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西郊 「府中道の記」
文化九年(1812)一月十七日、村尾嘉陵は、国府の六社(大國魂神社)を尋ね散策しました(自筆本第三巻)。
上の地図は、府中を尋ねた時の3枚構成の地図の2枚です。残りの1枚は後ほど紹介します。上の地図で、上側が南です。ここでは、左から右へ(つまり、東から西へ)、四谷門から六所宮(大國魂神社)の手前まで描かれています。四谷から中央辺りを横に伸びている赤い線が甲州街道です。
本文は、「文化九のとし睦月の十七日、国府の六社(大国魂神社)の神に詣でんとて、同じ心の友かたらひて、まだ夜をこめて(暗いうちに)出ぬ」で始まります。「四谷より内藤新宿(新宿区新宿)を南に横折て、新町通りを行、こゝに小名牛窪(渋谷区初台辺か)といふ所の路の左に、神明宮立せ給ふ、猶少し行ば地蔵窪といふ所あり」とあり、右は、絵本江戸土産の「四谷内藤新宿」の図です。江戸名所図会でも「四谷大木戸」、「四谷内藤新宿」として書かれています。甲州街道の起点で大変な賑わいだったようです。嘉陵達は、内藤新宿の先から甲州街道を進んだようです。
「ここを過て代田村、行く手の左に茶店あり。庭の仮山、心ありげに築成せり。ここに饅頭売る家一戸、酒飯商う家五七戸あり」という様子だったようです。甲州街道はすれ違う馬も五百頭を越え、歩きづらかった程だそうです。そして、「下高井戸、このあたり路の辺に、数丈の杉丸太を建、上には大三方に丸餅などのせたる造り物、其外(そのほか)思ひ思いの物をつくりて、いく所にも」建て、これは、道祖神のお祭りだったようです。右は、直接言及はありませんが、玉川上水が甲州街道と交差するところにあった、江戸名所図会の「代田橋」で、嘉陵達はここを通過したはずです。その頃の街道の雰囲気が分かります。
「ここより上北沢の辺、柱の料(材料)となすべき杉林いく所もあり」、また、この辺りで道の右側には用水が流れていたようです。この後、「上高井戸、北烏山、 給田、下仙川など云所を過ぐ。みな見所なし」と冷たい感想です。「夫(それ)より下布多、上布多などいふ所々を過ぐ。ここに布多の天神宮居給ふ。今日は詣でずして過」ぎたそうです。右は、江戸名所図会の「布田天神」で、甲州街道に面しているのですが、とにかく時間との競争ですので、パスもやむを得ません。
なお、「布多は古へ調布(租税制度の調としての布)を造りたる調布の里也と、好事輩(好事の輩 物好きな人。あるいは、風流を好む人)いへれど、こは布多といふ文字につきて、附会(ふかい =こじつけ)せしにや覚束なし(怪しい)」とのことです。下染屋、上染屋(白糸台の辺り)まで来てようやく、「南に大山見ゆ。夫(それ)より山々連綿して富士の根を遮(さえ)ぎり峙(そばだ)つ。西北を顧みれば、八王子、子(ね)の権現、秩父、武甲(ぶこう)諸山をみる」と、山々の景色を楽しめたようです。 「かたはらの民戸に腰かけて、こゝの風景を写」しました。この日は風があり寒い日で大変だったようですが、なんとか下書きをしたそうです。
左の地図は3枚めの地図(自筆本では1枚めの地図)です。府中六所宮辺りから多摩川を渡ったところにある武蔵一ノ宮辺り迄が書かれています(ただし、嘉陵達は多摩川を渡ってはいません)。
また、左の風景画は、上に記してあるように、染屋原での下書きを清書したものと思われます。なお、この絵は、西南方向を書いた3枚構成の図の一番右側です。西北方向を書いた別の図と合わせて、全体は、このページの最後に再度載せます。
更に歩くと、左に八幡宮がありました。おそらく、現在の六所八幡宮のことかと思われます。そこを過ぎていよいよ六所明神(大國魂神社 おおくにたまじんじゃ)です。「先ず六所明神に参りてこそ、ものも食めとて詣る。社(やしろ)は町の中程南側也」とあり、とにかく先ずはお参りします。右は、江戸名所図会の「府中六所宮」です。右図左の中央に随神門があり、参道を右奥に進むと拝殿、左手前に進むと鳥居になります。
左の2枚の図は六所宮です。左側は楼門(随神門)の南側、本殿側です。左の右側の図は鳥居を中心とした図です。
嘉陵の記述に従うと、入り口、つまり、鳥居の横に、制札があるが字は消えて読めない。石の鳥居が二基あるが、一つは神祖(徳川家康のこと)が建てたものであるが地震で倒れ、柱が残っている。もう一つは土人(地元の人)が建てたもの。ということです。
本社は北に向かい鎮座し、拝殿の右側に、神祖の御宮(東照宮)、御供所(ごくうしょ、ごくしょ等)、拝殿の左側に本地堂、神輿倉、等があること、拝殿の左側には、不動尊、松尾社、天鈿女神の祠等があることを説明しています。右は、大國魂神社の現在の鳥居で、右下は、現在の拝殿です。
すべてを拝した後、蔭山某(同行者か?)の案内で、宿(しゅく)の中程の万右衛門という人の家に行きました。家は広いと言うわけではないのですが、庭の小松、窓の竹など心遣いのある様に植えて、なかなかよい住まいだったそうです。そこで、「わらんづ(わらじ)脱ぎて足をのばし、つかれ休めぬ。各(各々の)腰につけし飯器(はんき 炊いたご飯を運ぶ際などに用いる器)とり出て、したたむ(食事を済ます)。あるじも、果物とり出てすすむ(勧める)」という雰囲気だったようです。
左上のページの次に六所宮の地図が2枚あるのですが、更に数枚上の方に掲載したのがそれです。
さてその後、自筆本では、「六所宮坤(ひつじさる 南西)の方瑞籬(ずいり 神社などの垣)の外、民家の後ろに小高き所あり。そこに、けやきの古木あり。そのあらまし左のごとし」と謂れとその絵を紹介していますが、内容は省略します。更に、「少し行けば、径(こみち)の左に妙高寺(妙光寺のこと)。この寺の林に傍(そい)て東にゆけば、是政にいたると云。猶行くこと七八丁にして、
玉川端にいたる」と。右図は江戸名所図会の「妙光院安養院」で、絵の中央に妙光院の本堂があります。
さて多摩川に着きました。水が少ない季節で、歩いて渡ることができる時期だったようです。そこでの風景は、「玉川広さ二三十間ばかり、向ひの山、水上の方を一ノ山と云、其下をニノ山と云、一層高きを大丸山と云。このあたりをさして、土人(土地の人)向ふ山と云、好事輩は向ヶ岡といふ。「こゝの少し川上より向ひにわたる所あり、関戸の渡しと云。川向に古の関所の跡あり、小山田の関と云はここ也と云」。右は、江戸名所図会の「小山田旧関
関戸惣図」です。ただし、この図は、多摩川を渡った先の上空から見た図であり、嘉陵は多摩川の手前の岸、つまり図の右側から見ていますので、視点が少し異なります。
左のページでは、多摩川を越えると一宮(現 小野神社)のあること(但し、嘉陵達は多摩川を越えてはいません)、対岸の一ノ山、二ノ山が水際から立ち上がり屏風の様になっているため屏風岩と呼ぶこと、見渡す山々の素晴らしさ、などを書いています。右は、江戸名所図会の「一宮大明神社(小野神社)」です。
そうこうするうちに、日も傾いてきたので、一ノ鳥居に戻り辺りを少し散策しました。少し西の方に、 「昔の国分尼寺の跡也と云がみゆ、今は称名寺と云。程近けれど、日も既に申の刻(午後四時)ばかりなれば、ゆきて見ずなりぬ」とパスしましたが、右下は、江戸名所図会の「府中 称名寺 他」の図です。右下の図の中で、六所宮は右下にあり、称名寺は右上中程にあります。図の中央の右下がりの広い道は甲州街道で、右端中央(六所宮の参道の延長上)が大門の並木だろうと思われます。その図の中央あたりで甲州街道に左下(南)から来てぶつかっている道は現在の府中街道(当時の相州街道)です。そこから北側の府中街道(当時の川越街道)は少し甲州街道を西(図の左上)にずれたところからつながっています。
少しばかりの散策の後、大門の並木の中程から、万右衛門の家に帰り着きました。「万右衛門が亭にて、各酒飯したため侍るに、まだ初春の長からぬ日の、申のさがりにも成しかば、かへるさ(帰り道)に赴く」。「酉の刻(午後六時)ばかり上高井戸を過る頃、風もやや止て行々程に、代田のあたりにて月しろさしのぼるに、路さへたどたどしからず(月が登ったので道は見えた)。戊の刻(午後八時)過る程やどりにかへり着ぬ」で終わっています。
上の2枚の図と左の図は前に示した「染屋原より西南に諸山を望む図」です。パノラマ写真のようにつながっています。
左と左下の図は、「玉川屏風岩前より西北に秩父八王子の諸山を望む図」です(望という字が表題に小さく書いてあるので補って読みました)。図の表題からは、玉川屏風岩前で書いたと読めるのですが、上の図と同じく、染谷原で下書きをしたものに基づいていると考えて良いだろうと思います。なお、玉川屏風岩とは、左上の図の右下に見える屏風岩のことかと思われます。