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南郊 「大師河原にあそぶ記」

文政元年(1818)五月十六日、村尾嘉陵は、深川の永代橋から船で出発し、大森で下船し、そこから陸路で羽田弁財天や川崎大師を尋ねる日帰り散策を行いました。以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。

左下の図は、自筆本の「大師河原・羽田弁天略図」で、上が南、下が北です。図に記載されている地名につき少し説明します。左下の永代橋から海岸に沿って南へ、「鉄砲洲」「築地」「浜御殿」「本芝」「八山」「品川」「鮫洲」「鈴ヶ森、磐井神社」「大森、荒藺崎」「浦守いなり」「羽田社」「大師河原渡し」「六郷渡し」「羽田村」とあり、多摩川の向こう側には「平間村」「平間寺」「石観音」とあります。

江戸近郊道しるべ06左図の下に示す自筆本「大師河原にあそぶ記」の最初のページは「文政元年戊寅(つちのえとら)五月十六日、まだしののめ(夜明けの薄明るくなり始め)の頃、深川紺場といふ処より、海士(あま)のつりする小舟ささせてこぎ出」で始まっています。

さて、ここに書かれた出発地である深川紺場の場所が分からないのですが、左の図によると、おそらく、永代橋の南東の橋のたもとに近い船着き場であろうと思われます。

下の図は絵本江戸土産の「永代橋」です。上流から下流に向かって書かれた図のようですので、図の左奥が深川紺場であろうと思われます。

  絵本江戸土産永代橋

下の写真は、隅田川を下る船上から撮った永代橋(正面)です。永代橋の向こう側は石川島(佃島)のタワーマンション群です。左の図の「人足寄場」に当たります。 嘉陵は、永代橋の左奥から人足寄場の手前を右に進んだことになります。なお、江戸時代の永代橋は現在の位置より少しばかり上流にあったようです。

  永代橋

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産高輪光景
 出発した頃はまだ昨夜の風の残りからか、「波少しうねりしも、辰の刻(午前八時頃)過ぎる頃は、いと静かに和みたり」とあります。しかし、「沖の山は見えず、高なわ手(高輪)、八山辺りの木立、絵に書きたるように見渡」せたそうです。また、「高縄の沖に錠おろして、国々の船あまた集う」とあります。右図は絵本江戸土産の「高輪の光景」です。高輪沖はこのよう様子だったのでしょう。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会浅草海苔
  この後、更に漕ぎすすめると「空やや晴れて、よもの景色いふべくもさら也。鮫洲の汀(みぎわ 波打ち際)より、日比(のりやカキを付着させるため海中に立てる枝つきの竹やそだ)といふものを、あまた植え並みて、海の中にいくらも見ゆ。是は海苔をとるべき料(道具のこと)也けり」だそうですが、実は自筆本のこの辺りは虫食い等が多く、東洋文庫からの写しです。 右は、江戸名所図会の「浅草海苔」の図で、品川、大森辺りの海辺の風景のようです。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会磐井神社
  「晴にたれば日の光浪にきらめきて、まばゆくあつきに、笠かたぶけ舷(ふなばた)によりて、しばし居眠るうちに、舟大森の磯に着きたり」、「潮干上りて岸遠浅なれば、下り立てゆく」、「舟人はいとまこひて別かる。岸にのぞみて茶店あるに入て、足あらひなんどしつつ、そこを立出。まだ巳(み)の刻(午前十時頃)のはじめ也けり」だったそうです。そこには「磐井(いわい)の神社、道(東海道のこと)の西側に鎮座まします」ので「武運長久とねぎ(願うの意)奉」りました。右の写真は江戸名所図会に描かれた「磐井神社(鈴の森八幡宮)」の図です。手前の広い道は東海道です。

江戸近郊道しるべ 磐井神社 この神社には、「鈴石(すずいし)」「烏石(うせき)」という古くから伝わる石があるということが左のページに書かれています。現在は、右の写真のように説明板があり、石そのものは非公開のようです。 なお、この鈴石が当地「鈴ヶ森」の地名の由来になっているそうです。

江戸近郊道しるべ 磐井神社 左のページには、烏石の謂れについての記載が続いています。右の写真は磐井神社の拝殿です。  

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会和中散
  左のページには、この辺りの磯を荒藺(あらい)の崎と呼ぶことが書かれています。また、当時「和中散」と呼ばれる有名な薬があったそうなのですが、その和中散の薬売り(当時、大森に三軒あった)の前を過ぎ、先に進みました。右は、江戸名所図会の「大森和中散」の図で、正面が薬売りです。この道は東海道です。

江戸近郊道しるべ 大森羽田道分岐 薬売りの前を「少し過ぎて道の東側茶店の傍らより、小道に入りて屈曲して、田端の畔道を行」きます。 つまり、東海道を離れ、羽田道(するがや通)に入ったようです。この分岐点は、現在の美原、内川橋を越えてすぐのところにあり、その角に羽田道への分岐をしめす道標があります(右の写真)。 東海道を離れ、羽田道(するがや通)をしばらく進むと羽田の人家があり、その先に浦守稲荷(穴守稲荷とは別の神社)があります。「社頭(社殿やその周りのこと)新たに作りなしてキラキラしゅう見ゆ」だったそうです。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産羽田弁財天
 更に進むと堤(多摩川の堤防)がありそこを進むと堀切があり、古い船の底板を使った仮橋が架かっています。その橋を渡ると、「葦茅(よし)のみ生たる荒磯の細道を行過れば羽田の森弁才天の祠、南面して、しづもり(深く静まってい)ます」、ということで羽田弁財天に到着です。記述から推測されるように、当時は現在の弁天橋の東側にあったようです。右は、絵本江戸土産の「羽田弁財天」です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会羽田弁財天
  嘉陵は以前にも自身の父親とここに来たことがあるそうで、左のページでは暫く羽田弁天についてのお話が続きます。 右は、江戸名所図会の「羽田弁財天」ですが、境内の様子は嘉陵の記述によく合います。例えば、「社(やしろ)の東側に小房を構ふ僧一人あり。房の庭に常夜燈あり、沖より入船の目あてとすと云」とありますが、図の右(東)はそのとおりになっています。

江戸近郊道しるべ 絵本江戸土産羽田弁財天 また、「石の鳥居のかたはらに茶店あり、蛤の蒸したるを商う、味わいことに美也」と右上の図の左側の鳥居と茶店を指しているようです。「それ食べながら、ゆかに腰かけて、南の海を見さく(見ること)、浦風ことに涼し」と。なお現在、羽田弁財天は弁天橋の西側に移され「玉川弁財天」と名を変えています。右は、現在の玉川弁財天です。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会川崎大師
 そうこうしていると、「茶店に舟さす男あり。銭少し与えて、岸より舟にのる。大師河原の渡しまで十四五丁が程乗りて行く。やがて、かしこより上る」「川の堀切に沿い、くろ(畔)のほそ道などつたひて、平間寺(川崎大師)門前に出」たとあります。右は江戸名所図会の「大師河原」で川崎大師が描かれています。大師詣でが済み帰ろうとすると、御開帳がある、という話が聞こえたので、暫く待ち本尊を仰ぎました。「尊像は三尺余もありぬべし。なべて黒く、衣紋(えもん)の襞なんどのくまぐまに、白きところもあり。海底にありし時、貝の附たる也と、かたへの人いふ」

江戸近郊道しるべ 川崎大師つまり、この尊像は、遍照金剛(空海)が自ら彫った像で、長い間海の中にあったもので、ある高僧に夢のお告げがあり海中から網ですくい上げられた、という言い伝えのことを言っています。右の写真は現在の川崎大師の本堂です。自筆本の左のページでは、大石内蔵助と石地蔵の言い伝えを書いています。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会六郷の渡し
 さて、「大師河原のうち、海道へ出る道の傍らに、牓示(道標のこと)あり、石観音道と彫りつく。今日は行くてに見て打過ぐ(その方向を見るだけで済ます)」ということで石観音はパスします。そこから東海道を戻り、六郷の渡しを越えて、歩き慣れた道を進みました。右の図は江戸名所図会の「六郷渡場」です。左の自筆本ではこの後、六郷橋について少し述べています。

江戸近郊道しるべ 六郷渡し跡さて、「申の半刻(午後五時頃)ばかり、八山に帰り着きぬ。ここより又舟にのる、かへさ(帰り道)は南の風よき程にそよ吹きて、舟に帆かけたれば、其駃(はや)き事いふべくもなし。ともづなときし頃、すでに東天に星見えたりしに、永代橋の上り場につきても、まだ酉の刻(午後六時頃)の初めなり。凡(およそ)二里ばかりの間を、瞬目に馳せ着きぬ」とあります。右の写真は、現在の六郷橋と六郷の渡し跡です。

江戸近郊道しるべ 江戸近郊道しるべ 左側のページの左半分の地図は、一番上に示した地図です。右半分には、食べたものの味や値段の評価、当日掛かった費用などが書かれています。その右ページの右半分は、船中での印象を漢詩にしたもののようです(よく分かりませんが)。左半分は、別の時の記録です。舟も使ったとはいえ、朝早く永代橋を出て川崎大師を訪ね、その日の夕方には永代橋に戻っている、というのですから、昔の人は健脚だったのですね。