アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之ニ 第六冊
江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 の内容
第四冊 品川、鈴ヶ森、大森、蒲田、六郷
第五冊 川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間
第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢 (このページ)
江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 第六冊
横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
上の挿絵の中央に「弁天」があり、これが横浜弁財天社(洲乾弁財天社)です。中央少し上に「横浜」が、その先に「本牧塙(ほんもくのはな)」が見えます。手前右に「芒村(のげむら)」左に「姥島(うばしま)」があります。中央左側に象ケ鼻(砂州 現在「象の鼻」と呼ばれる)が控えめに書かれています。眼を上に転じると、遥か向こうに「安房(あわ)、上総(かずさ)」が見えています。 |
江戸名所図会の挿絵の弁財天社は上の地図の緑色の楕円の辺りにありました。現在は、その少し南の赤色の円の辺りにあり、厳島神社となっています。 上の地図で水色の破線は、図会の時代の海岸線を図会の挿絵やその他資料を元に推定したものです。みなとみらい線の馬車道駅辺りで桜木町駅の方向に飛び出しているのが大岡川と中村川とによってできた象の鼻の呼ばれる砂州です。弁天社は象の鼻の少し南側の出っ張りにありました。 なお、横浜市役所や横浜スタジアム一帯は未だ海の中で、その後、太田屋新田として埋め立てられたところです。JR根岸線(当寺は海の中)の少し南西側に示した海岸線の陸側は後の吉田新田ですが、図会の時代は左の挿絵から分かるように、未だ干拓のための仕切りの道(土塁)が延びているだけだったようです。 また、手前にある姥島は、現在の桜木町駅の周辺(上の地図のオレンジ色の楕円の辺りのどこか)にあったものと思われます。つまり、左の挿絵は、桜木町駅上空から東側を俯瞰した図です。 右は、厳島神社の本殿です。厳島神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
芒村(のげむら)と姥島(うばしま)を反対方向から見ている絵です。「芒村 姥島 此の地より海苔を産すといえども品川に勝らずという」という説明が書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵の姥島は上の地図のオレンジ色の楕円の辺りにあったのではないかと推測されます。青い太い矢印が視線の方向です。
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本牧塙(ほんもくのはな)にある十二天社(じゅうにてんのやしろ)が書かれています。鳥居の奥に「拝殿」「本殿」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵の十二天社は上の地図の右上にあるオレンジ色の楕円の辺りにあったのではないかと推測されます。青い破線は江戸時代の海岸線を推定したものです。本牧の海岸に飛び出した鼻のようなところにありました。 十二天は現在存在せず、本牧神社として上の地図の緑色の楕円の辺り本牧和田に移されています。元の地には、右のような小公園があり、当時の説明を書いたパネルが多数置かれています。 右は、そのうちの1枚です。このパネルには、この地の昔の様子、年代ごとの地図が書かれています。 十二天は南西の方向に1km程のところ(上の地図の緑色の楕円の位置)に遷され、本牧神社として、右のような威容を誇っています。 右は本殿です。本牧神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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手前の路に「本牧原宿」とり、その少し上の大きな樹の下に「いなり」があります。絵の中央の鳥居をくぐり抜けると「神木」があり、その先に「本社」があります。本社の脇に「いなり」があります。絵の左上側に「天神森」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵の吾嬬権現宮は、上の地図の右下にある赤色の楕円の辺りにありました。青い破線は江戸時代の海岸線を推定したものです。 右の写真は吾妻神社の本殿です。吾妻神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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この挿絵は、上の挿絵の左側に続いているようです。絵には以下のような説明があります。 |
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杉山明神社は上の挿絵の中央上の方に「杉山社」と書かれています。画面右下の山門をくぐり階段を登ると「法性寺」「七面」とあります。法性寺(ほっしょうじ)は杉山明神社の別当でした。 江戸名所図会の本文には「杉山神社 新町より八町あまり北の方下星川村にあり。延喜式内の神社にして 云々」と書かれています。延喜式とは、Wikipediaによると、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つ、だそうで、延喜式の神名帳に記載がある神社は当時朝廷から重要視された神社なのだそうです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。視線方向の手前に法性寺があり、水色の円の辺りが杉山神社です。相鉄線星川駅の西側です。 右は杉山神社の鳥居の前から本殿を見ている写真です。江戸名所図会の左上にある鳥居かと思われます。 右は杉山神社の拝殿です。杉山神社の由緒の説明板では「多摩川以南、都筑・橘樹・久良岐三郡において唯一の式内社」であることが記されています。杉山神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は杉山神社の別当寺(江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺)法性寺の参道入口です。 法性寺の山門から本堂を見ています。参道の階段を登り切ったところかと思われます。法性寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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挿絵の中央に帷子川(かたびらがわ)があり「帷子橋」が架かっています。この辺りは程ヶ谷宿の中です。 江戸名所図会の本文には「帷子川 宿の入口を流れており、帷子橋という板橋が掛かっている。この川は、白根(横浜市旭区白根)の辺りから戸部(横浜市西区戸部町)を通り海に注いでいる」との旨が書かれています。
安藤広重の東海道五十三次之内の保土ヶ谷です。当時の帷子橋が描かれています。江戸名所図会の絵に比べてかなりデフォルメされているようです。
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江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸時代には帷子川は今より南側を流れていました。相鉄線の天王町駅前広場の辺りです。 右は現在の帷子橋で、橋から上流を見ています。当時の位置に比べ、北へ百数十m移っています。
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平安紀行 江戸名所図会の本文には「帷子里(かたびらのさと 横浜市保土ケ谷区帷子町) 芝生村(しぼうむら 横浜市西区浅間町)の南にあり昔は宿駅の名前だったが、今は程ケ谷の駅(宿のこと)の一部である」と書かれています。 上の挿絵の下側の道は旧東海道です。右上を流れているのは帷子川です。その下流(手前側)に「こうろき橋?」があります。その辺りは「神戸(こうど)古町」となっています。こうろき橋を通る道(絵の中央を横に走っている道)は旧東海道の更に古い東海道で、古町街道(江戸名所図会では「こまちかいどう」、現在は「ふるまちかいどう」)です。旧東海道の右端に「一の鳥居」とあるのは絵の左上にある神明宮の鳥居です。そこから長い参道の先に神明宮があります。そこには「神名」と書かれた本殿があります。境内社として本殿の両脇に、「日の宮、月の宮、宙の宮」、「*明神、切部皇子、風の宮、*宮」、「山王」「春日」とあり、手前に「山神」「*殿」、更に下って「大神宮」「弁天」と書かれています。画面左から右に流れている川があり、その向こう岸には「二鳥居跡」とあり、手前には「いなり」があります。 江戸名所図会の本文では神明社は「大神宮」として説明されています。大神宮と神明宮との関係はよくわかりませんが、現在神明神社が祀っている豊受大神宮と境内神社のうちの豊受大神宮のことかもしれません。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い破線は旧東海道です。 右の写真は神明神社の鳥居です。おそらく、江戸名所図会の絵の二鳥居跡の辺りに位置するのではないかと思われます。 右の写真は神明神社の拝殿です。神明神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、拝殿の向かって左にある境内社の一つです。「月読社(つくよみしゃ)」と「風宮(かぜのみや)」です。 更に奥にある境内社です。「切部之王子社(きりべのおうじしゃ)」と「日之王子社(ひのおうじしゃ)」と「鹿島社(かしましゃ)」です。 拝殿の向かって右にある境内社の一つです。手前から順に「厳島社(いつくしましゃ)」、「見目社(みめしゃ)」、「白鳥社(しらとりしゃ)」、「火産社(ほむすびしゃ)」、「山王社(さんのうしゃ)」、「山神社(やまがみしゃ)」、「雷神社(らいじんしゃ)」と見えます。なお、豊受大神宮は本殿の向かって右に並んで置かれています。 右は旧古町橋(ふるまちばし)跡辺りの交差点の写真です。旧古町橋は、古町街道(ふるまちかいどう 江戸名所図会の本文では「こまちかいどう」)の帷子川に架かっている橋で、江戸名所図会の絵では「こうろき橋」と読める橋です。上の地図の青い円のところです。
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境木(さかいぎ)について江戸名所図会の本文では「立場(たてば)にして道より右に武蔵相模の国界(くにさかい)の傍示(ぼうじ)を建るが故にこの称(しょう)あり。此の地牡丹餅(ぼたんもち)を名産とす。これを製する店両三家あり」と書かれており、絵にもその一部の文が書かれています。 上の挿絵の中央は東海道で、左が江戸側、右が京側です。左手前は「地藏堂」とあります。画面中央の頁の境目の手前側に四角い柱がありますが、これは「境木」で、武蔵国と相模国の境を表しています。東海道の向こう側は、何を売っているのかよく分かりませんが店が並んでいます。牡丹餅(焼餅)を売っている店もあるのでしょう。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い破線は旧東海道です。 右の写真は、店の並んでいる辺りのようです。現在は広場になっていて、大きな楠の木(当時もあった木かもしれません)と説明板があります。 右は、地藏堂です。この日は4月8日花祭りで飾り付けがされており、子供達が大勢集まっていました。 右の写真は、現在の境木(国境の表示)です。地藏堂の前にあり、江戸名所図会の絵とほぼ同じ方向から境木を見ています。
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上の挿絵には、科濃坂(しなのさか) 権太坂(ごんたさか)とも云う、と書かれています。本文では品野坂と表記されており、信濃あるいは科野とも書かれる、とあり、俗に権太坂と呼ぶ、とも書いてあります。 上の絵は、葛飾北斎の富嶽三十六景東海道程ヶ谷です。この絵は、権太坂から品濃坂迄の間のどこかを表した絵だと思われますが、その場所についてはいろいろと議論されているようです。 | 江戸名所図会の挿絵には品濃坂が書かれていますが、坂の名称がはっきりしないため、この絵の書かれた場所は本当はどこか、というのが問題になります。 現在の各坂の名称は、上図のようになっているようです。赤い破線は旧東海道で、程ヶ谷の方から(右上から)順に、黄色が権太坂(一番坂)、オレンジ色が権太坂(二番坂)、緑色が焼餅坂(牡丹餅坂)、青が品濃坂です。品濃坂の西側1km弱にJR東戸塚駅があります。 上の地図から分かるように、現在の品濃坂と権太坂はかなり離れており、間違いがおきることはなさそうな感じもします。従って、例えば、権太坂というのは当時坂の広い範囲を示す呼び名であったなどと想像することもできます。 なお、箱根駅伝で有名な権太坂は、旧東海道の権太坂の少し南を走っている国道1号線(上の地図では東海道)にある坂を指します。 右は投込塚です。厳しい権太坂で命を落とした人が多く、亡くなった人や馬を葬った、という言い伝えがあるそうです。 焼餅坂を下った後上りきった辺りにある一里塚です。右側にある塚です。 これは、左側の塚です。左右揃って残っている一里塚は珍しいそうです。この先もう少し進むと品濃坂です。
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上の挿絵では、右上に 乗蓮寺(じょうれんじ)があります。右側の山門を入ると右手に「二位禅尼影堂(にいのぜんにえいどう)」があり、正面に「本堂」その左に「庫裏(くり)」 があります。絵の中央に住吉明神社(すみよしみょうじんのやしろ)があり、手前から右上方向に参道が延び、鳥居の先に「拝殿」「本社」とあります。拝殿の左に「秋葉」「神楽殿」が見えます。 江戸名所図会の本文では、乗蓮寺については、西光山乗蓮寺と 号し古義真言宗だ、とあります。又、この地は禅尼(北条政子)の所領であったため影堂を建てたのが乗蓮寺の始まりと伝わっているそうです。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上図の青色の楕円の辺りです。緑色の楕円が常乗蓮寺で、赤色の楕円が住吉神社です。両者の位置関係は図会の時代と同じです。 右は、乗蓮寺の門柱で、図会の山門の位置にあるようです。左の挿絵ではよく分かりませんが、境内は道路よりも一段高くなっています。 階段を登った正面にある本堂です。乗蓮寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 階段を登ったところの右側にある、北条政子お手植えと伝わっている榧(かや)です。樹齢800年に近いようです。 右は、本殿です。住吉神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、境内社の秋葉神社です。図会には鳥居の左側に「秋葉」と書かれていますが、現在は、鳥居の右側にあります。 右の写真は、右から順に、庚申塔、猿田彦大神、御嶽神社、不動明王です。秋葉神社の横に置かれています。
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上は、 青木明神社(あおきみょうじんのやしろ)です。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上図の青色の楕円の辺りです。青木明神社は現在、青木神社と呼ばれています。 右は、挿絵と似たアングルで撮ってみました。写真中央は、大岡川に架かる青木橋です。青木神社はその先の木の向こうにあります。 右は、青木神社です。青木神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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上の弘明寺(ぐみょうじ)の挿絵の、左下の参道を進むと仁王門「仁王」があり、更に階段を登った所に観音堂「観音」があります。観音堂の手前の左右には、閻魔堂「えんま」と鐘楼「かね」があります。画面右に「本堂」があります。観音堂の左には階段があり、熊野権現社「くまの」に至ります。 図会の本文にでは、瑞應山(ずいおうざん)弘明寺は、弘法大師開創で、古義真言宗。本尊は十一面観世音菩薩で本堂に安置。仁王門の仁王像は運慶作などと書かれています。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上図のオレンジ色の楕円の辺りです。水色の楕円が現在の弘明寺です。昔は大変広大な敷地を持っていましたが、明治の廃仏毀釈運動での削減、京浜急行が敷地の中を通ったことなどで、面積は往時の2割り程度になっているようです。 弘明寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、弘明寺の仁王門です。仁王門は江戸時代に創建され、平成に入って改修されたようです。 右の本堂は、図会の時代の観音堂に位置にあり、形も観音堂に似ています。本堂は江戸時代中頃に再建され、昭和51年に屋根が改修されたということですので、観音堂がそのまま本堂になったということかと思います。 右は鐘楼で、梵鐘は江戸時代中期に再度作られたもののようです。 右は、楓関門(ふうかんもん)です。室町時代の建立で、昭和初期に再築、平成に大改修があったそうです。
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上は、 神明宮(じんめいぐう)の挿絵です。 | 挿絵の神明宮は現在の杉田八幡神社であると説明されていることが多いのですが、その根拠が分かりませんので、ここでは記述を止めておきます。 |
杉田村梅園(すぎたむらうめその)の挿絵には「梅が香に はらふくるるや 帆かけ船 蓼太」とあります。 絵の磯沿いに右から「中里」、「杉田村」、「妙*寺(妙法寺か?)」、遠景に「三浦 三崎」、「房州」、「妙見山」が見えます。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上図の緑色の楕円の辺りだろうと思います。水色の破線は江戸時代末期の海岸線です。赤色の楕円が妙法寺です。 右は、妙法寺の本堂です。妙法寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、 杉田村海鼠製(なまこをせいす)の挿絵です。 |
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うえは、 能見堂(のうけんどう)擲筆松(ふですてまつ)の挿絵です。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上図の緑色の楕円の辺りだろうと思います。 |
上は、 金澤勝景一覧之図(かなざわしょうけいいちらんのず)の挿絵には「 能見堂より平臨(へいりん)する所の図なり」とあります。 上の挿絵から続く3枚はパノラマ図になっています。能見堂から見える金沢の景勝地を描いています。1枚目は真北の方向です。「金龍院」の手前に現在の金沢八景駅があります。「瀬戸明神」は現在の瀬戸神社です。手前は「内川」です。 上の、金澤勝景一覧之図(かなざわしょうけいいちらんのず)其二の右ページ中央の「洲崎」から道が右に伸び、「瀬戸橋」につながっています。「上行寺」、「弁天」、「瀬戸橋」、手前には「君が崎」とあります。中央の洲崎の辺りには「龍華寺」、「天然寺」が見えます。左端に「野島」があり、中央が平潟湾です。野島の、上に「烏帽子島」があり、右に「平潟」と「野島渡し」、下に「町屋村」が見えます。平潟湾の手前に野島渡し、向こう側に「三艘浦」が見えます。 上の、金澤勝景一覧之図(かなざわしょうけいいちらんのず)其三の右端少し上に見えるのは其二に書かれている野島です。遠景に、「房州」の「鋸山」が見え、その手前に「猿島」「夏島」が浮かんでおり、手前のj岸には「金沢文庫旧跡」、「称名寺」があります。 |
金沢は江戸時代以降埋め立てが進んだため、当時の様子は今とはかなり違っていたようです。 右の図は、はまれぽ.comの「今よりももっと広く複雑な地形だった金沢の海」にあるマップです。 横浜市のホームページの子供用のページに神奈川県立金沢文庫の向坂卓也の書かれたイラストがあります。 右の図です。とても分かりやすいイラストです。 |
上の二枚の挿絵には称名寺(しょうみょうじ)が描かれています。一枚目の中央には「総門」があり左上方向に参道が伸びており、「二王門」の先には絵の其二の「本堂」に続いています。外側から総門を潜った左右に「光明院」「観音」があります。 二王門と本堂の間(其二)の両側には池があり、左側には「美女石」「姥石」と二つの岩が見え、右側には「天神」、岸に「西湖梅」と見えます。本堂の右側には「経堂」があり、左側奥に「阿弥陀院」、「禎顕廟」があります。 江戸名所図会の本文には、「金澤山(きんたくさん)稱名寺(しょうみょうじ) 町屋(まちや)村にあり、弥勒院(みろくいん)と号す。真言律にして南都の西大寺に属す。当寺は亀山帝の勅願所にして、北条越後守平実時(さねとき)の本願、其の子顕時(あきとき)の建立なり・・・」とあります。 北条実時は鎌倉中期の武将で金沢(かねさわ)流北条氏の祖とされています。本願とは開基(大旦那、スポンサー)を意味し、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が称名寺の起源のようです。 |
江戸名所図会の称名寺の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 称名寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 総門をくぐり進むと 右の写真のような仁王門(二王門)があります。 阿字ヶ池のほとりにある「美女石」です。昔は江戸名所図会の挿絵にあるように「美女石」「姥石」と二つの石があったのですが、現在は一つしかありません。もう一つは行方不明なのだそうです。 阿字ヶ池を渡ると金堂があります。江戸名所図会の其二の本堂の位置にあります。 右の写真は、江戸名所図会の称名寺の挿絵の右端にある薬王寺の山門です。薬王寺は、真言宗です。
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金澤顕時墓(かなざわあきときのはか)の挿絵には、「金澤顕時墓」「金澤貞顕墓」が書かれています。 挿絵、称名寺其二の左奥に書かれれいます。 | |
江戸名所図会の挿絵には「 六浦妙法日荷上人(むつうらみょうほうにっかしょうにん) 称名寺の住僧(じゅうそう)と戯れに碁を囲み彼の寺の二王尊(におうそん)を賭物(かけもの)とす。上人勝ちたりければ終(つい)にこれを負うて甲州身延山へ至られたりしと云う。大力無双の人なり」と書かれています。 |
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江戸名所図会の本文には「 金澤文庫(かなざぶんこ)旧跡 阿弥陀院(挿絵、称名寺其二の左奥)の後ろの畠をいう」とあります。また、「御所ヶ谷(ごしょがやつ) 阿弥陀院の後ろの切通しを出る畠を云う。里俗(りぞく 土地のならわし、言い伝え)云わく亀山帝の行宮(かりみや)の跡なりと・・・」 |
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上の挿絵には 町屋村(まちやむら)の龍華寺(りゅうげじ)が描かれています。右側から参道に入ると左右に塔頭(たっちゅう 院内の寺院)があります。そのまま進むと 半時計方向に「本堂」、「庫裏」、「かね」があります。 挿絵の上側には「汐濱」とあり、海が見えます。挿絵の手前側には龍華寺から道(金沢道か)を挟んですぐの所まで内海(瀬戸入海又は内川入海)が迫っています。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、この辺りは埋め立てられており様子が変わっています。龍華寺の西側は波打ち際でしたし東側は金沢シーサイドラインまで海でした。 右の写真は龍華寺の参道です。左の挿絵の入口の道路(金沢道か)に当たる場所で撮りました。ただし、現在は、道路がクランク状ではなく、上の地図から分かるように滑らかなカーブを描いています。 右の写真は龍華寺の本堂です。龍華寺の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の浦の郷(うらのごう)の挿絵には、右ページに「猿島」、「夏島」、「烏帽子島」が書かれており、左ページに「野島」が書かれています。なお、挿絵には以下の様に鎌倉記行の歌が引用されています。
鎌倉記行 風折(かざおり)は、烏帽子島を風折烏帽子(かざおりえぼし 先端部分を折った烏帽子)に喩えたものかと思われます。 | 浦の郷の挿絵は、夏島、烏帽子島、野島の位置関係から、現在の六浦駅の方向の高いところから見た絵かと思われます。ただし、猿島を加えると視線の方向が曖昧になります。どこかの上空を想定して書いたのかもしれません。なお、浦の郷というのは、金沢区のすぐ南の横須賀市浦郷町(うらごうちょう)のことかと思います。そこだとすると、左の挿絵の烏帽子島の少し右に見える岬あたりになります。 |
上の瀬戸橋(せとばし)と下の其二はパノラマになっています。 上の其二には、瀬戸橋西詰北側に「料亭東屋(あずまや)」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「瀬戸 洲崎と引越村(ひきこしむら)との間を云う・・・」とあり、瀬戸橋については、「瀬戸橋 同じ入江に架す。中間に台(うてな)を儲(もう)け、橋杭を用いずして長さ二間あまりの橋二つを渡したり・・・」とあります。 上は、天保7年(1836)頃の歌川広重の浮世絵です。瀬戸橋を、江戸名所図会の挿絵とは逆の、北側から見ています。 |
左の2枚の挿絵に書かれた範囲は、現在の瀬戸橋のあるところ、つまり、上の地図の緑色の楕円の辺りだろうと思ったのですが、ここで疑問が湧きました。 それは、次のようなことです。 左の江戸名所図会の二枚の挿絵によると、料亭東屋(あずまや)は瀬戸橋西詰の北にありました。 しかし、東屋跡を示した説明板が現在の瀬戸橋の50m程東(上の地図の赤い楕円の辺り)にあります。右の写真です。つまり、江戸名所図会の時代の瀬戸橋は現在よりも50m以上東にあったことになります。写真の左側のNetzの看板の先に現在の瀬戸橋があります。 右は、明治憲法起草の地の説明板です。伊藤博文らが明治憲法を起草するために集まった料亭東屋の跡、といして説明されています。この説明板を信じると、瀬戸橋の位置が変わったことになります。本当でしょうか。 なお、右の写真は、現在の瀬戸橋です。上の写真の位置から少し西に移動して撮りました。 上の疑問を解くため、瀬戸橋の近くを描いた絵を少し調べてみました。右は、国立国会図書館デジタルコレクションにある「武州金澤八景旧新三図」の1枚、「西湖之八景武之金澤模写図」の一部で、文政十年(1827)の記載があるため、その頃の図かと思われます。北東から見た絵で、東屋が、江戸名所図会と同じく、瀬戸橋の西詰北側にあることが分かります。ただし、この図は全体的に正確さには少し欠けるように見えます。 右は、同じく、「武昌金澤八景之図」の一部で、江戸後期の絵のようです。南西から見た絵で、上の図と同じく、東屋は瀬戸橋の西詰北側にあることが分かります。 右は、同じく、「武陽金澤八景之図」の一部です。この図には明治九年との記載があります。南西から見た絵で、上の二枚の図とは異なり、東屋は瀬戸橋の東詰北側にあります。 この図を信じると、東屋は江戸末期から明治初期のいずれかの時期に、瀬戸橋を越えて東側へ移転したようで、憲法起草の説明版が正しいように見えます。真実は何でしょう? 更に調べていくと、横浜市のホームページ「歴史息づく横浜金沢」の「江戸名所図会から見る金沢の歴史資産」に、料亭東屋は安政5年(1858)火災で焼失し瀬戸橋の東詰めに移転したことが書かれていました。これですっきりしました。 なお、最後の図(武陽金澤八景之図)に瀬戸橋の少し上に内海に少し飛び出した「姫小島」があります。1枚上の図(武昌金澤八景之図)の内海の中にある「照天姫松(てるてひめのまつ)」に当たるようですが、明治の初めには、そこまで埋め立てが進んだことが分かります。 |
上の挿絵は 瀬戸明神社(せとみょうじんのやしろ)です。門前の道に鳥居があり、参道を二段上がった所に「拝殿」、「本社」があります。 なお、鳥居から左下に伸びているのは、 瀬戸弁財天に至る参道です。 江戸名所図会の本文には、「瀬戸明神社 ・・・当社は右大将頼朝公治承四年四月八日豆州(ずしゅう)三島の御神を勧請なし給うとなり・・・」とあります。また、蛇混柏(じゃびゃくしん)と呼ばれる枯木について「蛇混柏(じゃびゃくしん) 本社の右の傍らにありて、これも延宝八年庚申八月六日の暴風に吹き倒されたりとて、今、地上に横たわりてあり。其樹長大にして竜蛇(りゅうじゃ)の起伏するが如し。金澤八木と称するものの其一(そのひとつ)なり」とあります。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。瀬戸明神社は現在瀬戸神社と呼ばれています。 右の写真は、瀬戸神社を神社前の道路(国道16号線)の反対側から撮ったものです。 瀬戸神社の由緒その他詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、瀬戸神社の拝殿です。江戸名所図会の挿絵では、本殿は二段上がった所に置かれていますが、現在は、道路の拡張のため、一段目がかなり削られているようです。 江戸名所図会の挿絵では、本殿の裏側は急な崖になっています。右の写真から分かるように、現在も同じ状況です。
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上の挿絵から分かるように、 瀬戸弁財天(せとべんざいてん)は海に突き出ている島(琵琶島)にあります。「弁天」と書かれています。遠景には、「東照大権現」、「円通寺」と見えます。 江戸名所図会の本文によると、瀬戸弁財天は「昔頼朝卿の御台所平の政子御前江洲竹生島(ちくぶしま)の御神を勧請せらけるとあり・・・」また、円通寺は「昔法相宗にして南都法隆寺に属す。今は天台宗にして江戸の東叡山(とうえいざん)に属せり・・・」とあります。 |
左の江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円のあたりかと思われます。ただし、参道の角度と円通寺の方向が実際と異なるように思われます。瀬戸弁財天は現在琵琶島神社と呼ばれています。 琵琶島神社の鳥居です。この先、参道は琵琶島まで海の中を進みます。 左の江戸名所図会の挿絵にある円通寺は京急金沢八景駅の西側の位置にあったのだそうです。また、その裏山に東照宮(東照大権現)があり、円通寺はその別当でした。 |
金龍院(きんりゅういん) 飛石(とびいし)の挿絵の遠景には、「室の木」、「大寧寺」、「範頼墓」があります。 |
左の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は金龍院、オレンジ色の楕円は旧大寧寺(たいねいじ)のあった位置です。水色の破線は海岸線ですが、埋め立ての状況把握が難しいため、かなりラフな線です。埋め立て前の瀬戸入海なども省いてあります。 |
六浦(むつうら)上行寺(じょうぎょうじ)の挿絵では、左下が参道入口のようです。右上方向に進むと山門があり、「かね」、「妙法塔」の横を通り「本堂」に至ります。本堂の左右に「祖師堂」、「庫裏」があります。 祖師堂の左の階段を登ると「番神」があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円のあたりです。 |
侍従川(じじゅうがわ)光伝寺(こうでんじ)の挿絵では、手前の川が侍従川です。画面左の中央少し上に「本堂」があり、その上の遠景に「天神」があります。 |
左の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円のあたりです。 |
挿絵は、鼻缺地蔵(はなかけじぞう)です。 |
左の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円のあたりです。 |
挿絵は、三艘が浦古史(さんそうがうら こし)です。 |
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挿絵は、雀が浦(すずめがうら)です。 |
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江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 の内容
第四冊 品川、鈴ヶ森、大森、蒲田、六郷
第五冊 川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間
第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢 (このページ)