アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之一 第三冊
江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之一の中のページ
第一冊 江戸城、日本橋、御茶ノ水、浅草橋
第二冊 両国橋、伝馬町、永代橋、佃島、新橋
第三冊 増上寺、愛宕山、三田、高輪 このページです
江戸名所図会 巻之一 天樞之部 第三冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
三縁山(さんえんざん)増上寺(ぞうじょうじ)の挿絵は以下の三枚の挿絵と合せてパノラマになっています。上の挿絵では、下側に「神明宮」、上側に「馬場」があります。馬場から入る門は御成門だろうと思われます。 其二では、右下に「下馬」、「大門」があり、右側に「阿加牟堂(あかむどう)」、「観音」を見ながら参道を進むと、「山門」があり、その右に「熊野」、山門の上に「鐘楼」があります。なお、画面の上側に「方丈」、「切通し」、「涅槃門」、「九重桜」、「白金いなり」が見えます。左下に「産千代いなり」とあります。 其三の挿絵の右に「本堂」があり、その手前に「輪蔵」、「開山堂」、「極楽橋」、「稲荷」があります。絵の左側の近景には「御鷹門」、「白太夫」、「飯倉天神」があり、遠景に「黒本尊」が見えます。 其四の挿絵には、中央に「安国殿」、手前に「茅野天神」、上方に「円山」、「円山いなり」があります。 江戸名所図会の本文には、「三縁山(さんえんざん)増上寺(ぞうじょうじ) 廣度院(こうどいん)と号(ごう)す。関東(かんとう)浄家(じょうけ)の総本山(そうほんざん)十八檀林(だんりん)の冠首(かんしゅ)にして盛大(せいだい)の仏域(ぶついき)たり・・・」とあります。 又更に、東照大神君(とうしょうだいしんくん 徳川家康)の項に「天正十八年、始(はじめ)て江戸の大城(おおしろ)に入らせたまうとき、州民(しゅうみん)鼓腹(こふく)し老幼あ(ろうよう)相携(あいたずさえ)て道路に拝迎(はいげい)し奉(たてまつ)る。幸(さいわい)に寺門(じもん)の前路(ぜんろ)を通御(つうぎょ)あるにより観智国師(かんちこくし)も是(これ)を拝(はい)せんとし出(いで)て寺前(じぜん)にあり{是(これ)則(すなわち)日比谷(ひびや)の地(ち)にありてのゆえ}。時(とき)に、師(し)の、道貌(どうぼう)雄毅(ゆうき)尋常(よのつね)ならざるを見そなわしたまい、其名(そのな)を問(と)いせられ、乃(すなわち)寺(てら)に入(いり)て憩(いこ)いたまい、其後(そののち)當寺(とうじ)を以って植福(しょくふく)の地(ち)となしたまい、永(なが)く師壇(しだん)の御契約(けいやく)あり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の左の3枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸時代は広大な寺域を有していました。現在の増上寺境内と大門の範囲を赤い楕円で表しています。 右の写真は、左の1枚め挿絵の御成門の辺りから左方向(南)を見ています。正面に増上寺の本堂が小さく見えています。 右は、現在の増上寺の境内のマップです。増上寺のホームページから借用しました。 右の中央にあるのは安国殿です。江戸時代は其四の挿絵の位置にありましたが、現在は本堂の横に移されたようです。 増上寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
増上寺山内 芙蓉洲弁天社(ふようしゅうべんてんのやしろ)の挿絵では、右手前に「柵門」とあり、絵の右中央が中島になっており、そこには「本社」、「いなり」、「こんぴら」があります。絵の左側には下から順に「赤羽」、「えんま 薬師 子聖」、「瘡守 いなり」、「切通」、「いなり」があります。 江戸名所図会の本文によると、辨財天祠(べんざいてんのやしろ)が蓮池の中の島にあり、「中島を芙蓉洲と号(なづ)く」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、挿絵の蓮池の位置にある池です。左上に東京タワーが見えることから、この方向は、挿絵の左上の岡の方向に当たることが分かります。 芙蓉洲辨天は、現在、増上寺の塔頭(たっちゅう)宝珠院の弁財天となっています。右は、現在の辨財天です。蓮池の中ではなく、池の東側に移されています。現在の宝珠院辯天堂の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
板倉神明宮(いたくらしんめいぐう)の挿絵には「世に芝(しば)の神明宮という」とあります。 画面中央に「拝殿」、「本社」があり、参道の両側に「大こく」、「天王」、「春日」、「天神」、「すわ」、「いなり」、「八まん」があります。境内にはその他、左下から反時計周りに、「神主」、「別当」、「手水や」、「茶や」、「吹矢」、「しばい」、「いなり」、「不動」、「弁天 *」、「いなり」、「土弓」があります。 其二には、画面左から入る「惣門」があり、その先に、鳥居があり「楼門」があります。楼門の左に「住吉」、さらにその先に「神主」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、芝大神宮(しばだいじんぐう)と呼ばれています。 右は、拝殿です。芝大神宮の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
九月十六日 板倉神明宮(いたくらしんめいぐう)祭礼(さいれい)の挿絵には「世にしょうかまつりという 十一日より二十一日迄参詣群集す」とあります。 | |
日比谷稲荷(ひびやいなり)社の挿絵には「毎年(まいとし)初午祭(はつうままつり)には二日以前より源助町と芝口三丁目の間の横に設く仮屋を捕理い、神輿御旅出ありて此辺の蕃昌(はんじょう)いうばかりなし」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りだったものと思われますが、現在は赤い楕円の辺りにあります。 右は、日比谷神社です。日比谷神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は、烏森稲荷(からすもりいなり)社です。 江戸名所図会の本文には「幸橋(さいわいばし)より二丁斗(ばかり)南の方、酒井下野侯(さかいしもつけこう)邸(やしき)の北の横通りにあり。往古(おうこ)よりの鎮座(ちんざ)といえども、年暦(ねんれき)来由(らいゆ)共に詳(つまびらか)ならず。故(ゆえ)ありとや・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、烏森(からすもり)神社と呼ばれています。 右は、拝殿です。烏森神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、藪小路(やぶこうじ)の挿絵です。 江戸名所図会の本文では、「藪小路 愛宕の下通(したとお)り加藤侯の邸(yしき)の北の通りを云う。同所(どうしょ)艮(うしとら)の隈(すみ)裏門(うらもん)の傍(かたわら)に少しばかりの竹叢(ちくそう)あり。故にしかいえり・・・」とあります。 | |
愛宕下(あたごした)真福寺(しんぷくじ)薬師堂(やくしどう)の挿絵には、以下の2枚の挿絵は続画(つづきが)なり、とあります。 山門を入って正面に「真福寺」、「薬師堂」があり、参道左側には「弁天」、「不動」、「聖天」があります。真福寺の前を流れている川はサクラ川と呼ばれたようです。 其二 愛宕(あたご)社惣門の挿絵は、上の挿絵の左につながっています。 絵の左下側に「惣門」があり、鳥居を過ぎて進むと「役行者」があり、その先の階段は、正面の「男坂」と右の「女坂」に分かれます。惣門の左に「別当」が、右に「本地堂」、「「土弓」、「土弓」、「子安観音」と続いています。 其三の挿絵は、其二の上側につながります。 左下に「男坂上り口」があり、その先に「二王門」、「鐘楼」、「拝殿」、「本社」があります。右下には「女坂上り口」、その右に「茶屋」、「拝殿」、「いなり」があります。拝殿の周りを反時計方向に「太神坊大権現」、「茶屋」、「祇園」、「*神」、「八まん 大神宮 春日」、「弁天」、「額堂」、「「弘法大師」、「鐘楼」、「茶屋」が並んでいます。 江戸名所図会の本文には、愛宕山権現(あたごさんごんげん)社について「・・・別当円福教寺は石階(せきかい)の下にあり、新義の真言宗、江戸の触頭(ふれがしら 寺社奉行に対応する役割の寺)四箇寺(しかじ 4つの寺)の随一(ずいいち)なり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の左の3枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。愛宕権現は現在愛宕神社と呼ばれています。 右は、真福寺です。現在、ビルに入っています。真福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、愛宕神社の大鳥居です。愛宕神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵には、「愛宕山(あたごさん)円福寺(えんぷくじ)毘沙門(びしゃもん)の使(つかい)は、毎歳(まいとし)正月三日に修行す。女坂(おんなざか)の上(うえ)愛宕(あたご)やといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例(きゅうれい)にてこれを勤む。 この日寺主(じしゅ)を始めとし支院(しいん)よりも出頭(しゅっとう)して、其次第により座(ざ)を儲(もう)け、強飯(ごうはん)を饗(きょう)す。半(なかば)に至る頃、此毘沙門(びしゃもん)の使ひと称する者、 麻上下を着し長き太刀を佩(はき)、雷槌(すりき)を差添え、また大なる飯(いい)かいを杖(つえ)に突(つき)、初春(はつはる)の飾り物にて兜(かぶと)を造り、 これを冠(かむ)る。相随(したが)うもの三人共に本殿(ほんでん)より男坂を下り、円福寺(えんぷくじ)に入りて此席(このせき)に至り、俎机(まないた)によりて彳(たたずみ)、 飯かいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰、まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化とも、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、 古参は七杯御飲みやれ御のみやれ。おのみやらんによっては、此杓子(しゃくし)をもって御まねき申すが、返答はいかん、といふとき、其一臈(いちろう) たるもの答へて曰く、吉礼の通りみなたえふするにて候え、と云々。「しからば毘沙門の使ひは罷帰るで御座ある、といひて、本殿へ立ち帰る」とあります。 | |
青松寺(せいしょうじ)の挿絵には、中央下に「惣門」があり、「中門」、「本堂」と続きます。本堂の右に「玄関」、「方丈」、「庫裏」があります。 江戸名所図会の本文には「万年山(まんねんざん)青松寺(せいしょうじ) 同(愛宕山権現社のこと)南に隣(とな)る。曹洞派の禅刹(ぜんせつ)にして江戸三箇寺(さんかじ)の一員(いちいん)たり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、青松寺の山門です。青松寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
金地院(こんちいん)の挿絵によると、左下に「本堂」、「方丈」があり、中央上に参道入口があるようです。 江戸名所図会の本文には「勝林山(しょうりんざん)金地院(こんちいん) 増上寺(ぞうじょうじ)の西切通しの上にあり。京師(けいし 京都)南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう )にして南禅寺の宿寺(しゅくじ)なり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。視線の方向は推定です。 右は、金地院の本堂です。金地院の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、西久保八幡宮(にしくぼほちまんぐう)の挿絵です。 江戸名所図会の本文には「西窪八幡宮(にしくぼはちまんぐう) 同所(どうしょ)天徳寺(てんとくじ)裏門(うらもん)より南(みなみ)の方(かた)三町程(ほど)飯倉(いいくら)町一丁目にあり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、西久保八幡神社と呼ばれています。 右は、拝殿です。西久保八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、飯倉熊野権現(いいくらくまのごんげ)社の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在の、飯倉熊野神社と呼ばれています。 右は、拝殿です。飯倉熊野神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の赤羽(あかはね)の挿絵ででは、画面中央少し下に「赤羽橋」が「赤羽川」に架かっており、その左方向に「増上寺」、「山内」とあり、赤羽橋の手前には「心光院」があります。又、遠景に「芝浦」があります。 江戸名所図会の本文では、赤羽川については「渋谷川(しぶやかわ)の下流なり。新堀(しんほり)と号(なづ)く」とあり、赤羽橋については「此辺(このへん)茶店(さてん)多く、河原(かわら)の北には毎朝(まいあさ)肴市(さかないち)立(たち)て繁昌(はんじょう)の地(ち)なり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤羽橋交差点の付近です。 |
上の赤羽(あかはね)心光院(しんこういん)の挿絵では、手前の川が赤羽川で、上の挿絵とは赤羽川を挟みほぼ反対側から見た絵になっています。心光院には「本堂」をはさみ、「玄関」、「庫裏」、「禅堂」が見えます。 江戸名所図会の本文では、「心光院(しんこういん) 同所(どうしょ)橋(はし)より北の河原道(かわらみち)より右にありて、増上寺(ぞうじょうじ)の別院にして宝暦(ほうれき)の頃(ころ)叡山(えいざん)より此地(このち)に移(うつ)さる・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。ただし、現在、心光院は東京タワーの近くに移転しているようです。 |
上は、竹女(たけじょ)故事(こじ)の挿絵です。江戸名所図会の本文によると、「江戸(えど)大伝馬(おおでんま)町の佐久間勘解由(さくまかげゆ)が召仕(めしつかい)の下女(げじょ)たけは、天性仁慈の志(こころざし)深く、朝夕(ちょうせき)の飯米(はんまい)、己(おのれ)が分は乞丐人(こつがいにん)に施し、 其身(そのみ)は水盤(すいばん)の角(すみ)に網(あみ)を置(おき)て、洗(あら)い流(なが)しの飯(いい)をうけ、其溜(たま)りしものを自(みずか)らの食料(しょくりょう)とす」という人物で、亡くなった後、水盤を心光院の門の天井に掛けてあったということだ、と書かれています。 | |
上の三穂神社(みほのじんじゃ)鹿嶋神社(かしまのじんじゃ)の挿絵では、手前が「鹿島社」で遠方に「三穂社」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。オレンジ色の楕円は挿絵の鹿島神社で、現在、三穂神社を合祀して御穂鹿嶋神社となっています。 右は、御穂鹿嶋神社です。御穂鹿嶋神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
金杉(かなすぎ)毘沙門堂(びしゃもんどう)の挿絵には「毎月(まいつき)寅(とら)の日、貴賎(きせん)群集(ぐんしゅう)して賑わいおおかたならず」とあります。 江戸名所図会の本文には「金杉(かなすぎ)の通(とお)り東の方の横小路(よここうじ)にあり、松林山(しょうりんざん)正傳寺(しょうでんじ)といえる中山派(なかやまは)の日蓮宗の寺境(じきょう)にあり・・・」とあります。 | |
上は、小山神明宮(こやましんめいぐう)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。小山神明宮は現在、元神明宮(もとしんめいぐう)あるいは天祖神社(てんそじんじゃ)と呼ばれています。 右は、元神明宮の拝殿です。元神明宮の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は三田(みた)春日明神(かすがみょうじん)社の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。春日明神社は現在、春日神社と呼ばれています。 右は拝殿です。三田春日神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は三田八幡宮(みたはちまんぐう)の挿絵です。絵の左に「拝殿」、「本社」があり、その右に「いなり」、「えんま」が、拝殿の前に「神楽殿」があります。手前は「海辺」とあり、広い道は旧東海道です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。三田八幡宮は現在、御田八幡神社(三田八幡神社)と呼ばれています。 右は、拝殿です。三田八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
聖坂(ひじりざか)済海寺(さいかいじ)功運寺(こううんじ)の挿絵では、右下に「功運寺」、「本堂」、「かね」が見えます。中央上の方に「済海寺」、「本堂」、「観音」があります。右端に「大増寺」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。功運寺は移転したため現在ここにはありません。 右は、聖坂です。左の挿絵の左の坂の少し下から撮った写真かと思います。 右は、済海寺の本堂です。済海寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、大増寺の本堂です。大増寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、竹柴寺古事(たけしばてらのこじ)の挿絵です。 |
竹柴寺の故事の伝わる地は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 |
魚籃観音堂(ぎょらんかんのんどう)の挿絵では、参道正面に「観音堂」が、参道右側に「大黒 弁天 毘沙門」、「稲荷」、[地蔵」があります。 江戸名所図会の本文では魚籃観音堂について「・・・浄閑寺(じょうかんじ)といえる浄刹(じょうせつ)に安置(あんち)す」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、魚籃寺の観音堂です。魚籃寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
挿絵の潮見坂(しおみざか)について、江戸名所図会の本文には「聖坂(ひじりざか)の南(みなみ)伊皿子台町(いさらこだいまち)より田町九丁目へ下る坂(さか)をいう。或人(あるひと)云。潮見坂(しおみざか)旧名(きゅうめい)は塩見崎(しおみざき)と呼(よび)たりしという。古(いにしえ)はすべて此辺(このへん)に七崎(ななさき)ありしと云。按(あんずる)に塩見崎、月岬(つきのみさき)、袖が崎(そでがさき)、大崎(おおさき)、荒藺崎(あらいぐさざき)、千代ヶ崎(ちよがさき)長南が崎(ちょうなんがさき)、是等(これら)を合(あわ)せて七崎といいしか」とあります。/p> |
江戸名所図会の本文に書かれた住所から推定すると、挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。ただし、現在、潮見坂という坂が存在し、右の地図のオレンジ色の楕円の辺りにあります。 |
上の挿絵の伊皿子薬師堂(いさらこやくしどう)について、江戸名所図会の本文には「潮見坂(しおみざか)より高輪(たかなわ)へ下る坂の左側にあり。寺を醫王山(いおうざん)福昌寺と号(ごう)す。天台宗城琳寺(じょうりんじ)に属す・・・」とあります。 |
福昌寺、伊皿子薬師堂については不明です。私の江戸切絵図には載っていません。 |
上は高輪牛町(たかなわうしまち)の挿絵です。本文には、挿絵の牛小屋につて「牛町にあり。延宝(えんぽう)江戸図に此地(このち)を牛の尻(うしのしり)と云(いう)とあり。牛を畜する家多く、牛の数(かず)一千疋(いっせんひき)に餘(あま)れり。養(やしな)う処(ところ)の牛(うし)、額(ひたい)小(ちいさ)く其角(そのつの)後(うしろ)に靡(なび)きたるを藪覆(やぶくぐり)と号(なづ)けて上品(じょうひん)なり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の本文に書かれた牛町は、車町とも呼ばれていましたので、挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。 |
上の挿絵の高輪大木戸(たかなわおおきど)について、本文には「宝永七年庚寅新(あらた)に海道(かいどう)の左右(さゆう)に石垣(いしがき)を築(きずか)せられ高札場(こうさつば)となしたまう・・・此地(このち)は江戸の喉口(こうこう)なればなり・・・七軒(しちけん)と云辺(いうへん)は酒旗(しゅき 酒屋の旗)肉肆(にくし 肉を食べさせる店か?)海亭(かいてい 海に面した料亭か?)をもうけたればば、京登(きょうのぼ)り東下(あずまくだ)り伊勢参宮(いせさんぐう)等(とう)の旅人(りょじん)を餞(おく)り迎(むか)うるとて来(き)ぬる輩(ともがら)、ここに宴(えん)を催(もよお)し常(つね)に繁昌(はんじょう)の地たり。後ろには三田(みた)の丘(おか)綿々(めんめん)とし前(まえ)にも品川(しながわ)の海(うみ)遥(はるか)に開(ひら)け、渚(なぎさ)に寄る浦波(うらなみ)の真砂(まsご)を洗(あら)う光景(こうけい)など最(いと)興(きょう)あり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。 現在、ここには高輪大木戸跡の遺跡があります。江戸名所図会によると、海道の両側に石垣があったとの記述がありますが、現在は、片側にしか残っていません。 |
上の高輪(たかなわ)海辺(うみべ)の挿絵には七月二十六夜待(やまち)とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺ではなかろうかと推定します。右の地図で、赤い破線は旧東海道、水色の破線は海岸線です。挿絵からは東海道が大きく右に回り込んでいるように見えますので、このように推定しました。 |
泉岳寺(せんがくじ)の挿絵には「浅野家の義士等をいたむ おもたかの 鎗をひくなり かきつばた 其角」とあります。挿絵では、左下の「惣門」から入り参道を進むと「中門」があり、左右に「学寮」を見なが橋を渡ると正面が本堂です。その左右に「禅堂」、「方丈」、「庫裏」、「かね」、「いなり」があります。画面の左上の方に「四十七士墓」があります。 江戸名所図会の本文には、萬松山(まんしゅうざん)泉岳寺(せんがくじ)の項に「・・・當寺(とうじ)は浅野家(あさのけ)の香花院(こうけいん)にして、其家(そのいえ)累代(るいだい)の兆域(ちょういき 墓所)あり。又、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)及び義士(ぎし)四十七人の石塔(せきとう)あり方丈(ほうじょう)より南の丘(おか)の半腹(はんぷく)にあり。傍(かたわら)に當寺(とうじ)住僧(じゅうそう)建(たつ)る所(ところ)の石碑(せきひ)あり、其(その)趣旨(しゅし)を注(ちゅう)す・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。 右は、泉岳寺の中門です。挿絵には総門が描かれていますが、現在はありません。 右は、中門の先にある山門です。境内の説明では、1933年に再建された、とありますが、江戸名所図会には未だ描かれていません。挿絵では、本堂の前に礎石が12個?見えますので、そこが、山門の位置かと思われます。この写真は堀の手前から撮っています。堀は、挿絵と同じ位置にあるようです。 右は、本堂です。泉岳寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
如来寺(にょらいじ)の挿絵には「世に大仏(おおほとけ)という」とあります。挿絵の左側に「本堂」があり、その左手前には「方丈」、「かね」があり、右手前には「「地蔵」、「大日」、「二王礎」があります。右の小高い丘「臥龍岡」に「観音」、「天神」、「秋葉」があります。 |
如来寺は、現在、品川区西大井に移転しています。 |
上の挿絵には常光寺(じょうこうじ)、太子堂(たいしどう)、稲荷社(いなりのやしろ)、庚申堂(こうしんどう)が描かれています。絵の左側に常光寺があり、「本堂」とその周りに「弁天」、「方丈」があります。絵の右側に、右から順に「太子」、「稲荷」、「庚申」が並んでおり、それらの前に「かぐら所」、「かね」があります。絵の手前の海は「高輪海辺」、それに沿った道は旧東海道です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。赤丸は稲荷社(現在 高輪神社)です。浄光寺は他所へ移ったようです。 右は高輪神社です。昭和になって、稲荷神社から高輪神社へと改称されたのだそうです。 右は拝殿です。高輪神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、太子宮です(仲間のIさんの写真を借用しました)。拝殿の向かって左側にあり、江戸名所図会とは異なる配置になっています。 |
石神社(しゃくじんじゃ)の挿絵には「縁(えん)遠(とお)き婦人(ふじん)、当社(とうしゃ)に詣(もう)で良縁(りょうえん)を祈(いの)れば、必(かならず)験(しるし)ありという。報賽(ほうさい)には社地(しゃち)に何(なに)に限(かぎ)らず樹木(じゅもく)を栽(うゆ)ると習俗(ならい)とせり。 相伝(あいつた)う。石剣(せきけん)を祭(まつ)るという」とあります。 |
後述の高山稲荷神社と合祀され、現在は高山神社となっています。 |
高山稲荷神社(たかやまいなりじんじゃ)の挿絵には「薩州侯御藩の南にあり」とあります。挿絵には、階段を上った先に「本社」、その左に「庚申 疱瘡神 いなり あきば 天神 いなり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。当時、高山稲荷神社は丘の上にありましたが、明治時代に入り、石神社と合祀され、右の赤丸の位置に高山神社として移され、現在に至っています。 高山神社の鳥居です。旧東海道(国道15号線)に面しています。 高山稲荷神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
東漸寺(とうぜんじ)の挿絵では、左下の「総門」を入り、右に「はちまん」を見ながら参道を進むと「山門」があり、その先に「本堂」があります。本堂の右には「方丈」、「庫裏」があり、左に「開山堂」があります。参道の左には「経堂」、「「塔中」、「天神」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺かと思われます。赤丸は本堂の辺りです。 右は、旧東海道(国道15号線)から参道を撮った写真です。惣門は見当たりません。 右は、山門です。挿絵と同じ位置にあるのではないかと思われます。 右は、本堂です。東漸寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
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