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東郊 「真間の道芝・中山国台も」
天保五年(1834)十月九日、村尾嘉陵は、葛飾や真間を目指して出かけました。
以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。記載された地点の位置については逐一は書きませんので必要に応じて挿絵のリンク先(江戸名所図会)を参照してください。
「天保五年甲午神奈月九日暁、四谷天竜寺六(むつ)の鐘鳴時、三番町のやどり(千代田区九段)を出て、東郊葛飾や真間のあたり行ばやと、くずれ橋のこなた行徳舟出す所(小網町にあった行徳海岸)さして行きたれば、」から始まります。右は、江戸名所図会の「山王祭其二」です。これは、山王祭の絵ですので人が大勢出ていますがそれは無視してください。右の絵で、中央を横に流れているのは日本橋川です。絵の左下にあるのがくずれ橋(はこざき橋ともいう)で、中央下にある河岸が行徳海岸です。ここが行徳(市川市)行のターミナルだったことになります。今は箱崎の首都高の下になっています。行徳海岸に着いた頃は未だ明かりを照らしている状態で、客が三、四人待っていました。さあ出発、という声が聞こえ皆乗り込み、棹をさして出発です。隅田川を横切ると「小奈木川の入口にて明のからすなく。空よく晴たり」。
小名木川というのは、現在の清澄白河辺りから東に伸びる川です。「五品松といふ所を過、少しゆけば岸に舟よせて」乗り合わせた人達と一緒に嘉陵もあづき餅を買いました。「ここにて旭日川上にかがやく。西風少しそよめきて、いと寒し」とあります。右は絵本江戸土産の「小名木川
五本松」です。その場所については、江戸名所図会の「小名木川
五本松」を参照してください。小名木川を進み中川を横切るとその先は新川に変わります(当時、荒川はありません)。新川に入ると船掘の引船で進みます。その操法については「船堀の地名の由来-船堀新川川岸」というページを参照してください。新川を過ぎると利根川(現在の旧江戸川)になりますが、ここは上流である北東からの流れに逆らい櫓と棹で進みます。が、舟がなかなか進まず、「舟人力を労する事かぎりなし」だったそうです。
なんとかして 「巳の刻(午前十時)ばかり行徳には着けり」。着いた場所について、嘉陵は明示していませんが、右の江戸名所図会の「行徳
舟場」で間違いなさそうです(現在の常夜灯公園の辺りです)。舟を下りて、「行徳の町を東(右図の上の方向)に行けば、塩浜を過て船橋(船橋市)に至る」のですが、この日嘉陵は北東(右図の左方向)に向い、八幡宿(国道14号線の本八幡駅の辺り)に行きました。そして、八幡宿から、「宿(じゅく)を巽(たつみ 南東)さして猶一里たらずゆけば中山村〔船橋へ一里程といふ〕」と、一旦、真間とは逆の船橋方向へ進み法華経寺を訪ねます。
右は、江戸名所図会の「妙法華経寺」です。右の絵の下端の道は現在の国道14号線で、江戸名所図会では船はし街道となっていますが、成田街道あるいは佐倉街道とも呼ばれたようです。上の自筆本には、法華経寺の楼門の額と境内の図(左下のページにつながっています)が描かれています。
「ここを出て、元来(もとこ)し路を市川の方へ行ば、途の南側に、八わたしらず(八幡不知 八幡の藪しらず)
といふ木立あり」、「その向ひ道の北側に、八幡宮(葛飾八幡宮)立せ給ふ。宮居あけ(朱)にぬりて、いとも神さびて(神々しくて)尊し。社頭の左に古木の銀杏樹あり。むかし、詣でし時は槍高く立のびて、雲かかる迄也しも、今みれば幹打きりて、四がもの一をのこす」。右は、江戸名所図会の「八幡不知森
八幡八幡宮」です。「老の身の、又来ん頼み(期待)なければ(持てないので)、後の思ひ出にもと、銀杏の落葉二三懐にす」と寂しいことを言っています。
「ここを出て、市川の方さして(今来た道を戻り)しばし行ば、道のかたはらに石を立て、国分寺、手古奈、間々弘法寺道是より十五町と彫み、江戸へ三里十町としるす」とあり、これは、現在の市川手児奈通りの交差点辺りかと思われます。「そこより北に横折て、径(こみち)を行き果つれば、左右に日の面広く見わたし、畔の細道を蛇の行が如く、かなたこなたへ、うねり曲りたるを、たどリたどりゆけば、手古奈の社(てこなのやしろ 手児名霊堂)の前にいたる」とあり、この手児名社には過去に何度か来ており、その変化を語っています。最初は嘉陵が十四、五歳の頃(1774年頃?)でそのときは五、六尺の茅葺きの祠があっただけで真間の井もただの凹みに水が溜まっていただけだった。しかし、寛政四年(1792年)に来たときは、手児名社はそのままだったが鳥居が増えていた。
その後、文化四年(1807年)に来た時は、手児奈社は2間ほどの幅に作り替えられ、真間の井も場所を変え普通の井戸のように作られていた(文化四年の記述はこのサイトの「下総国府台・真間の道芝」を参照して下さい)。今日来てみると(1834年)、手児名社は幅五間程の瓦葺きになっていた。「昔の姿を改め、営みなせしは、誰(た)がすなるわざにや。天か人か知らるべからず」と書いていますが、多分相当落胆していたのでしょうね。「社頭を去て継橋に至り、入江を見わたせば」とあり、当時は真間の継橋から海が見渡せ、また「一里ばかり東南に正中山(妙法華経寺)見ゆ。そのこなたに続きて八幡の宿の木立見わたさる」とあります。「真間山(弘法寺)の石階五十段ばかり上り果てて、楼門を入ば、向ひに釈迦堂、祖師堂、向て左に骨堂、右に坊あり」
弘法寺の 「坊の傍を、西と覚しき方に行けば、国府台(市川市)の上リロの坂の上に出。それより惚寧寺(総寧寺)
の大門通り松並を、艮(うしとら 北東)に向て行く」。境内を少し歩き「昔に引かへ、いとも清らかにみがきなして、いかめしげ也。弘法寺も妙法経寺も皆しか也」と感想を記しています。「赤壁の古戦場(国府台の古戦場のこと)は、日既に西にかたぶき、まばゆきに堪ねば」遠くの風景は見えないだろうからと、そこを見ずに岐路につきます。矢ぎりの渡で向こう岸に渡り進むと「柴俣村帝釈天のうしろに出」。右の絵は、絵本江戸土産の「帝釈天」です。左に帝釈天、右上に国府台が見えています。「寺を通りぬけて西さしてゆけば、上下新宿(にいじゅく 中川を越える渡し)に至る。ここの渡りより、かへさ(帰り)の道は熟路なれば記すに不及(およばず)」と経路の記述は終えています。新宿の渡しから旧水戸街道(松戸街道とも言ったらしい)を使い帰ったものと思われます。右下は絵本江戸土産の「新宿の渡し場」です。地図については、江戸名所図会の「新宿渡口」を参照してください。
最後に、「今日の遊行に興ざめたるは」と、手古奈の祠に苦言を呈し、妙法経寺等の寺々の営みにも一言書いています。「今日道すがら詠みけるうた、紅葉なんど後のながめにもと、取あつめ置事左のごとし」と、この後、短冊状に記しています。が、説明は省略します。