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江戸名所図会(えどめいしょずえ)の巻之七の中のページ
第十八冊 富岡、深川、本所、亀戸、押上
第十九冊 隅田川東岸、葛西、柴又 このページです
第二十冊 行徳、国府台、真間、船橋 (準備中)
江戸名所図会 巻之七 揺光之部部 第十九冊
江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
大川橋(おおかわばし)の挿絵には、 「吾妻橋(あずまばし)とも名づく 富士はつね まつ紫の 筑波山 大坂淡々 」 とあります。 画面中央を流れる川は浅草川(隅田川)で、中央手前に大川橋があります。川を遡ると「隅田川」と見え、その右側(左岸)には「三囲」、「牛御前」、「長命寺」、「梅若」があります。 絵の左下から上に、「六地蔵河岸」、「花川戸」、「橋」、「真土山」、「神明」、「つくば山」があります。絵の右側には下から上に、「中の道」、「「小梅」、「三囲」、「弘福寺」、「請地」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りですが、遠景としては、そのずっと先、筑波山までが書き込まれています。 |
上の絵は三囲稲荷社(みめぐりいなりやしろ)です。 挿絵には、次のように書かれています。 「元禄(げんろく)の頃(ころ)、当社(とうしゃ)の境内(けいだい)に一老嫗(ひとりのうば)あり。参詣(さんけい)の徒(ともがら)神供(しんく)をささぐる時(とき)この老嫗(うば)田面(たのも)にむかい拍掌(てをうて)ば、一つの狐(きつね)いづくともなく来(きた)り、これを食(くら)う。老嫗(うば)世にあらずなりしより後(のち)は狐もまた出(いで)ずとなり。次に記(しる)せし其角(きかく)の句(く)は此事(このこと)をいえるなり。 五元集 早稲酒や きつね よい出す 姥がもと 其角 」 挿絵の中央右に「本社」があり、その右に「御供所」、「かぐら所」が見えます。手前の川は隅田川です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです、現在の三囲神社の寺域は赤い円のあたりです。 右は、拝殿です。三囲神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上の絵は、牛御前宮(うしごぜんぐう) 長命寺(ちょうめいじ)です。 挿絵には次の其角の句があります。 「五元集 是やみな 雨を聞く人 下すすみ 其角 」 挿絵の中央に「弘福寺」、その左側に「長命寺」があります。長命寺には「釈迦堂」、「奈木」、「延寿椎」、「本社」、「地蔵」、「こんせい神」、「芭蕉庵」が見えます。中央上には「あきば」があります。中央右には「須崎」があり、その下に「葛西太郎」があります。手前の川は「隅田河」です。 この絵は、上の挿絵の左側につながっているようです。 この挿絵には以下のように書かれています。 「俳諧師(はいかいし)水国(すいこく)が庵(いおり)の旧跡(きゅうせき)は長命寺(ちょうめいじ)の境内(けいだい)竹藪(たけやぶ)の中にあり。今其あとに芭蕉翁(ばしょうおう)の句碑(くひ)を建(たて)たり。 いざさらば 雪見に ころぶ 所まで ばせお(芭蕉) 」 挿絵の遠景に「寺嶋」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円が長命寺で、青い円が弘福寺、オレンジ色の円はあきば(秋葉神社)です。牛御前宮は弘福寺と隅田川の間にあったようですが、隅田公園の一角に移り、現在ここにはありません。 右の写真は、長命寺の山門です。境内の様子は江戸時代とはまったく違うようです。 右は、本堂です。長命寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右の写真の左側の碑には、江戸名所図会の挿絵にある芭蕉の句「いざさらば ・・・」が刻まれています。 牛御前宮は隅田公園の一角(右上の地図の紫色の円の辺り)に移っており、牛嶋神社と呼ばれています。右は、牛嶋神社の鳥居です。 右は、牛嶋神社の拝殿です。牛嶋神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
弘福禅寺(こうふくぜんじ)の挿絵には以下のように書かれています。 「木犀や 六尺四人 唐めかす 其角 元禄二年仲秋 初之隅田川紀行 牛頭山にまいり、仏前に拝して斎堂にまいりければ、机の瓶に朝*をいけて、眼前のあわれに 斎堂に あさがおいけて あわれかな 杉風 」 挿絵の右下から左上に、「天桂石」、「観音」、「天王殿」、「浴室」、「食堂」、「鐘楼」、「坐禅堂」、「大雄殿」、「牌堂」、「方丈」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、弘福寺の山門です。現在の山門は南東を向いていますが、江戸時代の山門は南西寄りにあるようで、境内の配置は変わっているようです。 右は、本堂です。弘福寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
庵崎(いおさき) の挿絵には以下のようにあります。 「俗間(ぞくかん)請地(うけち)秋葉権現(あきばごんげん)の辺(ほとり)をしか唱(とな)うとも、定(さだか)ならず」 「須崎より請地(うけち)秋葉(あきば)の近傍(あたり)までの間(あいだ)、酒肉店(りょうりや)多く、各(おのおの)*(いけす)をかまえ鯉魚(こい)を畜(かう)。酒客(しゅかく)おおく、ここに宴飲す。中にも葛西(かさい)太郎(たろう)といえるは、葛西三郎清重(きよしげ)の遠裔(えんえい)なりと云伝うれども、是非(ぜひ)をしらず。むさしやというは、昔(むかし)麦飯(むぎめし)はかりを売(うり)たりしかば、麦計(むぎはかり)と云ところにて麦斗(ばくと)と唱(となえ)たりしも、今はむさしやとのみよびて麦斗(ばくと)と号(ごう)せしをしる人まれになりぬ」 | |
請地(うけち) 秋葉権現宮(あきばごんげん) 千代世稲荷社(ちよせいなりやしろ) の挿絵には以下のように書かれています。 「社頭(しゃとう)に青松(せいしょう)丹楓(たんふう)おおし。晩秋(ばんしゅう)の頃、地水(ちすい)に映(えい)じて錦(にしき)をあらうがごとく奇観(きかん)たり」 挿絵の中央には「本社」があり、その右手前に「さる」、「茶主」、「結界堂」、「開山堂」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われますが、視線の方向はよく分かりません。 右は、拝殿です。秋葉神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
寺島(てらしま) 太子堂(たいしどう) 蓮華寺(れんげじ) の挿絵の中央に、「本堂」、「太子」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、蓮華寺の山門です。現在も、境内内の配置は基本的に江戸時代と変わっていないようです。 蓮華寺の本堂です。蓮華寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上の絵は白鬚明神社(しらひげみょうじんやしろ)です。 江戸名所図会本文には、「隅田河堤の下にあり、祭神は猿田彦命なり・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、白髭神社と呼ばれています。 右は、白鬚神社の鳥居です。白鬚神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、隅田川渡(すみだがわのわたし)です。 絵には、「 初花も 今日こそみつれ めづらしき 春の河原の 春をといきて 冷泉為久卿」、「筑波嶺の 峯ふきおろせ 春風に すみだ河原の 花ぞほころぶ 冷泉為村卿」とあります。 絵の中央が渡し場です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 右は、隅田川東岸で撮りました。左の先に見えるのが白鬚橋です。江戸名所図会の隅田川渡し場は、白鬚橋の辺りだったものと思われます。なお、江戸名所図会の挿絵は、隅田川の西岸から見ている図です。 |
上は、隅田川堤(すみだがわつつみ) 春景(しゅんけい)です。 絵には、「はるばると、霞わたれる隅田川のつつみをうちみれば、青柳(あおやぎ)の放髪(ふりわけかみ)も緑の眉においやかにかきたれ、蕾(つぼめ)る花のほころびそめて、ゑまいつくらふなんと立ちまじりたる夕ばえ、いとえんなり。わきて咲きみちぬるひとえだは、たが挿頭(かざし) にや手折らんと、さすがに心のとまる木の本なりけらし」とあります。 | |
この絵は、木母寺(もくぼじ) 梅若塚(うめわかつか) 水神宮(すいじんのみや) 若宮八幡(わかみやはちまん)です。 絵には、「木母寺に 歌の会あり けふの月 其角」、「回国雑記 いにしえの塚のすがた あわれさ今のごとくにおぼえて 古塚の かけ行く水の すみだ河 ききわたりても ぬるる袖かな 道興准后」と書かれています。 絵の左側中央に「木母寺」があり、「本堂」の左から反時計方向に「茶や」、「山王」、「梅若塚」があります。画面左下に「水神」があります。絵の右上に「若宮八まん」があります。 「梅若塚」については、江戸名所図会の本文に、「梅若丸塚 木母寺の境内にあり、塚上に小祠あり、梅若丸の霊を祀りて山王権現とす・・」とあります。梅若丸については、次の欄に書きます。 以上の2枚の絵は、パノラマになっているようです。 この絵には、「来てみるに むさしの国の 江戸からは 北と東の 隅田川かな 近衛藤原信尹公」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。なお、木母寺は現在赤い円の辺りにありますが、江戸時代はもっと東側(墨堤通りに近いところ)にあったようです。水神は現在隅田神社と呼ばれており、青い円の辺りにあります。 木母寺の門です。木母寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 ガラスの内側に、梅若堂があります。これは、梅若塚の拝殿にあたります。 隅田川神社の拝殿です。隅田川神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
絵には「梅若丸七歳のとし、比叡の月林寺(がつりんじ)をのがれ出て、花洛(みやこ)北白川の家に帰らんとしさまようて大津の浦に至りけるに、陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の藤太(とうた)といえる人あきひとのためにすかしあざむかれてはるばるとこの隅田川に来ぬることは、本文(ほんもん)に詳(つまびらか)なり。 因(ちなみ)に云う人買い藤太は陸奥南部の産なりとて、今も南部の人は其の怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること、矢口の新田明神へ江戸氏の人はばかりてもう出ざるがごとし」とあります。 | |
絵は、鐘ヶ潭(かねがふち) 丹鳥の池(たんちょうのいけ) 綾瀬川(あやせがわ)です。 手前右に「鐘ヶ渕」、左に「千住川」、右に「すみだ川」とあり、中央から左上にかけて「あやせ川」、右上に「丹頂池」とあります。この辺りでは、綾瀬川が手前の千住川(せんじゅがわ 隅田川)に流れ込んでいます。 絵には、「鳥の跡 綾瀬川にて 錦ぞとみるやこころの あやせ川 うつるもみじを いかで折なむ 戸田茂*」 上の挿絵と下の2枚の挿絵はパノラマになっています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 右は、綾瀬川と隅田川の合流点で、江戸名所図会の挿絵の中央右の岸の辺りから隅田川を見ている写真です。絵にかかれている中洲は見えません。 |
上の、牛田(うしだ)薬師堂(やくしどう)関屋里(せきやのさと)、の挿絵には以下のように書かれています。 夫木桜 挿絵の右側中央に「西光寺」、「やくし」、中央下に「元天神」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の赤色の楕円の辺りかと思われます。牛田薬師堂(西光院)はオレンジ色の丸の辺りにあります。その由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、関屋天満宮 (せきやてんまんぐう)の挿絵の中央に、「関や天神」、「氷川」があり、右下方向に「此辺を関屋の里という」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の青色の楕円の辺りかと思われます。荒川放水路の建設に伴い、現在、関屋天満宮は千住仲町の仲町氷川神社に合祀され、氷川神社は千住の千住本氷川神社に合祀されています。これらのリンクは「猫の足あと」です。 |
上の挿絵には以下のように書かれています。 葛西(かさい)の辺(あたり)は人家(じんか)の後園(こうえん)あるは圃畦(はたけあぜ)にも悉(ことごと)く四季の草花を栽並(うえなみ)はべるがゆゑに芳香(ほうこう)常に馥郁(ふくいく)たり。土人(どじん)開花の時を待得(まちえ)てこれを刈取(かりとり)、大江戸の市街(いちまち)なる花戸(はなと 植木職人のことか)に出して鬻(ひさ)ぐ事もっとも夥(おびただ)し。 |
左の挿絵の描かれた位置は分かりません。 |
上の、渋江(しぶえ)西光寺(さいこうじ)清重稲荷(きよしげいなり)の挿絵の中央少し右に「西光寺」があり、その少し左に「清重いなり」があります。西光寺の右に「用水渡 引船」、「茶屋」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。西光寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、木下川薬師堂(きげかわやくしどう)の挿絵には以下のように書かれています。 江戸名所記(えどめいしょき)に、 いにしへより毎月(まいげつ)八日ならびに元三の朝(あした)にはかならず本尊の御前(おんまえ)に龍燈(りゅうとう)のあかるをはい(拝)する人少からず、とあり。されど此事(このこと)今は絶えたるにや、土人(どじん)もし(知)らずといへり。 上の挿絵の中央左側に「本堂」があり、その周囲に「鐘」、「観音」、「白ひげ 山王」があり、中央右には「仁王門」、「弁天」、「熊野」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。木下川薬師堂は浄光寺と呼ばれます。浄光寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵には以下のように書かれています。ただし、この文は非常に分かりづらいのですが、本文を読むと意味が通じます。 木下川(きげかわ)薬師如来(やくしにょらい)の霊像(れいぞう)は、延暦(えんりゃく)年間、伝教(でんぎょう)大師叡山(えいざん)に在(いま)せし頃、東国(とうごく)化益(けやく)のため彫造(ちょうぞう)せられ、やや半(なかば)なる頃(ころ)(半分くらい出来上がった頃)、一夜(あるよ)この本尊の霊示(れいじ 仏からの指示)あるを以て、竟(つい)にその像腰(ぞうよう 像の腰の部分)を刻(こく)さずして錦繍(きんしゅう)をもてこれを纏(まと)い、下野国(しもつけのくに)大慈寺(だいじじ)の広智(こうち)といへる沙門(しゃもん)の東国に帰(かえ)らんとするに付属(ふぞく 教えを託す)ありしかば、本尊有縁(うえん)の地なるを以て木下川に安置(あんち)なし奉りしこと、浄光寺(じょうこうじ)縁起(えんぎ)に詳(つまびらか)なり | |
上は、中川口(なかがわぐち)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 |
上の、中川釣鱚(なかがわきすつり)の挿絵には以下のように書かれています。 春鱚(はるきす)は三月の末より四月に入りて盛(さかん)なり。 春釣(はるつり)と云は寛文(かんぶん)の頃南総(かずさ)伍大力(ごだいりき)の船頭(せんどう)仁兵衛をはじめとす。岩崎(いわさき)兵太夫といふ人、是に継(つぎ)、 いま、岩崎流といふは則この人に始りて是より後春鱚を釣る事世に盛なりしと云。 秋鱚は八月の末より九月なかばを節(せつ)とす。然れとも十月に至り寒気にうつれば沖に出るか故(ゆえ)川釣に幸(さち)なし。 漁人海に産するを白鱚と呼(よび)、川にあるを青鱚と唱ふ。 又、鱚に大小の差あり。当歳は腹白く、五六寸なるを二歳とす。腹すこしく黄色を帯びて背通り黒みあり。 七寸より八寸までを三歳と呼(よぶ)。腹黄色にして赤みを帯背の通り黒し。九寸以上を鼻曲(はなまがり)と号(なづ)く。 鱗(うろこ)あらし。 尺に越ゆるを寒風(さむかぜ)と唱るよし漁人の説なり。 | |
上の、平井聖天宮(ひらいしょうてんぐう)の挿絵の中央上側に、「燈明寺」、「不動」、「地蔵」、「山門」、「御供所」、「聖天宮」があり、挿絵の中央に、「はうさう(疱瘡)神」、「すは(諏訪)」があります。手前の川には「平井渡」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い楕円が平井聖天宮(燈明寺)、紫色の楕円が諏訪神社、水色の楕円は平井の渡しの辺りです。これらリンクはサイト「猫の足あと」です。 |
上の、立石(たていし)南蔵院(なんぞういん)熊野祠(くまのやしろ)の挿絵の左のページの上から下へ、「くまの」、「南蔵院」、「本堂」、「庫裏」、「かね」があります。挿絵の右を流れるのは「中川」です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い楕円が南蔵院、オレンジ色の楕円が熊野神社です。これら2つのリンクはサイト「猫の足あと」です。 |
上は、立石村(たていしむら)立石(たていし)の挿絵です。 南蔵院の境内に1尺ばかり頭を出した石があり、それを立石と呼んだようです。 | |
上の挿絵には、葛西六郎墳墓(かさいろくろうのふんぼ)は「葛西(かさい)上千葉村(かみちばむら)普賢寺(ふげんじ)にあり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 |
上の、東一之江(ひがしいちのえ) 妙音寺(みょうおんじ)の挿絵には、左側に「本堂」、右側に「弁天」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。妙音寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、二之江(にのえ)妙勝寺(みょうしょうじ)の挿絵には以下のように書かれています。 二の江より、今井(いまい)、舟堀(ふなほり)、桑川(くわかわ)のあたりに産する海苔(のり)を、世に葛西海苔(かさいのり)と称す。本草(ほんそう)に所謂(いわゆる)紫菜(しさい)の類(たぐい)にして浅草海苔(あさくさのり)に異なり。 上の挿絵の左上に「本堂」があり、その右から下にかけて「庫裏」、「かね」、「三十番神」、「きしも神」、「庵」があり、挿絵の下の方に「古川通り」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。妙勝寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、今井の津頭(いまいのわたしば)の挿絵には以下のように書かれています。 柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう 室町時代の連歌師)が永正(えいしょう)六年の紀行東土産(きこうあずまのつと)に 隅田川(すみだがわ)の河舟(かわふね)にて葛西(かさい)の府(ふ)のうちを半日(はんにち)ばかり葭芦(よしあし)をしのぎ、 今井(いまい)といふ津(わたり)より下(おり)て浄土門(じょうどもん)の寺(てら)浄興寺(じょうこうじ)に立寄(たちより)て、 とあれば、はやくより此津(わたり)のありし事しられたり。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 |
上の、今井(いまい)浄興寺(じょうこうじ)琴弾松(ことひきまつ)の挿絵には以下のようにあります。 東土産 上の挿絵の中央に「琴ひき松」、その右に「本堂」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。浄興寺の由来・詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。 |
上の挿絵には以下のように書かれています。 天正十五年の秋、小田原(おだわら)の北條左京太夫氏康(ほうじょうさきょうのたいふうじやす)むさし野小鷹狩(こたかかり)の時、
葛西(かさい)の浄興寺(じょうこうじ)に一夜(いちや)のやどりをもとめられ、松風入琴といへる和歌を題(だい)にて詠(えい)せられし事、武蔵野紀行(むさしのきこう)に見えたり。 |
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