(におうざぜんのぞう)の挿絵です。 | |
上は、鎌田正清(かまたまさきよ)造立(ぞうりゅう)六地蔵石灯籠(ろくじぞういしとうろう)の挿絵です。 | |
上の挿絵には、「境内楊枝を鬻(ひさ)ぐ店甚(はなはだ)多し。柳屋(やなぎや)と称するものをもて本源(ほんげん)とす。されど今は其(その)家号(いえな)を唱ふるもの多く、竟(つい)に此の地の名産とはなれり。僧祇律(そうぎりつ)に楊枝に五つの利あることを載せて云わく、 一に苦からず 二に臭からず 三に風を除き 四に熱を去り 五に痰をのぞく とあり」と書かれています。 絵の中央右に、商っている女性が楊枝のデモンストレーションをしているようです。 |
なお、左の挿絵では分かりづらいのですが、楊枝とは、房楊枝(ふさようじ)のことで今の歯ブラシにあたるものです。棒状の木や竹の片側を潰して揃えて作りました。幕末から明治にかけて活躍した月岡芳年の書いた下の浮世絵で、女性が手に持っているのが房楊枝です。 |
上の挿絵には、中央に「いちのごんげん 一権現」、「槐(えんじゅ)」が書かれ、上の方に、「うばがいけ 姥が池」と「弁天」が書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図のオレンジ色の楕円の辺りです。 |
十二月十八日年の市の挿絵は「観音堂の西面より念仏堂の方を望む図」とあります。 |
歳の市は現在、羽子板市とも呼ばれ、毎年12月17日~19日に浅草寺境内で行われています。写真は、浅草観光連盟のホームページから借用しました。 |
馬市(むまいち)の挿絵には「藪の内といえるにあり。毎歳十二月なかばのころ、南部駒三歳立(さんさいたち)なるをここに出して売り買いす」とあります。道の両側には「桟鋪(さじき)」があります。 | |
上の挿絵には、「浅草寺(せんそうじ)観音大士(かんのんだいし)の出現ありしは、推古天皇三十六年戊子三月十八日なり。土師臣(はじのおみ)中知(なかとも)を呼び、檜前(ひのくまの)濱成、武成等の主従三人、ここの宮戸川に網を下ろして此の本尊を得奉りしよし縁記の中に詳らかなり」とあります。 |
浅草寺のホームページでは、以下の様に縁起を紹介しています。 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、 檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。 |
上の挿絵には「往古(そのかみ)土師臣(はじのおみ)中知(なかとも)を呼び、檜前(ひのくまの)濱成、武成等の主従、浅草川に網して観音大士の霊像を感得せし頃、此の地の草刈(くさかり)集(あつまり)て、藜(あかざ)をもて仮の御堂を作り、其の内に彼の本尊を安置し奉りけるといい伝う。其の旧跡は今の東谷(ひがしたに)一の権現(いちのごんげん)の地なり。草刈は後、神に奉じて十社権現といつきまつれり」とあります。 |
一の権現というのは、上の姥が池の項に出てきましたが、現在はありません。 十社権現は、浅草寺の境内社として祀られているはずですが、私は確認していません。 |
上の挿絵には、「この碑では *をあはれまぬ 蛍かな 其角」とあります。 江戸名所図会の本文には「往古(むかし)は此所に浅草寺の総門ありしという」とあります。 絵の中央に「駒形堂」、「禁殺碑」があり、右に「並木町」、左に「いなり」があります。手前の川は大川(隅田川)です。 表題にある清水稲荷はこの「いなり」と書かれた神社かと思われます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、駒形堂はありますが、清水稲荷はありません。 右は、駒形堂を浅草通りの反対側から見ている写真です。駒形堂の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 右は、駒形堂です。推古天皇の時代、隅田川で漁をしていた兄弟の網に観音像がかかり、その像を祀る小堂を建てた、というのがこの駒形堂である、という言い伝えが残っています。 右は、戒殺碑です。左の挿絵では禁殺碑となっています。「戒殺碑」は、「十町余の川筋で魚介の殺生を禁じる」という趣旨で、五代将軍綱吉の生類憐れみの令の時代に建立されたものです。 |
上の挿絵には、「弘法大師東国遊化(ゆうげ)のみぎり、武蔵の国に至り一つの小坂にかかりたまう時に、一老女の遠く水を運ぶあり。大師深く是をあわれみたまえば、忽然として清泉湧出せるよし江戸名所記に出たり。今、東叡山(とうえいざん)寒松院(かんしょういん)の境内にある所の清水を云うならんや」とあります。 | |
上の挿絵の中央下に「諏訪明神」があり、上の方に「みしま明神」とあります。「みたらし」とあるのは池でしょうか。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。なお、諏訪明神社は赤色の楕円、三島明神社は青色の楕円で表しています。三島神社(現 寿三島神社)の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 右は、諏訪神社(諏訪明神社)の鳥居と本殿です。上の地図の赤丸の辺りです。諏訪神社の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の絵に「正覚寺 一(ひとつ)に榧寺(かやてら)ともいえり」と書かれており、絵の右側に「かや寺」、「方丈」が描かれています。「八幡宮」は絵の左側です。手前の道は現在の江戸通りで、手前右にわずかに見える川は隅田川で「御馬や渡し」と書いてあります。 上の地図は、江戸後期の地図です。挿絵の視線は下の少し左方向からです。榧寺も八幡宮も現在の江戸通りに面しています。しかし、右の欄の写真から、後の時代に、それぞれ境内が削られたことが分かります。なお、下の川(隅田川)に「御厩(おうまや)渡し」と見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、正覚寺(榧寺 かやでら)の門柱です。この門柱は、江戸通りとほぼ直角に交わる春日通りに面しており、江戸名所図会の様子とは異なります。 右は、榧寺の本殿です。榧寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 右は、八幡宮(現在は蔵前神社)の鳥居です。江戸道りから一本西の道に面してています。参道が少し削られたようです。 右は、拝殿です。蔵前神社の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の御厩河岸渡(おむまやかしのわたり)の向こう岸左から、「椎木やしき」、「駒留石」、「「駒留はし」があります。駒留橋は、両国橋東詰の少し北にあります。 | |
上の挿絵には、右側に「長延寺(ちょうえんじ)」があり「本堂」が描かれています。左側は祇園社(ぎおんのやしろ)で、別当の「大円寺(だいえんじ)」、「牛頭天王」、「十王堂」が見え、牛頭天王の前に「神木」があります。 | |
上の挿絵には、祇園会(ぎおんえ)篠団子(ささだんご)と題し、「毎歳六月八日の暁、是を修行す。氏子の家々にて団子を製し悉く篠の枝につけて是を宝前(ほうぜん)に供す。時に、諸人争いこれをとり得て家内に収め置き疫災(えきさい)を除くの守護とす」と書かれています。 絵には中央に「牛頭天王御祭礼」の幟が立ち、大変な賑わいを呈しています。篠には丸いものが付いていますが、これが団子でしょう。 | |
上の挿絵には、右上から順に「いなり」、「本社」、「金ひら」とあります。いなりとあるのが篠塚稲荷のことかと思います。第六天は「本社」でしょうか。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。第六天は現在はありません。 右は、篠塚稲荷です。その由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の挿絵は西福寺(さいふくじ)です。手前の道から山門を潜り参道を進み、途中左に折れ、左に「弁天」、右に「塔中(たっちゅう 塔頭)」を見ながら正面に「本堂」に至ります。本堂から右に「方丈」、「庫裏」があり、「塔中」が幾つかあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在は、寺域がかなり削られたようで赤丸の辺りに西福寺境内があります。 右は、西福寺の本殿です。西福寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の「新堀潟(しんほりかた)」の挿絵には、右から順に、「常念寺」、「東漸寺」、「龍宝寺」が並んでいます。手前は堀になっており、現在は、新堀通りです。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた常念寺(浄念寺が正しそうです)は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。この辺りは現在新堀通りです。東漸寺は今ありません。 右は、浄念寺です。浄念寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の2枚の挿絵は、東本願寺のパノラマです。1枚めの右下に「惣門」があり、参道が左上に延びています。左右に「塔中」を見ながら参道を進むと「唐門」があります。その先が「本堂」で本堂の左には「鐘」、「西門」があり、本堂右側には、「庫裏」、「玄関」、「方丈」、「内玄関」、「書院」があり、中央奥に「裏門があります。左から右下に流れている川は「**川」です。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、東本願寺の門柱です。江戸時代は浅草通りに面していましたが、現在は一区画奥まったところに門柱があります。 右は、東本願寺の本堂です。江戸時代、本願寺の境内は現在の数倍の広さだったようです。東本願寺の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 |
上の挿絵には「報恩講 俗に御講(おこう)という」とあり、「平等に渡せるはしやお霜月 西山宗因」とあります。 | |
絵の左に「報恩寺」の「表門」、「裏門」か書かれ、その手前には「清光寺」があります。右は「田原町」です。上のはるか先に「浅草寺」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。但し、報恩寺は現在存在しませんが青い楕円の辺りだったものと思われます。赤い円は清光寺です。 |
上の絵で、中央の広い区画に「誓願寺」が、左上に「日輪寺」が、左下に「正定寺」があります。中央下を右上に向かう道に「東本願寺裏門」があり、右下は「東本願寺塔中」です。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い楕円が誓願寺のあった場所ですが現在は存在しません。青い楕円は日輪寺です。紫の楕円は東本願寺です。 |
上の海禅寺の挿絵の左上に「海禅寺」、「方丈」、「客殿」があります。その右には「東光院」、「称往院(しょうおういん)」、「天嶽院(てんがくいん)」があり、左中央から右へ、「慈眼院(じげんいん)」、「本覚寺」、「聖徳寺」、「実相寺」、「清水寺(せいすいじ)」があり、挿絵の右下に「祝言寺(しゅうげんじ)「松源寺」、「隆光寺」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い楕円が海禅寺です。 |
上の挿絵には以下のように書かれています。 建長二年の秋、性信坊(せいしんぼう)夢想(むそう)によって自ら過去生(かこしょう 前世)の枯骨(ここつ)の所在(しょざい)を知り、 奥州信夫郡(しのぶこおり)土湯山(つちゆさん)に至(いたる)時に、一(ひとり)の猟人あり。 師(し)云く、此(この)松下(しょうか)に我(わが)過去生(かこしょう)の枯骨あり。汝是を掘て得さすべし、と。 猟人(りょうじん)云く、我(われ)業(ぎょう)をなさざれば明日の糧なし、とて肯(うべな)はず。 依て性信坊猟者の持(もつ)ところの弓箭(きゅうせん)をとって石上(せきじょう)に投すれは、其箭(や)おのれと発(はっ)し一(ひとつの)鹿を射たり。師則(すなわち)是をあたふ。 猟人驚ひて其凡(ぼん)ならさるを悟り、直(ただち)に松下(しょうか)を穿(うが)ち既にして枯骨を得たれば、 性信坊歓喜踊躍(かんぎゆやく)し竟(つい)に其地を封(ふう)じて一(ひとつ)の精舎(しょうじゃ)を営み、 号(なづ)けて法得寺(ほうとくじ)といひける。 | |
上の、広徳寺(こうとくじ)の挿絵の左上から右に、「牌堂」、「客殿」、「方丈」、「鐘」、複数の「塔中」があり、中央下に「表門」、その左右に複数の「塔中」があります。画面の下は「下谷大通(現在の浅草通り)」です。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。広徳寺は現在ありません。 |
江戸名所図会の本文には、下谷(したや)稲荷明神社は、別当は正法院で、祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である、とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 下谷稲荷明神社は現在下谷神社と呼ばれています。神社のホームページによると、祭神は大年神 (おおとしのかみ)で、天照皇大神の弟である素戔雄尊 (すさのおのみこと)の子、とされており、江戸名所図会の記述とは異なります。 右は拝殿です。下谷神社の由緒・詳細については猫の足あとを参照してください。 右は、境内にある下谷稲荷社です。隆栄稲荷神社で、祭神は宇賀魂命とあります。江戸名所図会は、こちらの神様を書いていたのかもしれません。 |
江戸名所図会(えどめいしょずえ)の中のページ
第十六冊 浅草、下谷、駒形 このページです
第十七冊 上野、入谷、根岸、千住