アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之ニ 第五冊
江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 の内容
第四冊 品川、鈴ヶ森、大森、蒲田、六郷 (準備中)
第五冊 川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間 (このページ)
第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢
江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 第五冊
川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間江戸時代の風景 | 現在の様子 |
河崎万年屋 (江戸名所図会より) この挿絵は、六郷の渡しで舟を降り東海道を歩き始めてすぐのところにあった河崎万年屋という茶店の賑わいを表しています。この店は、江戸時代中期には一膳飯屋でしたが川崎大師参詣者が増えるに従い川崎でナンバーワンの茶屋となり、そのうち旅籠になったそうです。奈良茶飯が評判だったようですが、その奈良茶飯というのは、奈良の東大寺等にルーツがあり、豆や栗などをお茶の煎じ汁や醤油で炊き込んだ飯です。 絵を見ると、店の賑わい、往来の賑わいが分かります。店には畳が敷いてありますが、手前には、草鞋も脱がず急いで奈良茶飯をかきこんでいる様子の人もいます。奥の方では、ゆっくり食べているように見える人もいます。どうも旅の途中とは思えない子連れもいます。火鉢が置いてあるところを見ると、季節は火の恋しくなる時期かと思われます。 出している食事は奈良茶飯だけではないようです。新鮮な魚が持ち込まれており、一匹まるまる皿に載せた料理を運んでいる様子も見えます。 なお、六郷川とは多摩川のことであり、東海道には江戸時代初期には橋が架かっていました。しかし、洪水で度々流され費用が嵩むため、元禄時代以降は渡し船になり、ここは六郷の渡しと呼ばれました。 | 万年屋は上の地図の緑色の楕円の辺りでした。地図上の赤い破線は旧東海道です。江戸時代、多摩川の部分は渡し船を使っていました。 右の写真は万年屋跡です。右に見えているのは第一京浜で、その下を潜り少し進むと多摩川に出ます。右上の地図では、北東方向です。 右の写真では、左が第一京浜で、その横に人と自転車のための橋があります。 その場所から現在の多摩川の下流を見ています。ここが川崎側の六郷の渡しの辺りです。ただし、川を覗き込んでみても渡しの跡らしきものは何もありません。
六郷の渡しからすぐのところに川崎大師に向かう道があります。右の写真の道標に、万年横丁・大師道とあります。
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河崎山王社 (江戸名所図会より) 挿絵のキャプションは河崎山王社ですが、江戸名所図会の本文では、堀内山王権現宮となっています。絵の中央に鳥居があり、さらに参道を進むと拝殿、後に本殿があります。拝殿右に神木があり、現在の状況と比較する際、この神木の位置がよい目印になります。 本殿の後から反時計回りに、第六天、白山いなり、疱瘡神、いなり、天神、弁天といった境内社(摂社・末社)が見えます。 絵の向こう側には家々が並び、その先は、川か海のように見えます。多摩川あるいは東京湾でしょうか。 江戸名所図会の本文には、「欽明天皇の時代(6世紀中頃)に勧請、河崎の鎮守。正月の流鏑馬神事、6月の大祭、9月の相撲興行、11月の歳の市と賑わった。鎌倉時代に頼朝の命により佐佐木高綱が社を造営したらしい」とあります。 | 山王社は、明治時代以降、稲毛神社と呼ばれており、上の地図の緑色の楕円の辺りにあります。稲毛神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 稲毛神社は現在、上のGooglEarthの写真のようになっています。この写真は西側の上空から、つまり、江戸名所図会の挿絵と同じ方向から見ています。境内の東側を斜めに走っている広い道路は第一京浜(国道15号線)です。 稲毛神社の参道は南側から赤っぽい鳥居をくぐって北に伸びています。右の写真が参道の中ほどにある鳥居です。 本殿拝殿は、GoogleEarthの写真では屋根だけ見えています。参道を進み航空写真で木に覆われて見えなくなった辺りで左(西)に向くと、その正面が拝殿になっています。右は拝殿の写真です。 このような状況から、現在の参道と拝殿の位置関係は江戸名所図会でのそれと異なっていることが分かります。 ところで、江戸名所図会の絵には神木がありました。現在も、それは右の写真のように樹齢千年の御神木として大事に保存されています。 近くによって幹を写したのが右の写真です。この神木は、参道を挟んで現在の拝殿の丁度反対側にあります。 つまり、江戸名所図会の絵の神木と参道の位置関係は現在と同じ、ということになります。従って、江戸名所図会の絵は、山王社を南西上空から見た絵だと分かります。 稲毛神社には多数の境内社があり、例えば右の写真には第六天、いなり明神が並んでいます。江戸名所図会にある明神と同じかもしれません。 参道を北に向かって真っすぐ進むと、塀の際に右の写真のような旧御社殿跡と刻まれた碑があります。旧社殿は江戸中期に造営されたものの昭和20年に空襲により失われたそうで、昔は、江戸名所図会の絵にあるように、この方向に社殿があったものと思われます。 稲毛神社の川崎市役所側の鳥居近くに幾つか境内社が並んでいます。右は、白山稲荷です。金川砂子の絵の白山いなりかと思われます。 宗三寺の近くにあった佐々木神社が明治時代にここ稲毛神社に遷されました。
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大師河原 大師堂 (江戸名所図会より)
上の挿絵は現在、川崎大師と呼ばれている大師堂です。中央右側に本堂があり、参道が左へ伸びて山門の外側には参詣人が多数見られます。1月から9月の奇数月の21日は御影供(みえく)で参詣の人が多いことが書かれています。 図会では、手前右側から左へ向かい大きく回って折り返して山門に向かうという人の流れが表されています(右手前の道を右に進むと現在の京急大師線川崎大師駅に出ます)。 以下に、江戸名所図会の記載を少しピックアップします。大師堂は、金剛山平間寺(へいけんじ)金乗蜜院と号す真言宗です。当時に安置されている弘法大師の霊像がこの地より出現したためここは大師河原と呼ばれています。縁起によると、弘法大師の霊像は、大治年間(崇徳天皇の時代、十二世紀前半)に平間某という信心深いが貧しい漁師がおり、四十二歳のとき厄除を祈ったところ、ある夜、「昔唐にいた頃、自分の像を刻んで海に流したことがあり、その像がこの浦に漂着している。網を投げて拾えば厄が除け、望みが叶うであろう」との大師のお告げが有り、次の朝海上を見渡すと一条の光があり大師の像を見つけることができ、平間寺を建て篤く敬ったところ参詣人が絶えず大いに賑わった、とのことです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。川崎大師付近の明治時代の地図を見ると、本堂が西側、山門が東側になっていますので、図会の絵の視線は右図の青い矢印の方向かと思われます。 川崎大師の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 川崎大師は第二次世界大戦でかなりが焼けてしまい、古い建物はあまり残っていないようです。 右の写真は、絵の左側から山門に向かう門前街です。現在は、図会の門前街よりもかなり長くなっているように見えます。実際、明治初期の地図と後期の地図を比較すると門前街が長くなっていることが分かります。 上はGooglEarthの写真です。江戸名所図の挿絵とほぼ同じ方向から撮っています。現在の門前街は、京急大師線の川崎大師駅前(写真の右先)から始まり、境内の北側をぐるっと廻る傘の柄のように形作られています。つまり、写真下に見える左に向かう表参道を進み、明長寺を過ぎた所の交差点で右へ曲がり、又すぐ右へ曲がり川崎大師へ向かいます。正面に大山門が見えてきます。 境内の中央部、本堂の左手前に旧本堂の礎石が置かれていました。右の写真の中央の柵で囲まれた石です。説明板には、旧本堂は1834年に建立されたが、第2次世界大戦の戦禍で他の堂とともに消失した、と書かれています。江戸名所図会の第二巻が出版されたのは1834年ですが、出版までは相当時間が掛かっているようですので、図会に書かれた本堂はこの旧本堂の更に前の本堂の可能性が高いと思います(ただし、未確認です)。 |
末広松 (江戸名所図会より) 末広松(すえひろまつ)は、稲荷新田の石渡(いしわた)氏の門辺にあった、と記されています。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのどこかであろうと思われます。当時、多摩川はかなり蛇行しており、この地図の東京都と川崎市の境界線がその蛇行の名残なのでしょう。 なお、末広松は大師橋の東約100mに戦前まであったのですが枯れてしまったそうです。 |
河崎汐浜 (江戸名所図会より) 江戸名所図会によると、河崎汐浜(しおはま)は、1669年に開拓が始まった場所で、製塩が盛んだったようです。また、風景が非常に良い、とあります。 絵の手前では、塩を詰めた俵を舟に積み込んでいます。遠くに上がっている煙は海水を煮詰めている小屋から出ています。江戸時代の浜辺ではよく見られた風景だったとのことです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた汐浜は、上の地図の中央辺りから南の辺だと思われます。今は埋め立てられ様子がまったく変わっています。右の地図の緑色のところは塩浜の名前が残っている産業道路の交差点で、丸印のところには塩浜神明神社があります。
右の写真は塩浜神明神社の案内板です。汐浜の江戸時代の様子が江戸名所図会に書かれている、と記載されています。塩浜神明神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
石観音堂 (江戸名所図会より) 上の挿絵では、右下に山門があり中程に本堂があります。その先は帆掛け舟の浮かんでいる海です。江戸名所図会の本文によると、この寺は天台宗の慧日山(えにちざん)明長寺(みょうちょうじ)と号し、本尊の如意輪観音が石像なので石観音堂と呼ぶ、ということです。また、霊亀石(れいきせき)とは門内の垣の傍らにある石の手水鉢(ちょうずばち)のことで、これは海の底から見つかったもので、漁師が引き上げようとしたとき、霊亀が出てきて揚げるのを助けたため神通力を持つことがわかった。しかし今では石が痛み水を湛えることができなくなっている、ということです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれている範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。石観音堂(いしかんのんどう)は楕円の北西端です。絵の奥の海は右地図の楕円の右下端辺りかと思われますが、今ははるか向こうまで埋め立てられています。 右の写真は石観音堂の正面です。境内は江戸名所図会の絵と同じ配置です。 右は本堂です。石観音堂の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は霊亀石です。江戸名所図会の絵とは違い、山門を入りすぐの参道の右側に置いてあります。 なお、川崎大師の山門近くに恵日山明長寺があります。同寺の説明板によると現在の本堂は明和二年(1765)に再建された、とありますので、江戸名所図会の描かれた時代には既にこの場所にあったようです。江戸名所図会に間違いがあるのかもしれません。
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河崎新田社、無動寺、他 (江戸名所図会より) 上の挿絵の右下に河崎新田社(かわさきにったしゃ)があり、中央に無動寺(むどうじ)、左上に亘(わたり)新左衛門の墓があります。 本文によると、新田大明神社の祭神は新田義貞で、義貞が越前で流矢にあたり命を落とした時、亘新左衛門早勝という家臣がその周りの泥の中から義貞の剣と明鏡と陣羽織の三種を探し出し、この地に持ち帰り弔い守り続けた。その後里人が松の樹の下に三種を埋蔵して廟を建て新田大明神として崇めた。その松は今(絵図の時代)は枯れて既にない、とのことです。 又、無動寺は、新田山成就院(じょうじゅいん)聖無動寺(しょうふどうじ)と号す、とあります、が、むどうじの誤りか?また、新田大明神の別当で、本尊の不動明王は弘法大師の作で、義貞が守った像である、と。 亘新左衛門早勝の家については、無動寺の半町ほど西にあり、早勝が死んだ後、里人が旧恩を忘れず祠を建て早勝の霊を鎮め御霊権現とし、(絵図の時代には)その傍らに高さ三尺ばかりの墓があった、とあります。なお、亘家はこの辺りの豪族で、現在も、この辺りは渡田(わたりだ)といいます。 御霊権現社 亘新左衛門塚 (江戸名所図会より) 御霊権現社、亘新左衛門の塚については、絵の上の説明のとおりです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのどこかであろうと思われます。楕円の右上に河崎新田社(にったのやしろ 現 新田神社)があり、中央辺りに無動寺(現在は、真言宗智山派明王山成就院)があります。亘新左衛門の墓は楕円の左下辺りにあったものと思われます。 右の写真は、新田(にった)神社です。鳥居を通して本殿がみえていますので、江戸名所図会の絵と同じ配置です。 右は、新田神社の本殿です。新田神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、無動寺を道路側から撮った写真です。無動寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、無動寺の本堂です。山門との位置関係は江戸名所図会と同じようにも見えますが、はっきりとは分かりません。 右は、亘新左衛門早勝の墓です。現在、新田神社の本殿の西隣に置かれています。 右の説明板には、亘新左衛門早勝の墓が早勝の住居(現在の渡田三丁目)に祠(御霊社)とともに建立されたのですが、明治時代に新田神社に移された旨が書かれています。 |
姥が森 栗生左衛門塚(江戸名所図会より) 上の挿絵の中央の上の方のちょっとこんもりとしたところに「姥が森(うばがもり)」という表示があります。江戸名所図会の本文には、姥が森は成就院(無動寺)の7、8町南の海浜にあり、堀内山王社の旅所(たびしょ 神あるいは神輿が巡幸の途中で休む所)で、更にその西にかけて馬場の跡がある。これは、新田義貞が寄付した馬場で、御手洗池(みたらしいけ)は森のなかにある、と書かれています。上の絵では、姥が森の左に「みたらし」、さらに左に「馬場」と表示されています。 また、本文に、姥が森から5町ほど西の竹藪の中に栗生左衛門尉忠良(くりゅうざえもんのじょうただよし)の塚がある、とありますが、この塚は、上の絵の中央少し下のヤブの中に見える石塔(注意して探さないとわかりません)のことかと思われます。なお、姥が森、馬場、塚の位置関係は、絵と本文で少しズレがあるようです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円のまわりを示すものとおもわれます。現在ここには姥が森公民館があり、その前に、姥が森弁財天と、御手洗池の跡とされている井戸があります。 |
宗三寺、養光寺、佐々木宮(江戸名所図会より) 上の挿絵の中央手前に宗三寺(そうさんじ)があります。 また、中央少し奥に養光寺、佐々木宮があります。絵の左下から右上に伸びている広い道は東海道です。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのようです。 右の写真は現在の宗三寺です。宗三寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、左の金川砂子の挿絵に書かれている佐々木宮の現在の写真です。明治時代に稲毛神社の境内に遷され佐々木神社として祀られています。 |
市場観音(江戸名所図会より) 上の挿絵には市場観音(いちばかんのん)が祀られている専念寺(せんねんじ)が描かれています。 江戸名所図会の本文には、この観音は寛朝(かんちょう)の作で、紫式部の念持仏だったという言い伝えがある、と書かれています。 |
右の写真は専念寺です。専念寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
末吉不動堂(江戸名所図会より) 上の挿絵には末吉(すえよし)不動堂が描かれています。絵の右下には「末吉村」とあります。階段を上がっていくと「仁王門」があり、更に上に「かね」、「不動堂」、「本堂」が見えます。
| 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りにあります。末吉不動堂は現在真福寺と呼ばれています。 真福寺の参道の一番下から見ています。真福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 真福寺の不動堂です。参道と不動堂の位置関係は江戸名所図会の時代から殆ど変わっていないようです。
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鶴見橋(江戸名所図会より)
上の挿絵には鶴見(つるみ)橋が描かれており、以下の様な説明があります。 | |
生麦村 しがらき茶店(江戸名所図会より) 上の挿絵には、生麦(なまむぎ)村で繁盛していたしがらき茶店が書かれています。 絵の中の説明には「生麦は、河崎と神奈川の間宿(あいだしゅく)にて、立場(たてば)なり。此地(このち)しがらきといへる水茶屋(茶などを提供し休息させる店)は亨保年間店を開きしより梅干をひさぎ(なりわいとし)梅漬の生姜を商ふ。往来の人ここに休(憩 いこ)はざるものなく、今時の繁盛ななめならず(はんぱない)」とあります。 絵を見ると、店の手前側では、売るためか乾かすためか梅を並べています。その左側ではお茶をいれています。店の奥を見ると、客がお茶を飲みながら何かをつまんでいる様子が見えます。この店は大変広くて、幾つもの駕籠が客を乗せたまま店に入っていますが、往来と店の仕切りがはっきりしないところを見ると、評判の割には簡素な作りだったのかもしれません。 | |
成願寺(江戸名所図会より) 挿絵に書かれている成願寺(じょうがんじ)は大変広い境内を持っています。 江戸名所図会の本文には、成願寺は曹洞宗で寺尾天王寺に属し、云々と書かれています。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのようです。現在の成願寺は右の地図の赤丸の辺りにあります。 右の写真は、現在の成願寺の本堂です。旧成願寺は現在の総持寺の敷地にあったのですが、曹洞宗の総本山である総持寺(そうじじ)に敷地を譲る形で今の場所に移ってきました。成願寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、現在の総持寺の境内の案内マップです。現在の総持寺は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右の写真は、総持寺の山門です。この奥に広大な総持寺の境内が広がっています。 総持寺が鶴見に移った経緯は以下のとおりです。総持寺は14世紀に石川県に創建され、曹洞宗の総本山として600年ほど続いた後、明治31年の火事で伽藍の多くが失われました。そのため、明治44年にここ鶴見に遷りました。当時この土地には江戸名所図会に書かれている成願寺がありましたが、敷地を成願寺から譲り受け、現在の総持寺となりました。 総持寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
白旗八幡宮(江戸名所図会より) 挿絵には白旗(しらはた)八幡宮が描かれています。中央少し上に「本社」とあり、その手前麓は「白旗村」とあります。 江戸名所図会の本文によると、白旗八幡宮は白旗村にあり義経の霊を鎮めるところと伝わっており、詳細は拾遺江戸名所図会に詳しく書いてる、とのことです。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのようです。 上は、江戸名所図の挿絵とほぼ同じ方向から撮ったGoogle Earthの写真です。 右は鳥居から振り返って撮った写真です。上の航空写真で境内から左下に伸びている道で、ずっと下り坂が続いています。 右の写真は本殿です。白旗八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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子生山観音堂(江戸名所図会より) 挿絵には子生山(こいけざん)観音堂が描かれています。画面下左側に「東福寺」「護摩堂」があり、画面中央の階段を登ると「観音堂」があります。 江戸名所図会本文では子安(こやす)観世音の項に「子安村海道より右の方の丘にあり、子生山東福寺(こいけざんとうふくじ)と号(ごう)す。新義の真言宗にて神奈川の金蔵院(こんぞういん)に属す。開基の大祖は勝覚(しょうかく)僧正[理源大師の法孫なり]。本尊は如意輪観音にして仏工(ぶっこう)春日(かすが)の作、一寸八分の坐像なり」とあり、その後に「縁起に曰く・・」と詳細が続きます。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた場所は、上の地図の緑色の楕円の辺りのようです。 右は東福寺の本堂です。東福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
義高入道墓(江戸名所図会より) 挿絵には里見義高(さとみよしたか)入道の墓が描かれています。
里見義高に関連する事柄について江戸名所図会では以下の様に書かれています。 | 江戸名所図会の挿絵に描かれた義高入道墓の位置はわかりませんでしたが、松隠寺(松蔭寺)は現在上の地図の緑色の楕円の辺りにあります。 右は松蔭寺の本堂です。松蔭寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 上の写真の本堂の右に里見義高が祀られている義高入道尊堂があります。右の写真です。江戸名所図会の時代に置かれていた場所から、いつの時代かに本堂横に遷されたのかと思われます。 |
観福寿寺 浦島寺という(江戸名所図会より) 上は挿絵は、 観福寿寺(かんふくじゅじ 観福寺ともいう)で、画面右下に「観福寺」とあり、その上に「浦島墓」、「観音堂」、「龍燈松」が続いています。
観福寿寺について、江戸名所図会には以下の様に書かれています。 江戸名所図会は、この後、浦島伝説について様々な記述が続きます。 浦島の古史(江戸名所図会より) 浦島祭(江戸名所図会より)
| 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円で示した辺りです。観福寺は1868年に消失し、現在、蓮法寺(れんぽうじ)となっています。 ここ神奈川には、普段我々がよく耳にする浦島太郎とは少し異なる浦島太郎伝説があります。観福寺(観福寿寺)にあった縁起書にその伝説が書かれていたのだそうですが現在は失われており、金川砂子や江戸名所図会などに残っています。詳細は右の説明板を見て下さい。 右の写真は蓮法寺の本堂です。蓮法寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
神奈川総図の下側の道は東海道です。右から順に、「本覚寺」、その「本堂」「方丈」「中門」が見え、その左に「三宝寺」、更に左に「弁天」、「船玉」があります。参道をさらに上がると「こんぴら」があります。 神奈川総図其二では、右側の山上に「いなり」があります。総図の「こんぴら」のことでしょう。東海道の右端には「番屋」があります。左側の頁には、東海道に「神奈川新町」と書かれ、その辺りに、「こんぴら」「天神」「いなり」があります。 神奈川総図其三には、右側に東海道の神奈川台の辺りが書かれており、先へ進むと「人穴社」「人穴」があり、その先に「天王」とあります。左側の海は袖ヶ浦です。
江戸名所図会の本文では、神奈川駅について以下の様に書かれています。
| 左の神奈川総図に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円で示した辺りです。 神奈川総図の現状を上のGoogleEarthの写真で知ることができます。本覚寺、三宝寺、大綱金刀比羅神社があります。旧東海道(赤い線)は、青木橋の手前の端の辺りを左右に走っていました。 右の写真は、青木橋を越えたところから本覚寺を撮っています。第二京浜が崖側を、JRと京急が橋の下を通っています。左の絵に従うと、山門から階段はまっすぐこちら側に伸びていましたが。第二京浜の工事の際、寺の敷地をかなり削り、階段の向きも変わったようです。 右の写真は本堂で、境内は左の神奈川総図と同じ配置になっているようです。本覚寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 三宝寺は現在、右の写真のように巨大な高床式の建物になっており(東側から撮っています)本覚寺の前を通る道を通り回りこむようにアプローチします。 右が三宝寺です。三宝寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 神奈川総図の「弁天」、「船玉」は現在大綱金刀比羅神社に祀られています。旧東海道に面して鳥居があります。神奈川総図と同じです。 上の写真に見える階段を登るとその先の左に金毘羅宮があります。神奈川総図によると、金毘羅様は参道をずっと上に登った所にあったようですが、旧東海道の近くの今の場所に遷されたようです。大綱金刀比羅神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 左の神奈川総図其二に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円で示した辺りです。絵に描かれた「こんぴら」「天神」「いなり」はどの辺りかわかりませんでした。 左の神奈川総図其三に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円で示した辺りです。神奈川総図其三にある「人穴社」というのは、本文では、浅間社(せんげんのやしろ)あるいは富士浅間祠と記されています。下の浅間社の項で再度書きます。
又、「天王」というのは、相鉄線の天王町駅の近くにある橘樹神社(旧名は牛頭天王社)のことのようです。右の写真は橘樹神社の境内です。 |
神奈川の台 (江戸名所図会より) この挿絵には、神奈川の台が書かれています。東海道に沿って店、料亭が並んでいます。左から、「御めし」「一せん飯」、隣が「きくや」、さらに、「御奈良茶」、「大仏師」、「さくら屋」、「きし田や」が書かれています。向こう側に見える海は袖ヶ浦です。
絵には以下の説明が書かれています。 | 神奈川宿の西側に台地の部分があり台町と呼ばれています。袖ヶ浦(神奈川湊)を見下ろすことのできる景勝地であり、又、さくら屋という有名な茶屋があり、よく絵に書かれた場所でした。上の地図に、緑色の楕円でこの場所を示してあります。 |
北条上杉神奈川闘戦 (江戸名所図会より) 北条上杉神奈川闘戦とは、戦国時代(1510年)、権現山に城を構えた上田蔵人が管領上杉憲房と戦ったことをいいます。戦いは上田蔵人が負けたのですが、その経緯は江戸名所図会の「熊野権現山」の項に「小田原記」を引用し説明されています。 |
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洲崎明神 (江戸名所図会より) | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。
洲崎明神は洲崎大神と呼ばれています。右の写真は、旧東海道から鳥居を写したものです。奥に拝殿が見えます。洲崎大神の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
観音山(江戸名所図会より) 山の頂上には「熊野旧跡」「観音」「観音」「地蔵」と見えます。階段の途中右側には「いなり」とあり、麓に降りてくると、「天神」、「宗興寺」「本堂」とあります。左側奥には袖ヶ浦が見えています。 | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。観音山は削られており、今はありません。その跡は住宅地、幼稚園、公園になっています。
観音山の麓に見える宗興寺です。宗興寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
慶運寺 (江戸名所図会より) 手前を流れているのは滝の川で、左側が上流です。川の左岸を走る道から、山門をくぐりクランク状に本堂に至ります。山門を抜けると「地蔵」、「かね」、「本堂」がありその先に「玄関」、「庫裏(くり)」があります。
江戸名所図会の本文には慶運寺に関し以下の様に書かれています。 | 慶運寺は滝の川の左岸(東側)にあり、JR各線と京急本線の間に挟まれています。左の江戸名所図会の挿絵は上図の緑色楕円の辺りを示していると思われますが、その右側には京急本線が通っており、慶運寺は図よりも狭くなっているのかもしれません。 右の写真は慶運寺の門前です。神奈川宿周辺には浦島太郎伝説が伝わっており、江戸名所図会の時代からずっと後のことですが、ここ慶運寺にも伝説に関係する遺跡が一部遷されました。右写真の大きな石碑は浦島寺碑です。 右は慶運寺の本堂です。慶運寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
小机城跡 雲松院 (江戸名所図会より) 上の挿絵の手前側に「雲松院(うんしょういん)」があり、境内には「本堂」、「玄関」が見えます。雲松院の少し上に「白山」とあり、その又少し上にも「白山」と見えます。丘の上に白山神社があったものと思われます。更に上に「城跡」とあり、これが小机城跡(こずくえのしろあと 小机城址)です。
江戸名所図会の本文では雲松院について以下の様に記載されています。
又、小机城址については次のように書かれています。 | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。 上は、挿絵とほぼ同じ方向から撮ったGoogleEarthの写真です。 雲松院の本堂です。雲松院の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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泉谷寺 (江戸名所図会より) 泉谷寺(せんこくじ)の絵です。山門を入り右回りに「いなり、八まん、弁天」、「観音」、「地蔵」、「地蔵」、「かね」、「本堂」、「庫裏」が書かれています。
江戸名所図会の本文では泉谷寺は次のように書かれています。 | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。 泉谷寺の参道です。江戸名所図会の絵の中央部分にある参道かと思われます。 泉谷寺の本堂です。泉谷寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
師岡 熊野権現(江戸名所図会より) 熊野権現宮の挿絵には、鳥居を少し上がった所に「いなり」、上り詰めたところに「拝殿」、「本社」があり、左に「えんま」、「別当」と見えます。又、鳥居の前には「弁天」があります。 | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。 師岡熊野神社の拝殿と本殿です。その由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 江戸名所図会の絵で、鳥居の手前の池の畔に書かれている弁天社です。 江戸名所図会の絵のアングルに近づけて撮りました。池と弁天社と境内の位置関係が今も保たれていることが分かります。ただし、絵の左側の別当寺とは今は道路で隔てられています。 右は、熊野権現の別当であった法華寺です。その由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
折本村 淡島明神社(江戸名所図会より) 江戸名所図会の挿絵では、一の鳥居から広場に参道があり、階段を登ると二の鳥居があり「本社」に続いています。階段の両側少し離れた所に「男滝」、「女滝」が見えます。
江戸名所図会の本文では以下の様に記述されています。 | 江戸名所図会の挿絵に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。 淡島明神社の本殿です。淡島明神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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浅間社 (江戸名所図会より) 江戸名所図会の挿絵によると、鳥居をくぐり右の方へ登って行くと本殿があります。左へ登ると人穴(富士山麓につながっているとの言い伝えがあったようですが、実際は横穴式古墳)があります。 | 上の「神奈川総図 其三」の欄に書かれている浅間社が再掲されています。現在、芝生浅間神社と呼ばれており、その由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真を見ると、旧東海道に面して鳥居があります。鳥居をくぐり階段を上がり、右前方の参道を進むと本殿へ続きます。鳥居の左側奥には人穴があるはずですが、崖が固められており昔の様子とは違ってしまっていました。 |
江戸名所図会 巻之二 天璇(てんせん)之部 の内容
第四冊 品川、鈴ヶ森、大森、蒲田、六郷 (準備中)
第五冊 川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間 (このページ)
第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢