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都内一円 「六阿弥陀道のり」
文政十三年(1830)五月、村尾嘉陵は、六阿弥陀詣でをしています。ただし、これは再遊と記された年であり、その前の散策がいつだったのかは不明です。なお、六阿弥陀とは、行基 (ぎょうき) の作と伝えられる阿弥陀仏の像を安置した6つの寺院を指しますが、他の六阿弥陀霊場と区別するときは、江戸六阿弥陀と呼ぶようです。インターネットの日本国語大辞典には以下のように書かれています。
「六か所の阿彌陀仏。また、その阿彌陀仏が安置されている寺。春秋二度の彼岸に後生を願うと、特に利益があるというところから参詣者が集まった。各地にあるが、東京では北区豊島の西福寺(一番)、足立区江北の恵明寺(二番。もと延命院、明治二年に合併)、北区西ケ原の無量寺(三番)、北区田端の与楽寺(四番)、台東区上野の常楽院(五番)、江東区亀戸の常光寺(六番)が有名」
又、サイト「猫の足あと」には次のように書かれています。
「行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。六阿弥陀と称していますが、木余り・木残りの2仏を加えた8阿弥陀を巡礼、江戸時代中期から大流行した巡礼です」
以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。記載された地点の位置については逐一は書きませんので必要に応じてリンク先を参照してください。なお、このページでのリンクは特に記載がなければ江戸名所図会です。
今回の 六阿弥陀詣での記録では、散策の記録というよりも、六阿弥陀の像に関する記述のほうが多くなっています。
左は、「六阿弥陀路程」と示された地図です。嘉陵は地図の左中央辺りからスタートし、図の左下の常光寺、その後地図の右上に向い、地図の右上から左に順次赤丸示す、延命寺、西福寺、無量寺、与楽寺、長福寺、を詣でました。
今回の紀行文は、「竪川通りより天神川(現在の横十間川)に添ひて、天神橋をわたり、天満宮(亀戸天神社)の裏より川(北十間川か)に添ひて東に行、香取大明神の社に参り、それより猶東行五七丁にして六番目常光寺」で始まります。右は、江戸名所図会の「常光寺」です。当時の様子が分かります。
常光寺を出て、上の地図の左下から右上に向い、東の森(吾嬬神社)・請地(秋葉神社)・白髭社・真崎いなり(現在の石浜神社の辺りにあった)・小づか原刑罪所・千住の大橋・西新井村弘法大師(西新井大師 総持寺)などに寄りました。このとき西新井大師は改装中だったようです。
「それより西に転じて行〔北に行道もあり、千住の宿の北に出と云〕、くるくると東に向、栄螺(さざえ)のしりに入(いる)如くにて木余りに至る」と、木余り阿弥陀のある性翁寺(しょうおうじ)に着きました。
「木余りより田畝の縄手を西南の方にさして行、日畑村、荒川の堤に出、西北に向て行事数丁、堤の下にくだりて」行くと、二番目延命寺に到着です。右は、江戸名所図会の「六阿弥陀廻り」で、延命寺は荒川の改修工事で移転し、恵明寺(えみょうじ)と合併しています(恵明寺の北西200m程のところにあったようです)。上の挿絵は、延命寺付近の六阿弥陀廻りの賑わいを表しているものと思われます。近くに木余り阿弥陀の性翁寺もありますので、両方の詣で客で賑わったのでしょう。なお、当時この辺りで荒川と呼ばれたのは現在の隅田川です。
「夫より元(もと)来(こ)し道を五七丁もどりて、沼田の渡りに至る」とありますが、「沼田の渡し」とは、元来た道を戻ったという記述から、おそらく、現在の豊島橋の上流にあった渡しで、「六阿弥陀の渡し」、「豊島の渡し」と呼ばれた渡しのようです。ただし、この頃、隅田川(当時荒川とよばれた)は今以上に大きく蛇行し、現在の荒川の東岸辺りまで膨らんでいたようですので、沼田の渡しも現在の荒川辺りにあったものと思われます。
「川を越て、川端を南西に向てくだる事数丁」で一番目の西福寺に至ります。右は、江戸名所図会の「西福寺」です。
「それよりみちを西南に転じて、田の畔(くろ)の小みちを行。屈曲盤廻して南北方位を不弁(わきまえず)といへども、さして向ふ処は、西北に山ぎし連綿たるを見る。行事(ゆくこと)しばしばにして坂あり。のぼりはてて平塚明神の社の左側に出(いず)。鳥居を出て王子道の大通りを、東より西のかたへ横ぎりて、寺の裏門より入(いる)。又山径をくだりて無量寺の庫裏に出(いず) 西ヶ原 三番目無量寺」とあります。右は、江戸名所図会の「無量寺」です。
「門を出て五七丁行。路の東畔に西行庵あり。猶行事(なおゆくこと)数丁にして 田端村 四番め与楽寺」に着きました。右は、江戸名所図会の「与楽寺」です。
「夫より東南行。一条の一路を行。この道日暮里の西、本郷通りの東中の通りなるべし。三さき(さんさき?)の大通りに出。東に転じて谷中門(寛永寺から谷中へ出る裏門)に入。黒門(寛永寺の表門)より出て
下谷 五番目長福寺」に着きました。右は、江戸名所図会の「常楽院」です。図会では、宝王山常楽院長福寿寺という名前で、六阿弥陀として紹介されています。
以上で六阿弥陀巡りは終わりましたが、自筆本の以降の部分では、嘉陵はこの日の感想と入手した縁起について記しています。
「弥陀詣での道すがら見所なし。隅田川白鬚より、渡りを越して千住までの間、風景あるのみ。其余は見るべき所々もなし」、、、「木余りの弥陀にて縁起の一帖を得る、この外には縁起もなし」云々です。
自筆本には 縁起を添付していますが、その縁起の後に、「靖(嘉陵自身のこと)考(かんがえる)に、この縁起、更に取に足ず。信用すべきにあらず」と批判精神旺盛なところを見せています。が、この後については記述を省略します。