アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之ニ 第四冊
江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之ニの中のページ
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第五冊 川崎、鶴見、神奈川、小机、浅間
第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢
江戸名所図会 巻之ニ 天璇(てんせん)之部 第四冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
上の牛頭天王社(ごずてんのうのやしろ)東海禅寺(とうかいぜんじ)の挿絵は、右から左へと、以下の其二~其四でパノラマを構成しています。 上の挿絵では、右が北東側です。画面上に「御殿山」が見えます。 上図の右側に牛頭天王が描かれています。右下に鳥居があり、「いなり」を左に見ながら階段を上がると左手に「不動」があり、階段と鳥居を更に進むと「天王」(拝殿と本社)があり、それを左に周りに「「曽根松」、「御供所」、「坂いなり」、「弁天」、「「大神宮」が取り囲んでいます。 其の左が「清徳寺」で、本殿の左側に「虚空蔵」 とあります。 其の左は東海禅寺で、「額門」と「車門」の二つの門が見えます。 上の挿絵の右下に「山門」があり、それを進むと「本堂」です。本堂の右上の池の向こう側に、{拳竜井(けんりゅうせい)」、「釣玄室(ちょうげんしつ)」、「法宝堂」、「「万年石」が見えます。奥の池は「浴鳳池」です。本堂の奥には、「方丈門」、「方丈」、「客殿」、「庫裏」があります。挿絵の左下には「要津橋(ようしんきょう)」、「千歳杉(せんざいすぎ)」が見えます。要津橋は目黒川に架かっている橋ですので、挿絵の中央を右下に流れる川は目黒川かと思います。 其四の上には、「澤庵和尚廟」、「為朝社」、「鎌倉権五郎社」があります。下には「南門」があります。 なお、上の4枚の絵には、特に記しませんでしたが多数の「塔中」が見えます。 江戸名所図会の本文には、東海禅寺について「寛永十五年戊寅 台命(たいめい)を奉じて澤庵和尚(たくあんおしょう)開創(かいそう)するところの禅園なり」とあります。 牛頭天王については「東海寺柵門(さくもん)の外(そと)左の山の上にあり。相殿(あいでん)に神明宮(しんめいぐう)を勧請(かんじょう)す。北品川の産土神(うぶすながみ)にして東海寺(とうかいじ)の鎮守(ちんじゅ)とせり・・」とあります。 |
江戸名所図会の4枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。但し、御殿山(紫色の円)も遠景に描かれています。太い紺色の矢印は視線の方向です。水色の破線は、江戸時代の目黒川です。現在は、首都高速が目黒川の下を走っているため、上の地図上では、目黒川の位置に首都高速が表示されています。又、紺色の破線は江戸時代の海岸線、赤い破線は旧東海道です。 赤い楕円は牛頭天王社(現在の品川神社)、オレンジの楕円は東海禅寺(東海寺)、青い楕円は沢庵和尚の墓のある墓地です。 右は、牛頭天王社(現在の品川神社)の鳥居です。左の挿絵其二の右下にある鳥居に対応するものかと思われます。 品川神社の拝殿です。品川神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、其二に見える清徳寺です。挿絵のとおり、道から少し奥まったところに山門があります。 右は、清徳寺の本堂です。清徳寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 東海寺は上の地図のオレンジの楕円の辺りですが、図会の挿絵によると、当時は、オレンジ色の北側一帯の広い地域が東海寺だったものと思われます。明治に入り、東海寺は廃寺となり、塔頭の一つが名称を引き継ぎ現在に至っているようですが、現在の寺域は大幅に縮小されているようです。周囲が工事中だったこともあり、山門はどこにあるか分かりませんでした。後日探し直します この写真は敷地の西側にある東海寺の門柱です。東海寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵には少林院(しょうりんいん)林泉(りんせん 庭園のこと)縣居(あがたい)大人(たいじん)墓 南郭(なんかく)先生(せんじょう)墓が描かれています。挿絵右下には「南郭先生墓」と「加茂縣主大人墓」が読み取れます。 本文によると、勝林院の後ろの山にある、との説明があります。 賀茂真淵は江戸時代中期の国学者、歌人です。南郭先生とは、姓は服部、江戸時代中期の儒者、漢詩人、画家で、荻生徂徠の高弟です。 | |
上は、六月六日品川牛頭天王(しながわごずてんのう)御輿洗(みこしあらい)の図です。遠景に「八ツ山」が見えます。 | |
上の挿絵には御殿山(ごてんやま)での看花(はなみ)の様子が描かれています。 |
上の地図の緑色の楕円の辺りが御殿山です。 |
上は磯の清水(いそのしみず)の挿絵です。本文には「御殿山(ごてんやま)の麓(ふもと)清水横町(しみずよこちょう)という云(いう)にあり。往古(そのかみ)は此辺(このあたり)までも磯辺(いそべ)なりしとなり。此井(このい)清泉(せいせん)にして旱魃(かんばつ)にも涸(かる)る事なしといえり」とあります。 |
挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺り、京急線の北品川駅の南側のようです。 |
品川駅(しながわえき)の挿絵には、「品川も つれにめずらし かりのこえ 其角」とあります。 江戸名所図会の本文では、品川駅について「江府(こうふ)の喉口(こうこう)にして、東海道五十三駅の首(はじめ)なり。日本橋より二里、南北を分かつ【東海寺の南に傍(そい)て貴船の社(きふねのやしろ)の側(そば)を流るる川を堺(さかい)とす。或る人云わく、是則(これすなわち)品川(しながわ)と称する所(ところ)の水流(すいりゅう)なりと云々】旅舎(りょしゃ)数百戸軒端(のきば)を連ね常に賑(にぎ)わしく往来の旅客(りょかく)絡繹(らくえき 絶え間ない様子)として絶えず」とあります。 |
上の緑色の楕円の辺りが北品川宿です。水色の破線は江戸時代の目黒川です。 上のオレンジ色の楕円の辺りが南品川宿です。 南北の品川宿は目黒川(上の地図の水色の破線)で別けられており、その目黒川には中の橋(現在の品川橋)が架かっていました。右は品川橋です。 なお、地図から分かるように、当時の目黒川は現在とは少し違ったところを流れており、又、この辺りでは目黒川は品川と呼ばれていました。 |
上の品川(しながわ)汐干(しおい)の挿絵には「永正十三年正月後奈良院御撰謎合せに 海の道十里にたらず 蛤」とあります。 | |
挿絵の手前は目黒川(右図参照)で、中央右上は東京湾です。非常に狭い砂州の上に「本社」と書かれた洲崎弁天が置かれていることがわかります。 |
江戸名所図会の挿絵の洲崎弁天(現在 利田神社)は、上の地図の緑色の楕円の辺りにあります。太い紺色の矢印は視線の方向です。水色の破線は当時の目黒川で、東京湾に注ぐ前に大きく湾曲していていました。また、目黒川と東京湾の間は非常に狭い砂州だったようです。なお、この辺りでは目黒川は品川と呼ばれていました。又、紺色の破線は江戸時代の海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、利田神社です。利田神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は貴船明神社(きふねみょうじんのやしろ)で、右側に貴船明神の「本社」があります。絵の左側に「海徳寺」、「淡島社」があります。画面の下側を流れているのは目黒川で、架かっている橋は「中の橋」です。 江戸名所図会本文には、貴船神社について「・・神明(しんめい)牛頭天王(ごずてんのう)を合祭(ごうさい)す・・」とあります。中の橋については「品川駅社(しながわえきしゃ)の中間にありて(この橋をもて品川南北とわかてり)故に号と。此の橋下(きょうか)を東流(とうりゅう)するものは則ち品川なり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。太い紺色の矢印は視線の方向です。水色の破線は当時の目黒川で、現在とは少し違ったところを流れています。なお、この辺りでは目黒川は品川と呼ばれていました。赤い円は貴船神社(現在 荏原神社)で、オレンジ色の円は海徳寺、黄緑の円は中の橋(現在 品川橋)です。又、紺色の破線は江戸時代の海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、荏原神社の鳥居です。荏原神社の参道は南面しており、その先は、江戸時代とは異なり、目黒川になっています。目黒川の流れが変わりました。 右は、荏原神社の拝殿です。荏原神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、海徳寺です。海徳寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
挿絵の中央に寄木明神社(よりきみょうじんのやしろ)が描かれています。手前は東京湾です。 寄木明神社の上を流れる川は目黒川(当時は品川)です。 江戸名所図会の本文には「南品川の洲崎8すざき)にあり。相伝(あいつた)う。神代の昔、弟橘媛(おとたちばなひめ)日本武尊(やなとたけるのみこと)と共に王船(みふね)に乗(じょう)じ此(この)海上(かいじょう)を渡りたまう頃、覆(くつがえ)りたりし。その船材(せんさい)所々(しょしょ)の浦に漂とうし、此地(このち)にも流れよりたりしかば、土人(どじん)一社(いっしゃ)に奉(ほう)じて弟橘媛の例を祭(まつ)りて寄木明神(よりきみょうじん)と号(ごう)す・・」とあります。 又、「往古(そのかみ)源義家(みなもとよしいえ)朝臣(あそん)奥州征伐の為東国発向(とうごくはっこう)の時、此地に馬を止(とど)め漁人(ぎょじん)に当社の来由(らいゆ)を問わせたまう。漁人先の神傳(しんでん)を答え奉りしかば、義家朝臣(よしいえあそん)自親(みずから)奉幣ありて、軍(いくさ)の勝利あらん事を祈りたまう。奥羽の逆乱(ぎゃくらん)平治(へいじ)の後(のち)帰路(きろ)の日(ひ)再(ふたたび)当社に詣(もう)でられ兜(かぶと)を収(おさめ)たまう。故に此地を兜島(かぶとしま)と号(なづ)くるとぞ」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。太い紺色の矢印は視線の方向です。寄木明神社は江戸時代は波打ち際にあったようです。水色の破線は当時の目黒川です。現在、首都高速が目黒川の下を走っているたの、上の地図では、首都高速が目黒川の位置に当ります。又、紺色の破線は江戸時代の海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、寄木明神社(現在 寄木神社)の鳥居です。東側から撮しています。写真を撮っている辺りは昔は海だったのかもしれません。 右は、寄木神社の拝殿です。寄木神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、本光寺(ほんこうじ)大竜寺(だいりゅうじ)天竜寺(てんりゅうじ)海竜寺(かいりゅうじ)の挿絵です。 上の絵の下側に「本光寺」があり、「本堂」「方丈」「かね」「鬼子母神」「いなり」が描かれています。絵の右端は「大竜寺」で、「本堂」「方丈」が描かれています。その左に「天竜寺」があり、「本堂」「かね」「白山」とあります。その更に左は「海竜寺」で「本堂」があります。 江戸名所図会の本文には「経王山本光寺(きょうおうざんほんこうじ) 南馬場(みなみばんば)にあり。日蓮の宗派にして」とあります。その昔は真言宗だったようですが、日蓮宗に変わったとのことです。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。太い紺色の矢印は視線の方向です。又、水色の破線は当時の目黒川、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、本光寺の本堂です。本光寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、大龍寺の本堂です。大龍寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、天龍寺の本堂です。天龍寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、海藏寺の本堂です。海藏寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は、天妙国寺(てんみょうこくじ)です。挿絵の左手前に「総門」があり、参道を進むと「仁王門」があり、その右に「仁王」とあります。仁王門の先に「本堂」があり、その左側に「方丈」、「庫裏」、「かね」があります。 江戸名所図会の本文には「鳳凰山(ほうおうざん)天妙国寺 常行寺(じょうぎょうじ)の南(みなみ)海道の右にあり、日蓮大士(にちれんたいし)の弘法(ぐほう 仏教を広めること)にして、京師(みやこ)妙満寺(みょうまんじ)の触頭(ふれがしら 寺社奉行の対応をした寺院)、江戸三箇寺(さんかじ 三つの寺)の随一なり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。太い紺色の矢印は視線の方向です。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。オレンジ色の楕円は常行寺です。 右は、天妙国寺の本堂です。天妙国寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、本堂です。常行寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は品川寺(ほんせんじ)です。挿絵の左手前の門を入ると左に「やくし」、「六地蔵」があり、山門をくぐると「本堂」があります。本堂の反時計回りに「弁天 稲荷 天神」、「いなり」、「かね」があります。手前に見える道は旧東海道です。 江戸名所図会の本文には「海照山(かいしょうざん)品川寺 同所(天妙国寺のこと)南に隣(とな)る。普門院(ふもんいん)と号(ごう)す。真言宗にして京師(みやこ)三寶院(さんほういん)に属(ぞく)す。開山(かいざん)は権大僧都(ごんだいそうず)弘尊(こうそん)法印(ほういん)と号せり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。太い紺色の矢印は視線の方向です。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、品川寺の門柱で、その先に山門です。挿絵と同じ位置、つまり、参道の左側に、六地蔵があります。 右は、本堂です。江戸名所図会に描かれた本堂の位置とは異なり、参道の右側にあります。品川寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は千躰荒神堂(せんたいこうじんどう)です。 江戸名所図会の本文によると、「千躰荒神堂 同所(品川寺のこと)半町ばかり南、同じ海道の右の方海雲寺(かいうんじ)といえる禅林(ぜんりん)にあり。本尊(ほんぞん)荒神(こうじん)の霊像(れいぞう)は毘首羯磨天(びしゃかつまてん)の真作(しんさく)にして、昔九州肥後国(ひごのくに)天草荒神の原(あまくさこうじんのはら)というにありしを、邪宗門(じゃしゅうもん)一揆(いっき)の頃、邪徒(じゃと)等社を破却す故(ゆえ)ありて当寺に勧請(かんじょう)す、といえり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、海雲寺の山門です。海雲寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は海晏寺(かいあんじ)です。挿絵の左下の「総門」から入り「中門」を抜けると、左に「時頼墓」、「弁天」、右に「いなり」があります。まっすぐ参道を進むと「本堂」があります。本堂の右には「方丈」、「庫裏」が見えます。本堂裏の庭園の先に「東照大権現」、「いなり」、「浅間」があります。画面左上には「二階堂 梶原、北条、三士墓」があります。 江戸名所図会の本文には「補陀山(ふださん)海晏寺 同所(千躰荒神堂のこと)一町ばかり南、同じ海道の右にあり。曹洞宗(そうとうしゅう)の禅宗にして、三田(みた)の功運寺(こううんじ)に属す・・」とあります。この文から、挿絵の手前の道は旧東海道であることが分かります。 又、「楓樹(ふうじゅ) 江戸(えど)丹楓(たんふう 紅葉した楓)の名勝(めいしょう)にして、一奇観(きかん)たり。晩秋(ばんしゅう)の頃は満庭(まんてい)錦繍(きんしゅう)を晒(さら)すが如く海越(うみこし)の山々には紅(くれない)の葉分(はわけ)に見えたり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りではなかろうかと思われます。現在の海晏寺は敷地が大分減らされ、オレンジ色の位置にあります。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、海晏寺の門柱で、境内が見えています。現在、海晏寺には見るべき紅葉は既になくなっているようです。 右は、海晏寺の本堂です。海晏寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
海晏寺の紅葉は大変有名だったようで、下のように、錦絵にも描かれています。下は、「海案寺紅葉 広重、豊国」です。 | |
来福寺(らいふくじ)の挿絵には「世の中は 三日見ぬ間に さくらかな 雪中庵蓼太」とあります。挿絵の中央辺りに「本堂」があり、その左に「不動」があり、その右には「歓喜天」、「方丈」、「庫裏」があり、本堂の前辺りの境内には「梶原松」、「梶原桜」、「延命桜」があります。絵の右端に「いなり」があり、右上には「梶原塚」が見えます。 江戸名所図会の本文には「・・・真言宗にして、本尊に地蔵菩薩を安置す。弘法大師の作{御丈(みたけ)九寸八分}なり。梶原氏の草創(そうそう)にて、則(すなわち)此地(このち)は其(その)宅地(たくち)なりしとなり・・・」とあります。 又、梶原塚(かじはらつか)として「寺の後(うしろ){畑(はた)の中にあり塚上に杉を植(うえ)たり・・・}」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は、来福寺の山門です。現在の来福寺は上の地図のオレンジ色の楕円の辺りにあります。 右は、来福寺の本堂です。山門も本堂も挿絵と同じ位置にあるようです。来福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、山門を入って右にある太子堂で、鳥居を持った珍しい堂宇です。また、この鳥居は山王鳥居というあまり見ない形をしています。なお、来福寺は真言宗です。 右は、太子堂の鳥居の左横にある歓喜天の碑です。挿絵では、本堂の左にある歓喜天との関係はあるのでしょうか。 右は、梶原塚に当たると思われる梶原稲荷神社です。上の地図の青い円の辺りにあります。梶原稲荷の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
西光寺(さいこうじ)の挿絵の左側山門を抜けるとすぐ左に「児桜」があります。正面には「本堂」が、その右に「方丈」、「庫裏」があります。本堂の左に「醍醐桜」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は西光寺です。奥の方に山門が見えます。西光寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
弘福寺(こうふくじ)の挿絵の中央に「本堂」があり、その後ろに「太子」、右に「庫裏」があります。太子堂の奥に「産湯井」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 右は光福寺です。江戸名所図会とは寺名の漢字が異なっています。 右は本堂です。光福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は大井(おおい)の挿絵です。更に上の弘福寺の挿絵にある「産湯井」のことのようです。 |
右は、大井の井の説明板です。光福寺の山門を抜けてすぐ左にあるイチョウの大木の下にあります。挿絵にある産湯井の説明が書かれており、それによると、この井戸は本堂裏の墓地にある、とのことです。 |
鈴の森八幡宮(すずのもりはちまんぐう)の挿絵の中央に「拝殿」、「本社」があり、その右に「 一色霊神 豊宇賀神 猿田彦 大国 稲荷」があります。 本文には、「祭神(さいしん)中殿(ちゅうでん)應神天皇(おうじんてんのう)・・・総社(そうしゃ)磐井神社(いわいじんじゃ)とも称(しょう)せり。別当(べっとう)は真言宗(しんごんしゅう)にして八幡山(はちまんざん)密厳院(みつげんいん)と号(ごう)す・・・」とあります。又、撃つと鈴の音がし、この地の名鈴ヶ森の由来になった「鈴石(すずいし)」や、カラスの模様をした珍しい「鳥石(うせき)」の説明もあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。又、紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 鈴の森八幡宮(現 磐井神社)の鳥居です。第一京浜(国道15号線 旧東海道)に面しています。 磐井神社の拝殿です。磐井神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上の鈴の森(すずのもり)の挿絵は、旧東海道で、右は今で言う東京湾です。挿絵の中央辺りに「磯馴松」があります。磯馴松の左奥に見えるのが鈴ヶ森刑場かと思われます。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。紺色の破線は海岸線、赤い破線は旧東海道です。 |
上は、八景坂(やけいざか)鎧掛松(よろいかけまつ)の挿絵です。 画面中央の少し上に水平線が見えており、ここが現在の東京湾に当ります。画面中央から右に見える道が旧東海道です。 画面中央の大きな松が鎧掛松で、江戸名所図会の本文には「八景坂にあり。往古(そのかみ)八幡太郎義家朝臣奥州征伐の時、此松(このまつ)に鎧を懸(かけ)られたり、と云伝(いいつた)う」とあり、又、「此地(このち)より望めば海上(かいじょう)眼下(がんか)にありて美景(びけい)の地なり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い破線は挿絵に見えている旧東海道です。なお、紺色の破線は海岸線です。 右は、JR大森駅前の坂(池上通り」です。今はゆるい坂ですが、昔は急坂だったとのことです。池上通りの左側、中央少し右に高い樹木が僅かに見える所に天祖神社があります。 右は、天祖神社です。天祖神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、拝殿前にある、鎧掛松の切り株です。説明板によると、鎧掛松は当寺の境内にあったのですが、大正時代に台風で倒れ、切り株だけをここに残してある、ということです。 |
戸越八幡(とごしはちまん)行慶寺(ぎょうけいじ)の挿絵では、参道左側に「行慶寺」、正面に「本社」があります。 | |
これらの挿絵は、長栄山(ちょうえいさん)本門寺(ほんもんじ)を南西方向からみた鳥瞰図で、挿絵の順に右から左へつながっています。 挿絵其二には、「身延記行 万治ニ年(1659)、深草隠 士元政法師 やつがれは一日先だちて池上へ行きて、こころしづかに法文など尋ねて、いたうふけて書院なる所に臥(し)ぬ。夜静かに心すみてしばしねられねば枕をささへて、 人世少知音 追師斯再尋 今宵池上月 依旧照天心 その朝とく起きて遥かに御骨堂ををがむ。肉つきの御歯もこの内にあり。この歯のあらん所はわが生身つねにありと思へ、となんのたまへる、いととうとし」とあります。 1枚目の絵の中央少し下に「檀林」とあります。右下が表参道入口です。2枚めの絵の右下が1枚めの参道入口からの続きで、参道は、「総門」を抜け、右に「大こく」、左に「塔中(たっちゅう 塔頭)」を見ながら階段を上った先に「二王門」があります。その右には、「「鬼子母神」、「天神」、「番神」、「五重塔」、「妙見」とあります。3枚めには、参道の先に「祖師堂」、「釈迦堂」があり、それらの周りに時計回りに「鐘楼」、「輪蔵」、「清正址」、「松化石」とあります。画面左上には「玄関」、「宝蔵」、「庫裏」があります。画面左下側には、「塔中」が幾つかあり、中央に「骨堂」、「日蓮上人荼毘所」があります。左端に「大坊」、「硯井」があります。4枚め右上に「日蓮上人廟所」、下側には「塔中」があります。 江戸名所図会の本文では多くのページを費やして本門寺の説明をしています。それによると、「当寺は、日蓮大士の終焉の寺で、弘安年間(1282年)の開創である」旨が書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、現在の本門寺のマップです。本門寺のホームページから借用しました。伽藍の配置については江戸名所図会の時代のそれと基本的にほぼ同じです。 右は、1枚めの挿絵の広い道(参道入口)の辺りから本門寺山門方向を見ている写真です。ここから本門寺に向かいます。正面に見える橋は、呑川(挿絵の左端中央から右上に延びている川)に掛かる橋です。 右は、橋を渡り、挿絵の其二の右側の表参道から総門を見ている写真です。 右は、本門寺総門です。本門寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、仁王門の右にある五重塔です。挿絵では其二に描かれています。 |
この挿絵には「建長五年四月二十八日 日蓮上人 房州清澄寺にて旭に向かい初めて題目の七字を唱えたまうことは本文に見えたり」とあります。 | |
この挿絵の中央は洗足池(せんぞくいけ)で、右側に見える松が袈裟掛松(けさかけのまつ)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、挿絵の左上に見える、千束八幡神社です。千束八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
挿絵の右上は中延(なかのぶ)八幡宮で、「本社」があり、その右に「妙見」、「いなり、毘沙門」が見えます。左が法蓮寺(ほうれんじ)で「本堂」、「庫裏」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、中延八幡宮(現 旗岡八幡神社)です。旗岡八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、法蓮寺の本堂です。法蓮寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
中央に「萬福寺」「本堂」「庫裏」「白山」があり下に「えんま」、右に{神明?」が見えます。中央上に「長遠寺」があり、「本堂」、「庫裏」の左側に「八幡宮」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤は萬福寺、オレンジは神明社、青は長遠寺と馬込八幡です。 右は、万福寺の本堂です。万福寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、馬込八幡神社です。馬込八幡神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、長遠寺の本堂です。長遠寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
図会には、大金山(だいきんざん)光明寺(こうみょうじ)の項に、「宝幢院(ほうとういん)と号す。新田明神(にったみょうじん)より五丁ばかり北の方鵜木村(うのきむら)にあり、、、」とあります。 上の挿絵では、中央少し上に「本堂」があり、その周りに反時計方向に「観音」、「地蔵」、「かね」、「方丈」、「庫裏」、「功徳水」、「弁天」とあります。本堂の右下側に「総門」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、光明寺の総門です。図会と同じ位置にあるのではないかと思われます。 右は、本堂です。図会と位置は多分同じです。光明寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、境内の北東側の塀です。写真右側に見えているのは環八で、絵図の挿絵と比較すると、環八を通すために境内が少し削られているようにも見えます。 |
上の挿絵の中央から左にかけて、新田明神社(にったみょうじんしゃ)が描かれています。右側は真福寺(しんぷくじ)です。 新田神社の右下側の鳥居から、左手に「かぐら所」を見ながら参道を進むと、正面に「拝殿」、後ろ側に「本社」があり、その左側に「天王」、「いなり」があり、本社の裏には「義興朝臣墓」があります。新田神社の右は別当であった真福寺です。「本堂」の左右には、「いなり」、「方丈」、「庫裏」があります。 図会の本文には、新田大明神社(にっただいみょうじんのやしろ)の項に、「祭るところの神は新田左兵衛佐(さひょうえのすけ)義興(よしおき)朝臣(あそん)の霊なり」とあり、又、「本社の地は古廟(こびょう)なり。則ち、その回(めぐ)りに端籬(たまがき)を造(つく)り設(もう)く。中は、一堆(いったい)の塚にして蒼樹(そうじゅ)繁茂す」とあります。 また、本文には、新田義興の伝えをいろいろと書いてあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。新田明神社は現在新田神社と呼ばれています。なお、真福寺は現存しません。 右は新田神社の本殿です。新田神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
上は矢口古事(やぐちのこじ)の挿絵です。 | |
十騎社(じっきのやしろ)は、新田義興の家臣十人の霊を祀る神社です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。視線の方向は不明です。なお、十騎社は現在十寄神社(とよせじんじゃ)と呼ばれています。 右は、十寄神社の鳥居と拝殿です。十寄神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
挿絵の左側に「本堂」があり、その右には「えんま」「方丈」「庫裏」があり、左側手前には「いなり すわ」があります。 本文によると、「医王山(いおうざん)世尊院(せそんいん)安養寺(あんようじ)と号す。新義の真言宗にて高畑村の宝幢院(ほうとういん)に属す」とあります。なお、高畑村の宝幢院とは、大鋼山(だいこうさん)光明寺(こうみょうじ)のことで、上の欄にあった鵜の木の光明寺とは別の寺院です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、安養寺の門柱と本堂です。安養寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、境内の銀杏の古木です。銀杏の左側にある碑は「銀杏折取禁制碑」です。この銀杏には祈ると乳の出るご利益があるとされ、銀杏の垂れた乳の部分を削るものが多かったために禁止令を出した、ということです。
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浅草海苔(あさくさのり)の挿絵には「大森(おおもり)品川(しながわ)等(とう)の海(うみ)に産(さん)せり。是(これ)を浅草海苔(あさくさのり)と称(しょう)するは往古(いにしえ)かしこの海(うみ)に産(さん)せし故(ゆえ)に其(その)旧称(きゅうしょう)を失(うしな)わずして、かくは呼来(よびきた)れり。秋(あき)の時正(ひがん じしょうを彼岸と読ませている)に麁朶(そだ 木の枝)を建(たて)、春の時正に止(とどま)るを定規(じょうき)とす。寒中(かんちゅう)に採(と)るものを絶品(ぜっぴん)とし、一年の間(あいだ)囲置(かこいおく)といえども其(その)色合(いろあい)風味(ふうみ)ともに変わる事なし。故(ゆえ)に高貴(こうき)の家(いえ)にも賞翫(しょうがん)せらるるを以(もつ)て諸国共(しょこくとも)に送(おく)りて是(これ)を産業(さんぎょう)とする者(もの)夥(おびただ)しく、実(じつ)に江戸(えど)の名産(めいさん)なり」とあります。 挿絵の左側の看板には「名物 御膳一丁海苔製所」とあります。 |
上の地図で、赤い破線は旧東海道で、水色の破線は推定した海岸線です。地図の緑色の楕円の辺りは現在の美原通りです。品川宿と川崎宿の中程にあり、間の宿(あいのしゆく)と してにぎわっていたそうです。旧大森村の北原、中原、南原を通る道なので「三原」と呼ばれ、現在は「美原」となったということです。 左の挿絵では、中央で海苔を作っており、左側の店先で海苔を売っているようです。画面の左上は海で、海苔を採取している様子が書かれています。海と店の間は人通りの多い道のようですが、東海道でしょうか。右上の地図からわかるようにこの辺りは東海道が海に沿っているところが多いので、その可能性はあります。 |
麦藁細工(むぎわらざいくの挿絵には「大森村(おおもりむら)の名産(めいさん)にして是(これ)を鬻(ひさ)ぐ家(いえ)尤(もっとも)多(おお)し。五彩(ごさい)に染(そめ)て種々(くさぐさ)の器物(きぶつ)を製(せい)す。他邦(たほう)の人(ひと)求(もと)め得(え)て家土産(いえずと=みやげ)にせり」とあります。 挿絵の右にある看板には「麦わら細工品々」とあります。 |
美原の辺りには麦わら細工の店も多かったようです。 |
上は、大森和中散(おおもりわちゅうさん)の挿絵です。 |
上の、海苔や麦わら細工の店の他、大森和中散(旅人の道中常備薬)も有名だったそうです。「和中散」の店はこの辺りに3軒あり、右の写真の辺りに一つあったようです。 |
蒲田里梅園(かまたのさとうめその)行方弾正宅跡(なめかただんじょうやしきあと)の挿絵には「梅干を 見知て居るか 梅の花 嵐雪」とあります。 江戸名所図会の本文には、蒲田梅(かまたのうめ)について「・・・此地(このち)の民家(みんか)は前庭(ぜんてい)後園(こうえん)共(とも)に悉(ことごと)く梅樹(うめき)を栽(うえ)て五月の頃其實(そのみ)を採(とつ)て都下(とか)に鬻(ひさ)ぐ。されば二月の花盛(はなさかり)には幽香(ゆうこう)を探(さぐ)り遊(あそ)ぶ人少(すく)なからず」とあります。 図の下に、「円頓寺」、「八幡」があり、中央左に「八まん」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。蒲田梅里園は蒲田梅屋敷として伝わっています。オレンジの楕円は梅屋敷のあった所(推定)、赤い丸は円頓寺、紫色の円は八幡(現 薭田神社 ひえたじんじゃ)、青い丸は現在の梅屋敷公園です。 梅屋敷公園については、江戸時代に和中散(家庭や道中の常備薬)の売薬所の敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋にしたのが始まりとのことです。梅の名所として大いに賑わったそうですが、その後、縮小され、現在の梅屋敷公園が残るだけとなりました。 右は、円頓寺の山門です。この境内には、行方弾正直清の供養塔があるとの説明板があります。 右は、円頓寺の本堂です。円頓寺の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、八幡社である薭田(ひえた)神社です。挿絵の「八幡」の位置から推定して、「八幡」はこの神社ではなかろうかと思います。薭田神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
八幡塚(はちまんつか) 八幡宮(はちまんぐう)の挿絵の中央の鳥居が表参道で、左上方に「拝殿」、更に奥に「本社」があります。拝殿の上側には「八幡塚」、拝殿の左手前に「庚申」があります。「庚申」から左へ続く脇参道の先に鳥居があり、東海道に面しています。 図会の本文では、「六郷八幡宮(ろくごうはちまんぐう) 六郷の惣鎮守にして八幡塚村にあり、、」と説明されています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。六郷八幡宮は現在六郷神社と呼ばれています。 右は、六郷神社の表参道の鳥居です。六郷神社の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
六郷渡場(ろくごうわたしば)の挿絵では、多摩川をはさみ、手前が六郷側で、向こう岸は「川崎」です。 図会の本文には、「昔は橋を架(わた)せしが、享保年間、田中丘隅(きゅうく)といえる人の工夫により、洪水の災いを除(のぞか)んために、橋を止(や)めて船渡(ふなわたし)にせしとなり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 |
羽田辨財天社(はねだべんざいてんのやしろ)の挿絵中央に「本社」があります。 挿絵には以下のように記述されています。「此地(このち)の眺望(ちょうぼう)最(もっとも)秀美(しゅうび)なり。東(ひがし)は蒼海(そうかい)満々(まんまん)として旭日(きょくじつ)の房総(ぼうそう)の山に掛(かか)るあり。南(みなみ)は玉川(たまがわ)混々(こんこん)として清流(せいりゅう)の富峰(ふほう)の雪に映(えい)するあり。西(にし)は海老取川(えびとりがわ)を隔(へだ)て東海(とうかい)の駅路(えきろ)ありて往来(おうらい)洛繹(らくえき)たり。北(きた)は筑波山(つくばやま)峨々(がが)として飛雨(ひう)行雲(こううん)の気象(きしょう)万千(ばんせん)なり。此(この)島より相州(そうしゅう)三浦(みうら)浦賀(うらが)へは午(うま)に當(あた)りて海路(かいろ)九八九里、南総(なんそう)木更津(きさらず)の湊(みなと)へは巳(み)に當(あた)りて海路八九里、南北総(なんぽくそう)の界(さかい)は卯(う)に當(あた)りて海路十三里斗(ばかり)を隔てたり。富峰は酉(とり)の方に見(みゆ)」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた羽田辯財天社は上の地図の緑色の楕円の辺りにあったものと思われます。しかし、羽田弁財天社は戦後強制退去となり、玉川弁財天として、オレンジ色の楕円の辺りに置かれています。玉川弁財天の由緒他詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 |
江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之ニの中のページ
第四冊 品川、鈴ヶ森、大森、蒲田、六郷 このページ
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第六冊 横浜、本牧、程ヶ谷、杉田、金沢