アラさんの隠れ家歴史散歩江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之六 第十七冊


江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之六の中のページ
    第十六冊 浅草、下谷、駒形 
    第十七冊 上野、入谷、根岸、千住 このページです

江戸名所図会 巻之六 開陽之部 第十七冊

江戸時代の風景 今の様子と図の説明

山下 (江戸名所図会より)
山下

上の山下(やました)の挿絵で、手前右から左へ少しジグザクに、「見せ物」、「曲馬」、「***」、「浄るり」、「講釈」、「薬や」、「ものまね」、「茶屋」、「茶や」、「あわもち」、「かるざわ」、「土弓」、「うなぎや」、「啓運寺」とあります。画面左上か右に「車坂」、「下寺通り」、「車坂口」があります。

其二(江戸名所図会より)
其二

上の其二の挿絵は、山下の左につながっています。

其二の右下には以下のような記載があります。

「五条天神祠(ごじょうてんじんやしろ)  毎年(まいねん)節分(せつぶん)の夜(よ)、白朮(うけら 薬草)の神事(しんじ)修行(しゅぎょう)あり」

この絵の下側右から左に「こま」、「浄るり」、「物まね」、「五条天神」があります。左上に「上野」、「山王山」が見えます。

上野山下

江戸名所図会の2枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。1枚めの山下の挿絵の中央は、現在のJR上野駅の中央改札口の辺りかと思われます。なお、江戸時代、現在の上野駅の敷地には、寛永寺子院11ヶ寺がありました。

上野山下 右は、JR上野駅の南側から下寺通り(上野駅の公園口の前の坂)を撮っています。挿絵にある啓運寺は、この写真の右側に大きく広がる交差点の中(上の地図の①辺り)にあったのではないかと思われます。

上野山下 五条天神社は現在のアメヤ横丁にあったそうです。上の地図の②の辺りです。

上野山下 右のように、駐車禁止のコーンの奥にあります。

常楽院 (江戸名所図会より)
常楽院

常楽院(じょうらくいん」の挿絵には「六阿弥陀五番目なり。春秋(はるあき)二度の彼岸(ひがん)中賑(にぎ)わし」とあります。常楽院は寺号を長福寿寺といいます。

上野常楽院

江戸名所図会の挿絵に描かれた常楽院は上の地図の①の辺りにありました。先の戦災で焼かれ、常楽院は調布市に移転しましたが、上野に別堂が設けられています。

上野常楽院 右は、上野東天紅の敷地(上の地図の②)にある別堂です。

東叡山坂本口 (江戸名所図会より)
東叡山坂本口

東叡山(とうえいざん)坂本口(さかもとぐち)の挿絵には、右手前が「養玉院」、その上が「善養寺」、「えんま」、左下に「新門」、左上に「上野」があります。

江戸名所図会の本文では、養玉院(ようぎょくいん)について以下のように書かれています。

「下谷(したや)坂本(さかもと)一丁目の南にあり、天台宗にして往時(むかし)は今(いま)御城内(ごじょうない)大手(おおて)の辺りにしりしと・・」

善養寺(ぜんようじ)については次のように書かれています。

「同所坂本(さかもと)一丁目の左側(ひだりがわ)にあり、天台宗にして本尊は薬師如来を安ず・・・」

上野坂本口

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。

上野坂本口 右は、養玉院のあった辺り(上の地図の赤い円)です。

上野坂本口 右は、①の辺りから西側(JR方向)、つまり、善養寺の方向を見ている写真です。

入谷 庚申堂(江戸名所図会より)
入谷 庚申堂

入谷(いりや)庚申堂(こうしんどう)の挿絵には次のように書かれています。

「喜宝院(きほういん)に安(あん)ず。摂(せつ 摂津国=大阪府北部および兵庫県南東部)の四天王寺(してんのうじ)の青面金剛(しょうめんこんごう)と同作の霊像(れいぞう)なりといえり」

小野照崎神社 喜宝院庚申堂は現存しませんが、青面金剛の碑は小野照崎神社に移されているようです。右写真のように小野照崎神社(下の欄参照)境内に置かれています。

小野照崎明神社(江戸名所図会より)
小野照崎明神社

江戸名所図会の本文には、小野照崎明神社(おのてるさきみょうじんやしろ)について次のように書かれています。

「祭神(まつるかみ)参議(さんぎ)小野篁(おののたかむら)の霊(れい)なりといえり。社伝あれども詳(つまびらか)ならず。故に姑(しばらく)ここに略す。当社は坂本(さかもと)の鎮守(ちんじゅ)にして八月十九日を以て祭日とす。別当は天台宗にして小野山(おのさん)霊松院(れいしょういん)と号す」

小野照崎神社

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。

小野照崎神社 右は、小野照崎明神(現 小野輝崎神社)です。

小野照崎神社 右は、拝殿です。小野照崎神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

小野照崎神社 右は、挿絵に見える「いなり」に当たる稲荷神社です。織姫神社と合祀されています。

小野照崎神社 小野照崎神社の境内には「下谷坂本の富士塚」があります。右の写真の鳥居の奥の小高いところです。ただし、江戸名所図会にはその記載はありません。

金杉 安楽寺 (江戸名所図会より)
金杉 安楽寺

金杉(かなすぎ)安楽寺(あんらくじ)の挿絵の中央に「本堂」があり、その左に「方丈」、手前に「鐘楼」があります。

安楽寺

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

安楽寺 右は、安楽寺の山門です。山門は挿絵と同じ位置にあるようです。安楽寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

安楽寺 右は、安楽寺の本堂です。境内の中の配置は、挿絵の時代とはかなり異なっているようです。

根岸 円光寺 (江戸名所図会より)
根岸円光寺

根岸(ねぎし)円光寺(えんこうじ)の挿絵には下のように書かれています。

「世俗藤寺(ふじでた)という」とあり、又、「庭中(ていちゅう)架(か)を繞(めぐ)らし是を纏(まと)わしむ。朶(えだ)の長さ三四尺に充(みち)て花色(かしき)最(もっとも)艶美(えんび)なり」

江戸名所図会の本文には下のような記載があります。

「宝鏡山(ほうきょうざん)円光寺  
根岸(ねぎし)の里にあり。済家(ざいけ 臨済宗のこと)の禅林(ぜんりん)にして釈迦如来(しゃかにょらい)を本尊(ほんぞん)とす。當寺(とうじ)庭中(ていちゅう)に紫藤(しとう)ありて花の頃は一奇観(いちきかん)たり。故(ゆえ)に俗間(ぞくかん)これを藤寺(ふじでら)と称(そふ)せり。また堂前(どうぜん)に鏡の松(かがみのまつ)と唱(とな)うる名樹(めいじゅ)あり。鎮守(ちんじゅ)の辨財天(べんざいてん)は弘法大師(こうぼうだいし)の作(さく)なりといえり」

円光寺

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

円光寺 右は、円光寺の山門です。

円光寺 右は、本堂です。円光寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

円光寺 円光寺の境内は右の写真のように現在も藤棚で埋め尽くされています。

無題 (江戸名所図会より)
無題

上の挿絵には次にように書かれています。

「呉竹(くれたけ)の根岸(ねぎし)の里は上野(うえの)の山陰(やまかげ)にして幽趣(ゆうしゅ)あるが故(ゆえ)にや都下(とか)の遊人(ゆうじん)多くはここに隠棲(いんせい)す。花になく鴬(うぐいす)、水にすむ蛙(かわず)もともに、この地(ち)に産(さん)するもの、其声(そのこえ)ひとふしありて世に賞愛(しょうあい)せられはえり」

時雨岡 不動堂 (江戸名所図会より)
時雨岡 不動堂

時雨岡(しぐれのおか)不動堂(ふどうどう)の挿絵には下のように書かれています。

「田園雑記
霜の後 あらわれにけり 時雨をば 忍びの岡の 松もかいなく
   道興准后(どうこうじゅんごう)

江戸名所図会の本文には、「時雨岡(しぐれのおか)  同所(円光寺のこと)庚申塚といえるより三四丁艮(うしとら)の方(かた)小川(おがわ)に傍(そう)てあり。一株(いっちゅう)の古松(こしょう)のもとに不動尊(ふどうそん)の草堂(そうどう)あり、土人(どじん)姑(しばらく)ここに省略す。一に時雨(しぐれ)の松ともよべり」

時雨岡不動堂

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

時雨岡不動堂 不動堂と御行の松です。

時雨岡不動堂 右は不動堂です。不動堂の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

時雨岡不動堂 右は御行の松です。中央が初代(枯れ木が屋根で覆われている)で、左側に三代目の御行の松の枝が見えています。

正燈寺丹楓 (江戸名所図会より)
正燈寺丹楓

正燈寺丹楓(しょうとうじのもみじ)の挿絵には次のように書かれています。

「庭中(ていちゅう)楓樹(ふうじゅ)最(いと)おおくして晩秋(ばんしゅう)の紅錦(こうきん)は海晏寺(かいあんじ 品川区の寺で紅葉で有名だった)の園林(えんりん)にも劣(おと)る色(いろ)なく、実に一時の奇観(きかん)たり」

正燈寺

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

正燈寺 右は正燈寺です。正燈寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

正燈寺 右は境内と本堂です。現在、紅葉はわずかしか見当たりません。

山谷 熱田明神社 (江戸名所図会より)
山谷 熱田明神社

山谷(さんや)熱田明神社(あつたみょうじんやしろ)の挿絵の右後方に「本社」、左に「神主」、左下に「千住通り」が見えます。

江戸名所図会の本文には次のように記されています。

「熱田明神社  新鳥越にあり、祭(まつ)る所(ところ)日本武尊(やまとたけるのみこと)一座なり。当社は往古(むかし)元鳥越(もととりごえ)の地(ち)にありしが、正保(しょうほ)年中(ねんちゅう)今の所(ところ)に移(うつ)れり(1645年)。例祭(れいさい)は隔年六月十五日執行(しゅぎょう)す」

熱田神社

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会に書かれているように、江戸時代初期に緑色の楕円の位置に移り、その後、関東大震災で消失し現在の位置(赤い円)に再度移っています。

熱田神社 右の写真は、現在の熱田神社の鳥居です。

熱田神社 右は、熱田神社の拝殿です(Iさんから借用)。熱田神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。

駿馬塚 (江戸名所図会より)
駿馬塚

上は、駿馬塚(しゅんめのつか)の挿絵です。

 江戸名所図会の本文には以下のように記されています。

「同所(熱田明神社のこと)南側、何某(なにがし)が別荘(べっそう)の中(うち)にあり、伝云(つたえいう)康平中(こうへいちゅう)源義家(みなもとのよしいえ)東征(とうせい)の時(とき)愛(あい)する所(ところ)の青梅原(あおうめはら)といえる俊足(しゅんそく)偶(たまたま)病(やまい)してここに斃(へい)す。公(こう)大いに是(これ)を傷(いた)みて朽骨(きゅうこつ)を駅路(えきろ)の傍(かたわら)に埋(うず)めたまうとぞ。其後(そののち)里民(りみん)小祠(こほこら)を営(いとな)み建(たつ)といえり・・・」

駿馬塚

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺り(画面中央の少し上)です。

駿馬塚 右は、駿馬塚です。非常に狭い参道の先にあります。

飛鳥社 小塚原天王宮 (江戸名所図会より)
飛鳥社 小塚原天王宮

飛鳥社(あすかのやしろ)小塚原天王宮(こつかはらてんおうぐう)の挿絵では、中央左側に「本社」、「御供所」、「じぞう(ちそう)」、「いなり」、「瑞光石」があり、右下に「茶や」、「べん天」、「みたらし」があり、右上に「日慶寺」、左上に「千住おおはし」が見えます。左へ行く道には「昔の奥州街道」とあります。

江戸名所図会の本文には「小塚原(こずかはら)にあり、此地(このち)の産土神(うぶすながみ)とす。世人(せじん)混(こん)じて箕輪(みのわ)の天王(てんおう)と称(しょう)せり・・・」とあります。

本文では更に続けて、この地に小塚があり(この塚にちなみ小塚原と呼ぶ)、この塚から瑞光を伴い白い衣の二人の翁が立ち、大己貴命(おほなむちのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)であると言った、という当社の謂れを記しています。

千住飛鳥社

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤色の楕円が飛鳥社(現 素戔雄神社)、水色の楕円が日慶寺、紫色の楕円が千住大橋です。

千住川 千住大橋 (江戸名所図会より)
千住川 千住大橋

千住川(せんじゅがわ)の挿絵には次のように書かれています。

「荒川(あらかわ)の下流(かりゅう)にして隅田川(すみだがわ)浅草川(あさくさかわ)の上(かみ)なり」

さらに、挿絵の右上には、「隅田川上流」とあります。中央から右に掛けて「千住大橋(せんじゅおおはし)」があり、手前に「山王」が見え、画面上側に「荒川」、「いなり」、「河原」が見えます。画面左側には「熊野」、「せいかんじ」があります。

千住大橋

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤色が熊野神社、水色が誓願寺、紫色が千住大橋です。

光茶釜 (江戸名所図会より)
光茶釜

光茶釜(ひかりちゃがま)の挿絵には次のように書かれています。

「千住(せんじゅ)の駅(しゅく)、はなれ道(みち)の左側(ひだりがわ)にあり。土人(どじん)は*老茶屋(じじがちゃや)とも呼(よび)あへり。むかし此(この)店(みせ)の茶銚(ちゃがま)の光沢(ひかり)の殊(こと)に勝(すぐれ)たりしを、重(おも)き御感賞(ごかんしょう)にあづかりしより、此(この)茶銚(ちゃがま)竟(つひに)名物(めいぶつ)となりて、其名(そのな)さへ世に光(かがやく)こととはなりぬ」

六阿弥陀廻り (江戸名所図会より)
無題

上の挿絵には、次のように書かれています。

「春秋(はるあき)二度の彼岸(ひがん)には、六阿弥陀(ろくあみだ)廻(めぐり)とて、日かげの麗(うららか)なるに催(もよお)され、都下(とか)の貴賤(きせん)老(おい)たる若(わか)き、 打群(うちむれ)つつ朝(あさ)とく宅居(いえい)を出(いづ)るといへども、行程(みちのり)遠(とお)ければ、遅々(ちち)たる春(はる)の日も長(なが)からず、 秋(あき)はことさら暮れやすうおもはるべし」

 

足立六阿弥陀

ここで言う六阿弥陀とは、真言宗甘露山延命寺(えんめいじ)のようですが、荒川の改修工事のためこの周辺の寺院は恵明寺(えみょうじ)に集められたようです。延命寺は上の地図の水色の丸の辺りにありました。恵明寺は赤色の丸、木余り六阿弥陀の性翁寺(しょうおうじ)は紫色の丸の辺りにあります。なお、地図の左側で蛇行している隅田川が更に延命寺の近くまで蛇行していたようです。

 

西新井 大師堂 (江戸名所図会より)
西新井 大師堂

西新井(にしあらい)大師堂(たいしどう)の挿絵には、「毎月廿一日開扉(かいひ)あり」とあります。画面中央に「楼門」があり、その正面に「本堂」、「方丈」、「ごま堂」、「加持水」があります。

西新井大師

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

梅田天神祠 不動堂 別当明王院 (江戸名所図会より)
梅田天神祠 不動堂 別当明王院

梅田天神祠(うめだてんじんのやしろ)不動堂(ふどうどう)別当明王院(べっとうみょうおういん)の挿絵では、絵の右端から「天神」、「不動堂」、「弁天」、「別当」とあります。

梅田天神

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

鷲大明神社 (江戸名所図会より)
鷲大明神社

鷲大明神社(わしだいみょうじんのやしろ)の挿絵の左上に、「本社」、「末社」、「かぐら所」、「弁天」があります。

鷲大明神

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。鷲大明神は現在、大鷲神社(おおとりじんじゃ)と呼ばれています。

鷲大明神祭 (江戸名所図会より)
御厩河岸渡

鷲大明神祭(わしだいみょうじんまつり)の挿絵には次のように書かれています。

「毎年十一月酉の日に修行す。世に酉のまちといえり。此日近郷(きんこう)の農民(のうみん)家鶏(にわとり)を献(けん)ず。祭(まつり)終(おわ)るの後(のち)、悉(ことごと)く浅草寺(せんそうじ)観音(かんのん)の堂前(どうぜん)に放(はな)つを旧例(きゅうれい)とす」

石浜神明宮 (江戸名所図会より)
石浜神明宮

石浜神明宮(いしはまじんめいぐう)の挿絵には、「何の葉か ここにも一木 落葉かな  芭蕉」とあります。

挿絵の上部に「本社」があり、その左方から左回りに、「天王」、「狐窟」、「手置帆負命(たおきほおいのみこと) 彦狭知命(ひこさしりのみこと)」、「大こく 山王」、「あわしま」、「天神」とあります。画面中央の「真崎稲荷祠(まさきいなりやしろ)」の左から右へ、「茶や」、「神主」、「**所、「稲荷」、「文塚」、「茶や」、「きんけい石」があります。

なお、上の挿絵から其四迄の5枚は、右から左へのパノラマになっています。

橋場他

江戸名所図会の左の5枚の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

石浜神社 右の写真は、石浜神社(石浜明神社)の遠景です。白鬚橋西詰南側から撮っています。現在の境内は右上の地図の①の辺りです。

江戸時代は、石浜明神社はもっと西側(画面左側 地図の赤い楕円の辺り)にあり、真崎稲荷は写真の鳥居辺りから手前にかけての位置(地図の紫色の楕円の辺り)にあったのではないかと想像します。

石浜神社 右は、石浜神社の鳥居です。石浜神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

石浜神社 右は、石浜神社の拝殿です。拝殿右側に、妙義八幡神社やその他の摂社があり、その右に真崎明神が合祀されています。

其二 (江戸名所図会より)
其二

其二 思河(おもいかわ)橋場渡(はしばのわたし)の挿絵には、「うき旅の みちに流るるおもい河 泪の袖や 水のみなかみ  道興准后」とあります。

挿絵の手前側に「この所すみだ河のわたし場」とあり、左側に「船番所」、「茶や」が見えます。画面中央から右下に流れる川は「思川」です。

橋場他

上の地図の再掲です。挿絵にある思河は現在の明治通り沿いに流れ、白鬚橋辺りで隅田川に注いでいたようです。

橋場他 右は、白鬚橋西詰の堤にある橋場の渡し跡の説明板です(右上地図の②)。

橋場他 右は、橋場の渡し跡辺りの隅田川です。

其三 総泉寺 砂尾不動 同薬師 (江戸名所図会より)
其三 総泉寺 砂尾不動 同薬師

其三 総泉寺(そうせんじ)砂尾不動(すなおふどう)同薬師(やくし)の挿絵では、中央の下側に「総泉寺大門」があり、参道は左前方へ進み、画面の切れ端で右に曲がり画面右上に至ると「客殿」、「方丈」があります。画面右下に「不動」、「砂尾」があります。画面の左下隅に「此辺別荘多し」とあります。

平賀源内墓所 総泉寺は関東大震災で被災し板橋区に移転したのだそうですが、現在、総泉寺境内にあった平賀源内の墓所だけが残っています。上の地図の③です。

平賀源内墓所 右は、源内の墓です。

橋場不動尊 砂尾不動は現在、砂尾山橋場寺不動院(通称 橋場不動尊)と呼ばれています。右は橋場不動尊で、右上地図の④の位置にあります。

橋場不動尊 橋場不動尊の本堂です。その由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

其四 妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷 (江戸名所図会より)
其四 妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷

其四 妙亀明神社(みょうきみょうじんのやしろ)浅茅が原(あさじがはら)玉姫稲荷(たまひめいなり)の挿絵には、「浅茅ヶ原にて  あだし野や 焼きもろこしの かわばかり  其角」とあり、又、「人めさえ かれて淋しき 夕まぐれ 浅茅が原の 霜をわけつつ  道興准后」とあります。

画面中央に「妙亀堂」、「妙亀庵」があり、その左に「浅茅ヶ原」があります。画面上方に「玉姫いなり」が見えます。又、画面下に「此辺別荘多し」とあります。

橋場他

上の地図の再掲です。浅茅が原は地図のオレンジ色の楕円の辺りかと思われます。

妙亀塚 右は妙亀塚です。右上の地図の⑤の辺りにあります。

玉姫稲荷神社 右は玉姫稲荷神社です。右上の地図の⑥の辺りにあります。

玉姫稲荷神社 右は拝殿です。玉姫稲荷神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

其五 法源寺 鐘が池 (江戸名所図会より)
其五 法源寺 鐘が池

其五 法源寺(ほうげんじ)鐘が池(かねがいけ)の挿絵では、画面下に「法源寺」、「古碑」があり、法源寺の上に「かがみ池」があります。

法源寺について、江戸名所図会の本文では昔は保元寺と呼ばれたとあります。

保元寺 右は保元寺(法源寺)です。地図の⑦の辺りです。江戸時代の法源寺から、昔の保元寺の名に戻ったようです。

保元寺 右は保元寺の本堂です。その由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

采女塚 鐘が池は右上の地図の水色の楕円の辺りだったものと思われます。、鐘ヶ池に身を投げた女性を祀る塚が出山寺(しゅつさんじ)にあります⑧。右が采女塚です。

出山寺 右は出山寺です。出山寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

角田河渡 (江戸名所図会より)
角田河渡

角田河渡(すみだがわのわたし)の挿絵には次のように書かれています。

名にしおわば いざこと問わん 都鳥 我思うひとは ありやなしやと
   在原業平

橋場他 この渡しは、数枚上の挿絵の「其二」の橋場の渡し(隅田の渡しとも呼ばれたそうです)のことかと思われます。ただし、隅田の渡しの位置はあちこちと移動したらしく、正確な位置は不明なようです。隅田川の写真を再掲します。

隅田河合戦之図 (江戸名所図会より)
隅田河合戦之図

上は、正平(しょうへい)七年 隅田河合戦之図(すみだがわかっせんのず)です。

其二 (江戸名所図会より)
其二

其二は上の絵とパノラマになっています。

無題 (江戸名所図会より)
無題

上の挿絵には以下のように書かれています。

「水鶏(くいな)は橋場(はしば)のあたり及(およ)び佃島(つくだしま)を佳境(かきょう)とせり。源氏物語(げんじものがたり)にも『なかなかに春秋(はるあき)の花紅葉のさかりなるよりは、ただそこはかとなうしげれるかげともなまめかしきに、くいなのうちたたきたるは、たがかどさしてと、あわれにおぼゆ』とはしるされはべりし」

長昌寺 宗論芝 (江戸名所図会より)
長昌寺 宗論芝

長昌寺(ちょうしょうじ)宗論芝(しゅうろんのしば)の挿絵には、中央辺りに長昌寺の「本堂」、「宗論芝」があり、右上タイトル横に「隅田川西岸」とあり、右下に「此辺別荘多し」とあります。

長昌寺

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は長昌寺です。

長昌寺 右の写真は、長昌寺の山門です。

長昌寺 右は、長昌寺の本堂です。長昌寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

今戸八幡宮 (江戸名所図会より)
今戸八幡宮

今戸八幡宮(いまどはちまんぐう)の挿絵にはタイトル横に「隅田川西岸」とあり、「本社」、「別当」が見えます。

江戸名所図会の本文には以下のように記されています。

「社記曰く源頼義朝臣(みなもとのよしよしあそん)義家公(よしいえこう)と共に勅(ちょく)を奉(ほう)じて奥州(おうしゅう)安倍貞任(あべさだとう)宗任(むねとう)を誅戮(ちゅうりく)したまう。仍(よって)康平(こうへい)六年癸卯八月其(その)祈願(きがん)として鎌倉(かまくら)由比郷(ゆいのさと)および此今戸(いまど)の地(ち)に至(いた)り石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請(かんじょう)あり・・・」

今戸神社

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は現在の今戸神社です。場所が少し変わっているようです。

今戸神社 右の写真は、今戸神社の鳥居です。

今戸神社 右は、今戸神社の拝殿です。今戸神社の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

今戸焼 (江戸名所図会より)
今戸焼

今戸焼(いまどやき)の挿絵には次のように書かれています。

「此辺(へん)甄者(かわらし)陶器匠(やきものし)ありて、これを産業(なりわい)とする家(いえ)多(おお)し。世に今戸焼(いまとやき)と称す

元禄二年(1687)七月三日隅田河紀行
土をこね、瓦つくりならべてほしければ

やかぬまは 露やいとはむ 下瓦
   杉風」

今戸焼 右の写真は、今戸神社の境内に置かれた今戸焼の碑です。

今戸焼 右は、今戸焼の説明板です。

山谷堀 今戸橋 慶養寺 (江戸名所図会より)
山谷堀 今戸橋 慶養寺

上の挿絵には、山谷堀(さんやぼり) 俗に堀とばかりもいえり 今戸橋(いまどばし) 慶養寺(けいようじ)と書かれています。また、挿絵には次のように書かれています。

「待乳(まつち)しづんで、梢(こずえ)のりこむ今戸橋、土手(どて)の合傘(あいがさ)、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布(ほそぬの)
   右 英一蝶(はなぶさいっちょう)戯作」

挿絵の手前の川は隅田川でそこに注ぐ川には「今戸堀り」とあり、これが山谷堀です。堀には「今戸橋」が架かっており、その左上には「此辺船宿」とあります。絵の中央が「慶養寺」で「本堂」、「弁天」があります。遠景に「山谷」があります。

山谷堀

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は今土橋、紫色の円は慶養寺です。

山谷堀 右は、今土橋付近から山谷堀を見た写真です。山谷堀は暗渠になり、山谷堀公園として整備されています。

山谷堀 右は、今土橋です。

山谷堀 右は、今土橋です。

慶養寺 右の写真は、慶養寺の山門です(Iさんから借用)。

慶養寺 右は、慶養寺の本堂です(Iさんから借用)。慶養寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

真土山聖天宮 (江戸名所図会より)
真土山聖天宮

真土山聖天宮(まつちやましょうてんぐう)の挿絵には次のように書かれています。

「あはれとは 夕越えて行く 人もみよ まつちの山に残すことの葉

   戸田茂睡」

絵の右上に待乳山聖天の「本社」、「茂睡碑」があり、参道を下ると「額堂」、「みこしや」、「別当」、「表門」があります。左上に「山谷通り」があります。挿絵の下を流れる川に「すみだ川」とあります。

 

待乳山聖天

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は待乳山聖天です。

待乳山聖天 右の写真は、表門の近くの別当の山門に当たるものと思われます。

待乳山聖天 右の写真は、挿絵の「みこしや」の辺りなのではないかと思われます。

待乳山聖天 右は、拝殿です。その由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。

待乳山聖天 右は、裏門の辺りに当たるのではないかと思われます。

新吉原町 (江戸名所図会より)
新吉原町

新吉原町(しんよしはらまち)の挿絵には次のように書かれています。

闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな
   其角

挿絵では、手前に「えもん坂」、「見かえり柳」を左に見ながら「五十軒」を進むと「大門口」、その先は「七軒」とあり、「待合辻」、「仲ノ町」、その先「水道尻」とあります。左半分には「伏見町」、「江戸町二丁め」、「角町」、「新町」とあります。右半分には、「江戸町一丁め」、「あげや町」、「京町一丁め」とあります。左遠景には「浅草観音」、右遠景には「上野」、「**せんじまち」とあります。

新吉原

江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

新吉原 右は、挿絵に描かれた見返り松です(上の地図の①)。

新吉原 右は、大門の辺りです(上の地図の②)。

新吉原 右は、水道尻の辺りです(上の地図の③)。

新吉原仲之町八朔之図 (江戸名所図会より)
新吉原仲之町八朔之図

上は、新吉原仲之町八朔之図(しんよしはらなかのちょうはっさくのず)です。

 


江戸名所図会(えどめいしょずえ)巻之六の中のページ
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