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東郊 「下総国府台・真間の道芝」
文化四年(1807)三月七日、村尾嘉陵は、下総の国(千葉県北部)の国府台(こうのだい)や真間(まま)の古跡を尋ねてでかけました。このときに書いた文は、江戸近郊道しるべの最初の紀行文です。
以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。記載された地点の位置については逐一は書きませんので必要に応じて挿絵のリンク先(江戸名所図会)を参照してください。なお、自筆本のこの紀行の部分は傷みがひどく読めないところが多いため、ほとんど朝倉治彦編注の東洋文庫に頼りました。
「文化四年弥生の七日ばかり、下総の国葛飾や真間の古跡訪(たずね)ばやと、重沢清門をともなひて、朝まだき(になる前に)浜町のやどり(水天宮の東側、現在の蛎殻[かきがら]町公園の辺りに清水家の下屋敷があった)を出(いず)」から始まります。「過し日の雨に、つちくれ、ややうる(潤)ふものから、野辺は若草のみどりいろそ(添)ひて、折からのながめ、いはんかたなし(この上ない)。今日はことさらに空晴て、風もなければ、いといと暖也」だったそうです。おそらく、新大橋(現在より少し下流にあった)を渡り立川(竪川 たてかわ)に向かったものと思われます。右は江戸名所図会の「本所一目(ほんじょひとつめ)」の挿絵です。手前を流れるのが隅田川で、左上へ向う流れが立川です。
嘉陵は、右上の絵の立川沿いの道にどこかから入ったはずです。立川沿いにしばらく進むと、旧中川に出ます。そこに橋はなく、逆井(さかさい)の渡しがありました。右は、絵本江戸土産の「逆井の渡」の絵です。嘉陵は、この小舟からの景色の素晴らしかったことを書いています。
渡しを下りて「五七丁行ば、右に行徳道(現在の今井街道か)」への分かれ道がありますが、その日はまっすぐ北東、今の千葉街道の方向に進み、市川の関に出ます。
右図は、江戸名所図会の「市川渡口(いちかわわたしば)」です。大きな流れは、図では利根川となっていますが、現在の江戸川のことで、ここは現在の市川橋の少し上流辺りのようです。嘉陵達は、右図の左下からやってきました。そこは関所となっていますが、形だけで、特になんのチェックもなかったようです。関を通り抜けるとすぐに利根川の渡し場です。
市川宿で渡し船を下りて坂を登ると、右に行く船橋道(千葉街道)があります。今回は少し先を左に折れて行きます。「堤の縄手を行はてて、民屋の間をゆけば、山の入口少しひぢ折て、坂をのぼる、城の大手也と云」とあります。記述に従うと、細いあぜ道を歩いて行き民家の間を進むと、先は岡になっており、図に總寧寺道と描かれた坂(右図の左側に見える上り坂)を上ります。その道のあった所は現在は大学・高校・中学他の教育施設の敷地の中になっているようです。この道は国府台の城への正面の道で、その先、行き着いたのが、総寧寺の大門です。
上は、江戸名所図会の「国府台、總寧寺(こうのだい、そうねいじ)」の挿絵です(以下、3頁続きの絵と呼びます)。右下の端に「大門」が見えますので、ここに着いたことになります。大門から左上に参道を進むと「山門」があり、その先に「仏殿」があります。なお、右の絵の描かれた範囲は、右の何枚か下にある地図の水色の楕円の辺りかと思われます。
大門に「入て四五十歩にして楼門あり、茅ぶきにて、是も黒くぬりたり、左右に高札有、其文左の如し」とあります。この「楼門」は江戸名所図会の「山門」に当たるものと思われますが、嘉陵の書いた「高札」は江戸名所図会の絵には見当たりません。又、大門から楼門の間の参道では江戸の方向(西~南西)がよく見える、と書いています。右は、絵本江戸土産の「国府の台 眺望」です。江戸の方向(富士山の方向)がこのように見えたようです。
嘉陵は「廻廊は本堂に続く。右に方丈、庫裏、左に学寮、鐘鼓の楼あり」と書いていますので、江戸名所図会に描かれた「仏殿」が「本堂」に当たるようです。
嘉陵は、「階に腰掛けて、しばし休らふ。矢たて(筆記具)とり出て、堂の板戸に書付く。 ”またも来(こ)ん後の枝折(しおり)と古でらの杉の板戸に残す言の葉”」と書いていますが、これって、お寺の戸に落書きした、ってことですかね。この後、庫裏(くり 僧や家族の住居)にいた僧に案内をしてもらいます。先ずは、西楼の扉を開けて五輪塔を見せてもらったそうですが、江戸名所図会の絵には見当たりません。さらに、夜啼の石(よなきのいし)というのを見せてもらいますが、これは、江戸名所図会の3頁続きの絵の最も左の頁の中央右端に見える「夜なき石」のようです。
その後も、境内をあちこち案内してもらいます。ここで、嘉陵は国府台の合戦について書いています。左の自筆本から離れ、国府台について書きます。
今迄の記述で「国府台(こうのだい)」が何度か出てきましたが、国府台とは、千葉県市川市北西端にあり、下総(しもふさ)台地の西端に当たり、江戸川に面する標高約20メートルの高台です。右の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い丸印は總寧寺です。
この周辺では古墳が見つかっており、市川は古代の国府や国分寺が置かれたところでもあり、歴史的に重要な場所です。国府台の地名は下総国の国府に由来しています。国府台は戦国時代里見(さとみ)氏と小田原北条氏の合戦場となり、明治時代に陸軍が使い、その後、大学や国立病院などが建てられ、現在は文教地区、住宅地区となっています。
国府台合戦は、天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別されます。一言で言ってしまうと、小田原の北条氏と上総の里見氏をはじめとする房総の有力者の間の戦いでした。結果的には、北条氏の勝利で終っていますが、その北条氏も後日豊臣秀吉に滅ぼされています。
嘉陵の記述に戻ります。境内を見た後、川の崖の方に向います。利根川(江戸川)の流れが足元で渦を巻く壮大な景色だそうです。右は、広重の名所江戸百景の「鴻之台とね川風景」です。この絵では相当な高さの崖があったように見えます。
右は、江戸名所図会の「国府台断崖の図」です。絵の右下に見える対岸との比較で100m以上もの高さがありそうに見えますが、この高台は実際には20m程度のようです。しかし、昔の利根川に削られ絶壁だったことは間違いなさそうで、嘉陵は、「この所の眺望、遠くは西南北の諸山をのぞみ、近くは利根に俯す。海は近きも樹裏にかくれて、みへがたし。冷然たる天風面を撲(うち)て、今日ののどけきも、衣重ねまく(重ねたいと)思ふ程也」と記しています。
いくら見ても飽きないのですが、この後、本堂の方に戻り、太田道灌ゆかりの梅を見、そこで、案内をしてもらった僧と別れます。「夫より楼門を出て、左にゆけば東出の門あり。即ち裏門なり」。門を出て右に「猶ゆけば東の畑中に径(こみち)あり。向ひに小門あり。かしこはいかに、と問えば、真間山のうしろの門也と」いうことで弘法寺(ぐほうじ)に着きました。上は、江戸名所図会の「真間
弘法寺(まま
ぐほうじ)」です。右端の頁の中央の少し上に「釈迦堂」「祖師堂」があります。なお、弘法寺の位置は、数枚右上の地図の紫色の楕円の辺りです。右の絵は国府台や利根川も少し含む広い範囲を描いており、後述の真間の継橋(つぎはし)、手児奈霊神堂(てこなれいしんどう)、真間の井(ままのい)なども描き込まれています。
「門を入て弘法寺の庫裏の庭を過て、南庭に出れば、林間に亭あり」、そこは遍覧亭だそうで、右上の3頁の絵の中のページの中央少し上に描かれています。そこで少し景色を楽しみました。
そこから更に、「坊の間を出れば、本堂、祖師堂」があります。「昔来(こ)し時、書付しおのれが名のみ見ゆ。指折て数ふれば、十九年を経(ふ)」とありますので、(上では落書きと書きましたが)昔は自分の名前を書く習慣があったようです。今こんなことをすると大変なことになりますね。
右は、名所江戸百景の「真間の紅葉、手児奈の杜」です。弘法寺から描いたものと思われますが、手前の鳥居とその左にある社(やしろ)は手児奈祠(現在の手児奈霊神堂)で、その少し上に見える橋は「真間の継橋」です。この絵の手児奈の社は立派になった後の社のようです。
嘉陵は、境内の様子を書いていますが省略します。
さて、嘉陵は「楼門を出て、石階を南にくだりゆけば小橋あり、これを継橋と名づく」と書き、その後、継橋の命名、謂れについて少し書いています。嘉陵は何事にも一家言あり、比較的批判的に、柔軟に物事を見る人のようです。右は、絵本江戸土産の「真間の継橋、手児奈(てこな)の社」の絵です。右上の名所江戸百景の絵の逆方向から書いています。
右上の2枚の絵からはよく分からないのですが、嘉陵が訪れたときは、ここに二つの橋があったようで、その考察をしていますが省略します。
右は、現在の継橋です。きれいな石板が敷き詰められ、欄干も立派になっています。下の川に水が流れていたかどうかはよく覚えていません。
そこから、氐古奈(てこな 手児奈)祠を訪ねています。嘉陵は以前(寛政四年1792年で、十五年前)にもここに来ており、その際、祠のうしろの板に、落書き、ではなく、書き付けしているようです。右は、現在の手児奈霊神堂です。
手児奈とは、万葉集にも載っている伝説的な美少女です。手児奈にまつわるお話については、別の万葉歌碑のページに書きましたのでそちらを参照してください。
次に手児奈の井(真間の井)を訪れています。以前訪ねたときの井戸は、「祠より半町ばかりの崖、萩薄(はぎすすき)の生しく中にあり」、自然に近い状態にあったのだが、今は庵を作り井桁を設けて石を並べてあり普通の井戸と同じになってしまい残念だ、というようなことを書いています。こう書いたのは、現在ではありません。文化四年のことです。
右は現在の真間の井です。嘉陵が憤慨した井戸よりも、更に立派な井戸だろうと自信をもって言えます。
左の2枚の絵は、前回(寛政の時)真間を訪れたときのものだそうです。左は、手児奈祠で、左下は真間の井です。昔は古色あり、自然の中にあったものが今はすっかり変わってしまったと嘆いています。現在は上の写真のような状態です。とにかく、いつの世も十年二十年と経つと様変わりする、ということを繰り返してきたということのようです。
嘉陵は、左図の後、この度の紀行文を手児奈の考察で終えています。