アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之一 第ニ冊
江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之一の中のページ
第一冊 江戸城、日本橋、御茶ノ水、浅草橋
第二冊 両国橋、伝馬町、永代橋、佃島、新橋 このページです
第三冊 増上寺、愛宕山、三田、高輪
江戸名所図会 巻之一 天樞之部 第ニ冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
両国橋(りょうごくばし)の絵は2枚に分かれており、両国橋は1枚めの左と2枚めに描かれています。絵には、「壱両が 花火間もなき 光かな 其角」、「この人数 舟なればこそ 涼みかな 其角」とあります。 1枚めの絵では、中央に大川(隅田川)が描かれ、沢山の船が浮かんでおり、花火も上がっています。手前が両国広小路で、「料理や多し」、「船宿多し」とあり、「かみゆい床」、「茶屋」、「芝居」小屋や「土弓(どきゅう 安土(あずち 垜)に置いた的を射る遊戯)」小屋、「かるわざ」小屋などが書かれており、大変な賑わいだったことが分かります。隅田川から左奥に運河が続いています。これは、竪川(たてかわ)で、「本所一ツ目」と書かれたところにある橋は本所一ツ目橋で現在の一之橋です。 2枚めの絵を見ると、本所側も「かるわざ」、「みせもの」などで賑わっている様子が分かります。手前から大川に流れ込んでいる川は神田川で、かかっている橋は「柳橋」です。 江戸名所図会の本文によると、両国橋は1659年に掛けられて以来何度が造られた。古くは大橋と呼んだが、昔、この川が国境だったため両国橋と名付けた。その後、本所も武蔵国になったが、名前はそのままにした。この川は納涼の地として夏の間は特に賑わった。陸も見世物などでいっぱいだった。川に船を浮かべ楽しむ人も多かった、のだそうです。
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江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、両国橋を神田川右岸(西側)つまり、挿絵の手前側から見ている写真です。 右は、元柳橋(挿絵の右端)の辺りから両国橋を見ている写真です。 |
杉森稲荷(すぎのもり)稲荷神社の挿絵には、参道の先に「拝殿」、「本社」とあり、その右には「神主」、「御輿蔵」、「こんぴら」があり、本社の左には「白狐神」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、椙森神社の拝殿です。椙森神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
堺町(さかいちょう)葺屋町(ふきやちょう)劇場(しばい)の挿絵で、手前左右に流れているのは東堀留川で、そこに「親父橋」が架かっています。画面左の道が「がくや新道」です。左下から右上にかけて「あやつり座」、「ふきや町」、「市村座」、「中村屋」、「さかい町」、「あやつり座」があります。画面右に「よし町」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在の小舟町と人形町の間辺りです。濃い青の破線は東堀留川、水色の破線は西堀留川で、両川とも現在ありません。 |
上の挿絵は、猿若狂言之図です。 | |
大門通(おおもんどおり)の挿絵には「昔(むかし)此地(このち)に吉原町(よしはらまち)ありし頃の大門の通りなり。しかにより、かく名つく。今は銅物屋(かなものや)馬具師(ばぐし)多く住(すめ)り」とあり、又、「鐘ひとつ うれぬ日もなし 江戸の春 其角」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在の日本橋富沢町、人形町三丁目の間辺りです。 |
新大橋(しんおはし)三派(みつまた)の挿絵には「山もあり また 船もあり 川もあり 数は ひとふた みつまたの景 半井卜養」とあります。半井卜養(1607年~1679年)は、江戸時代前期の医師、狂歌師、俳人、歌人です。 上の挿絵で、中央手前の橋は新大橋で、手前(上流)から新大橋の向こう側で別れて流れるため三派(みつまた 現在の箱崎辺り)といいました。絵の左上に「永代橋」が見えます。 江戸名所図会の本文には「此所(このところ)は月の名所なり。・・・昔は多く遊女(ゆうじょ)歌舞伎(かぶき)の類(たぐ)い、ここに船をうかべて宴(えん)を催(もよお)し殊更(ことさら)月の夕(ゆうべ)は清光(せいこう)の隈(くま)なきを翫(もてあそ)び酒に対(たい)して歌(うた)諷(うた)いなんと甚(はなはだ)賑(にぎわ)しかりしとなり・・・」とあります。 | |
上の四日市(よつかいち)の挿絵には、手前に「江戸橋」があります。手前左右斜めに流れているのは日本橋川(新川)で、右上に日本橋があります。右上に「かじ橋」が見えます。 江戸名所図会の本文には、四日市について「江戸橋と日本橋の間、川より南の大路を云う」とありますので、上の挿絵の中央が四日市ということになります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
挿絵には「三河万歳(みかわまんざい) 江戸に下りて毎年(まいとし)極月(しわす)末(すえ)の夜(よる)、日本橋(にほんばし)の南詰(みなみつめ)に集(あつま)りて才蔵(さいぞう 太夫の相手をする三枚目の役)をえらびて抱(かか)ゆるなり。是を才蔵市(いち)という」とあります。 | |
中橋(なかばし)というのは、日本橋と京橋との間にあった堀に架かっていた橋だそうですが、江戸名所図会の時代には既に埋め立てられており、中橋広小路という盛り場となっていたようです。場所は、現在の八重洲通りと中央通りが交差する辺りです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りだったようです。 |
祇園会御旅所(ぎおんえおたびしょ)について、江戸名所図会の本文には「南伝馬町(みなみでんまちょう)一丁目と二丁目の間の辻(つじ)にあり、本社(ほんしゃ)は神田明神(かんだみょうじん)の地(ち)にあり。祭所(まつることろ)素盞嗚尊(すさのおのみこと)にして、是(これ9を大政所(おおまんどころ)と称(しょう)せり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りだったようです。 |
鎧之渡(よろいのわたし)の挿絵では、茅場町側から小網町を見ています。 江戸名所図会の本文には「鎧の渡 茅場町(かyばちょう)牧野家(まきのけ)の後(うしろ)を云(いう)。此所(このところ)より小網町(こあみちょう)への船渡(ふなわたし)をしか唱(とな)えたり。往古(おうこ)は大江(たいこう)なりしとなり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
山王祭(さんのうまつり)の挿絵には、「我等まで 天下まつりや 土車 其角」とあります。 | |
其二と其三の挿絵はパノラマになっています。左右に流れているのは新川(日本橋川)です。 其二で、左上に「薬師堂」があり、挿絵には描かれていませんが、その左上に山王御旅所があるはずです。左下の橋は、「はこさきはし」です。 其三には、右上端に山王御旅所が見えています。右側中央に「れいがんばし」、左下に「湊橋」があります。 |
左の江戸名所図会の2枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
挿絵には、「六月十五日、御祭禮(ごさいれい)の時(とき)、此所(このところ)へ神輿(しんよ)行幸(ぎょうこう)あり」とあります。 この挿絵には、上の欄の挿絵にあった、永田馬場(ながたばば)山王御旅所(さんのうおたびしょ)茅場町薬師堂(かやばちょうやくしどう)が描かれています。 右に「山王宮」、「山王権現」があり、中央上に薬師堂があります。薬師堂の左には「役行者」、「いなり」、「地蔵」が並んでいます。 江戸名所図会の本文には「永田馬場山王御旅所 茅場町(かやばちょう)にあり。遥拝(ようはい)の社(やしろ)二宇(にう)並び建(たて)り。寛永年間此地(このち)を山王(さんのう)の御旅所(おたびしょ)に定(さだめ)らるるといえり{一宇は神主樹下氏(じゅけうじ)持(もち)なり。一宇は別当観理院(かんりいん)持なり}」とあります。 薬師堂については「同(おなじ)く御旅所の地にあり。本尊薬師如来は恵信僧都(えしんそうず)の作(さく)なり。山王権現の本地仏(ほんちぶつ)たる故に慈眼大師(じげんだいし)勧請(かんじょう)したまうといえり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の赤色の楕円の辺りです。 右は、日枝神社御旅所(現 山王日枝神社日本橋摂社)の参道です。 右は拝殿です。山王日枝神社日本橋摂社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、日枝神社の東側(上の地図の緑色の楕円)にある智泉院です。智泉院の本尊薬師如来は、江戸時代は山王御旅所の境内にありましたが、明治の神仏分離令で、川崎の等学院に移されたのだそうです。智泉院の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
薬師の縁日(やくしのえんにち)の挿絵には「夕やくし すずしき風の 誓いかな 其角」とあり、又、「毎月八日十二日、薬師の縁日(えんにち)には植木(うえき)を商(あきな)うこと夥(おびただ)しく、参詣(さんけい)群集(ぐんしゅう)して賑(にぎわ)えり」とあります。 | |
挿絵は、伊雑(いそべ)大神宮です。 挿絵には、「勧進聖列職人尽 歌合の内花と獅子舞 たわぶれて 春の木かげに まう獅子の たたく鼓に 花も咲きそえ 道遥院」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
三ツ橋(みつはし)の挿絵には、「風羅袖日記 八丁堀にて 菊の花 さくや石屋の 石の間 芭蕉」とあります。 江戸名所図会の本文には、「一ツ所に橋を三所架(わた)せし故にしか呼(よべ)り」とあります。 挿絵の画面中央で川が4本交わっています。右下は「弾正橋」でこの川は楓川で、北北東に向かっています。右の上は「牛のくさ橋」で白魚橋とも呼ばれ京橋川に架かっています。左中央の橋は「真福寺橋」で三十間堀です。左下に向かう川は八丁堀です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
上は、新川(しんかわ)酒問屋(さかといや)の挿絵です。 江戸名所図会の本文には、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)として「同所(霊岸島)四日市町にあり。此地(このち)の産土神(うぶすな)とす{此所(このところ)を俗間(ぞくかん)に新川(しんかわ)と唱(とな)う。酒問屋(さかといや)多くありて繁盛の地なり}」と記されています。 | |
上の新川大神宮(しんかわだいじんぐう)の挿絵には「何の木の 花とも知らず 匂いかな 芭蕉」とあります。 上の挿絵の左上が「拝殿」になっており、拝殿の前の鳥居に近くには「牛頭天王」、「八百万神」、「富士」、「いなり」、「大神」、「三峯」、「弁天」、「いなり」が見えます。 江戸名所図会の本文には、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)として「同所(霊岸島)四日市町にあり。此地(このち)の産土神(うぶすな)とす{此所(このところ)を俗間(ぞくかん)に新川(しんかわ)と唱(とな)う。酒問屋(さかといや)多くありて繁盛の地なり}」と記されています(再掲)。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、拝殿です。新川大神宮の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵の中央が永代橋(えいたいばし)です。中央を流れる川は隅田川(浅草川)で、左から隅田川に流れ込む川は日本橋川(新川)です。日本橋川に架かる橋は豊海橋(とよみばし)です。 江戸名所図会の本文には「永代橋(えいたいばし) 箱崎(はこざき)にあり。深川佐賀町(さがちょう)に掛(かか)る。元禄十一年戊寅始(はじめ)て是(これ)を架(か)せしめらる。永代橋(えいたいばし)に架(わた)す故(ゆえ)に名(な)とす。長(ながさ)凡(およそ)百十間餘(よ)あり。此所(このところ)は諸国(しょこく)への廻船(かいせん)輻輳(ふくそう)の要津(ようしん)たる故(ゆえ)に橋上(きょうじょう)至(いたつ)て高し・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会の時代の永代橋は、右の地図のオレンジの楕円の位置、つまり、現在より200m程上流にありました。 |
佃島(つくだしま)住吉明神(すみよしみょうじん)社の挿絵には「名月や ここ住吉の つくだ島 其角」とあります。 挿絵の左上に「佃島」、「住吉」とあります。遠景に「上総」、「安房」が見えます。 江戸名所図会の本文には、佃島について「鉄砲洲(てっぽうす)に傍(そい)たる孤島(ことう)をいう{船松町(ふなまつちょう)より船渡(ふねわたし)ありてここに至(いた)る}文亀(ぶんき)年間、江戸(えど)の旧図(きゅうず)に向島(むこうじま)とあり。天正(てんしょう)年間 東照大神君(とうしょうだいしんくん)遠州(えんしゅう)浜松(はままつ)の御城(おんしろ)にましまし皇都(こうと)へ上(のぼ)りたまう頃(ころ)摂津国(せっつのくに)多田(ただ)の御廟(ごびょう)および住吉大神(すみよしだいしん)にもうでたまうとき、神崎川(こうさきかわ)御船(おんふね)なかりしに佃村の漁父(ぎょふ)猟船(りょうせん)をこぎ出(いだ)して渡(わた)し奉(たてまつ)りしかば、伏見御城にまします時も御膳(ごぜん)の魚(うお)を奉るべき旨 台命(だいめい)あり」とあり、「其後(そののち)漁人(ぎょじん)三十四人江戸(えど)へ召され・・・寛永年間、鉄砲洲(てっぽうす)の東の干潟(ひがた)百間四方(ひゃっけんよほう)の地をたまわり正保(しょうほ)元年二月漁家(ぎょか)を立並(たてなら)べて本国(ほんごく)佃村(くづだむら)の名を採(とり)て即(すなわち)佃島(つくだしま)と号(なず)く・・・」とあります。 又、住吉明神社については「佃島にあり、祭る神、摂州(せっしゅう)の住吉(すみよし)の御神(おんかみ)に同じ・・・正保(しょうほ)年間摂州(せっしゅう)佃(つくだ)の漁民(ぎょみん)に初(はじめ)此地(このち)を賜(たま)わりしより、ここに移り住む・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は住吉明神社(現 住吉神社)です。 右は、住吉神社の大鳥居です。隅田川沿いにあります。挿絵では、浜辺の位置になるかと思いますが、当時は無かったようです。 右は、住吉神社の鳥居と境内です。配置は挿絵の時代と同じです。 右は、拝殿です。住吉神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
湊稲荷社(みなといなりのやしろ)は、挿絵の下側に描かれています。「稲荷」、「富士」と見えるのがそれです。その左に「いなり橋」があり、その下を流れるのは八丁堀です。その左の橋は記載はありませんが高橋(たかはし)で、その下を流れているのは亀島川(かめじまがわ)です。高橋を渡ったところは霊岸島で、そこから深川に向けて「永代橋」が架かっています。 江戸名所図会の本文には、湊稲荷社について「高橋(たかはし)の南詰(みなみづめ)にあり。鎮座(ちんざ)の由来(ゆらい)詳(つまびらか)ならず・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は湊稲荷(現在 鉄砲洲稲荷神社)です。オレンジ色の楕円は当時の永代橋の位置です。 右は、鉄砲洲稲荷神社です。挿絵では、湊稲荷神社は八丁堀と隅田川に面していますが、現在は上の地図で分かるように、八丁堀は埋め立てられており神社の周りは宅地になっています。 右は、拝殿です。鉄砲洲稲荷神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
佃島(つくだしま)白魚網(しらうおあみ)の挿絵には「白魚に 価あるこそ 恨なれ ばしょう」とあります。 | |
寒橋(さむさばし)の挿絵には「青海や 浅黄になりて 秋のくれ 其角」とあります。 挿絵の右側中央に寒橋があります。右側遠景に「西本願寺」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は寒橋の辺りです。 |
西本願寺(にしほんがんじ)の挿絵に「本堂」があり、本堂の前に「手水や」、「唐門」があり、本堂のの周りを反時計方向に「番所」、「手水や」、「鐘楼」、「玄関」、「対面所」、「臺所」、臺所門」、「輪番書」、「番所」、「鐘楼」、「茶所」があります。唐門の外、左側には「寺中」が多数あります。 上の挿絵はその前の挿絵の左につながっています。この絵にも寺中(塔頭)が多数見えます。 江戸名所図会の本文には「同所(築地の江風山月楼こと)川を隔てて北の方にあり。俗(ぞく)に築地(つきじ)の門跡(もんぜき)とよべり{或人(あるひと)云(いう)。此地(このち)は明暦四年に仰せの事ありて築所(つくところ)なりといえり}。一向派(いっこうは)にして京都西六条よりの輪番所(りんばんしょ)なり{宗派のもの是(これ)を表方(おもてかた)という}。塔頭(たっちゅう)五十七宇あり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の2枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在の本願寺は晴海通りで切られて北東側の半分程度に迄削られているようです。南西の半分は築地場外市場です。又、挿絵によると本願寺の本殿は南西を向いていますが、現在は北西を向いています。 右は、本堂です。伊東忠太の設計によるインド風の石造りの建築です。築地本願寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
采女が原(うねめがはら)の挿絵には、中央に馬場、右上に「萬年橋」、その先に「西本願寺」があります。 江戸名所図会の本文には「木挽町(こびきちょう)四丁目より東の方、此所(このところ)に馬場あり。常に夥(おびただ)しく講釈師(こうしゃくし)浄瑠璃(じょうるり)の類(たぐ)い軒を並べて行人(こうじん)の足(あし)をとどむ。亨保九年迄(まで)此地(このち)に松平采女正(うねめのかみ)定基(さだもと)のやしきありし故(ゆえ)となり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円は萬年橋で、オレンジ色の楕円は西本願寺です。 |
木挽町(こびきちょう)芝居(しばい)の挿絵には、「*見せや 一ばん太鼓 二番鳥 老鼠」とあります。 江戸名所図会の本文には「歌舞伎芝居(かぶきしばい) 木挽町五丁目にあり。今(いま)森田勘弥(もりたかんや)の歌舞伎芝居(かぶきしばい)綿々(めんめん)として相続(そうぞく)す{芝居の基原(きげん)は堺町(さかいちょう)葺屋町(ふきやちょう)歌舞伎芝居(かぶきしばい)の条下(じょうか)に詳(つまびらか)なり}。昔は此所(このところ)六丁目に山村長太夫(やまむらちょうだゆう)といいし名代(なだい)の狂言座(きょうげんざ)ありて、中村(なかむら)市村(いちむら)森田(もりた)等(とう)の芝居(しばい)をあわせてすべて四座(ざ)ありしかと・・・」とあります。 | |
新橋(しんばし)汐留橋(しおどめばし)の挿絵で、左から右に流れている川は汐留川です。右端中央から汐留川に流れ込んでいるのは三十間堀です。汐留川には「新橋」と「汐留橋」が架かっています。画面中央の広い道に「通町」とありますが、これは旧東海道です。 江戸名所図会の本文では、新橋について「大通(おおどおり)り筋(すじ)出雲町(いずもちょう)と芝口(しばぐち)一丁目との間に係(かか)る。正徳(しょうとく)元年辛卯(しんぼう)朝鮮人(ちょうせんじん)来聘(らいへい)の前(まえ)宝永七年庚寅(こういん)此所(このところ)に新(あらた)に御門(ごもん)を御造営(ぞうえい)ありて芝口御門(しばぐちごもん)と唱(とな)え橋の名も芝口橋(しばぐちばし)と更(あらため)られしが、亨保(きょうほ)九年正月二十九日の火災(かさい)に焼亡(しょうぼう)するの後(もち)は、復旧(またいにしえ)の町家(まちや)となされたり。此(この)川筋(かわすじ)の東(ひがし)木挽町(こびきちょう)七丁目と芝口新町(しばぐちしんまち)の間に架(わた)せしを汐留(しおどめ)はしという」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い楕円とオレンジ色の楕円は、夫々、江戸時代の新橋と汐留橋の位置です。現在の汐留橋は、そこから100m程下流に移っています。 |
尾張町(おわりちょう)の挿絵には「布袋屋 亀屋 恵比寿屋呉服店」とあります。 | |
上は、金六町(きんろくちょう)しがらき茶店の挿絵です。 |
江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之一の中のページ
第一冊 江戸城、日本橋、御茶ノ水、浅草橋
第二冊 両国橋、伝馬町、永代橋、佃島、新橋 このページです
第三冊 増上寺、愛宕山、三田、高輪