アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之三 第十冊
巻之三 天璣(てんき)之部
第七冊 永田町、霞が関、麻布、広尾、目黒
第八冊 祐天寺、赤坂、渋谷、世田谷、溝の口、登戸、丸子
第九冊 四谷、千駄ヶ谷、代々木、深大寺、国分寺、府中
第十冊 府中、立川、玉川、高幡不動 このページです。
江戸名所図会 巻之三 天璣(てんき)之部 第十冊
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)の挿絵には以下のように書かれています。なお、この挿絵以下の2枚はパノラマになっています。 「小野宮(おののみや)と分倍(ふんばい)の境(さかい)府中(ふちゅう)より関土(せきど)へ行道(ゆくみち)は、往昔(むかし)奥州(おうしゅう)より鎌倉(かまくら)への通路(つうろ)にして、これを陣海道(じんかいどう)と称はえるは、元弘(げんこう)より永享(えいきょう)の間(あいだ)屡(しばしば)戦争(せんそう)の地(ち)にてありしかばかくは字(あざな)せるとなり」 上の挿絵の中央から右上にかけて、「拝殿」、「本社」があり、その周りに、時計回りに、「みこし蔵」、「御供所」、「弁天」、「御宮」、「木寺」、「榊」、「番や」、「雀石」、「随神門」、「亀石」、「松尾」、「注連樹」、「ごま堂」、「古仏 阿弥陀」があります。挿絵の右下に斜めに「相州街道」があり、その脇に「惣行寺」、「社家」があります。挿絵の左下に「此辺旅店」とあります。挿絵の左上に「神主」が見えます。 其二の挿絵は、上の挿絵の左側につながっています。この挿絵には、以下のように書かれています。 「当社(とうしゃ)随神門(ずいしんもん)より外(そと)の列樹(れつじゅ)には、鵜(う)或(あるい)は鷺(さぎ)其余さまざまの水禽(みずとり)巣(す)を作(つく)り栖(すみか)す。日毎(ひごと)に品川(しながわ)等(とう)の海濱(かいひん)より其(その)巣(す)へ運び其雛(ひな)を育(いく)せり。然(しか)れども随神門(ずいしんもん)より内(うち)へは一羽(いちわ)といえども入(いる)事(こと)なきを当社(とうしゃ)七奇事(きじ)の一とす。又、寒中(かんちゅう)に至(いた)れば一羽も宿(やど)る事なく、翌(あく)る年(とし)の寒明(かんなけ)に至(いた)り又来(きた)ってねくらせり」 この挿絵の下の斜めの道は「甲州街道」で、「一ノ鳥居」、「二ノ鳥居」があり、その両脇に、「制札」があります。また、参道を進んだ左に「宮之姫」、「土俵」があります。 なお、六所宮について、江戸名所図会の本文には数ページに渡り説明されていますが、冒頭は以下のようになっています。 「武蔵国(むさしのくに)総社(そうじゃ)六所明神(ろくしょみょうじん)社 府中(ふちゅう)駅路(えきろ)の左側にあり。延喜式内(えんぎしきない)大麻止之豆之天神社(おおまとのつのてんじんのやしろ)是(これ)なり。後世(こうせい)に至(いた)りて同じく式内(しきない)小野神社(おののじんじゃ)を合(あわ)せ祭(まつ)る故(ゆえ)に今(いま)両社一社(りょうしゃいっしゃ)の称(しょう)あり・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤丸は六所宮(現 大國魂神社、おおくにたまじんじゃ)本殿の辺りです。 上の図は現在の大國魂神社の境内マップです(大國魂神社のサイトより借用)。 右の写真は大國魂神社の鳥居です。甲州街道(現 旧甲州街道)に面しています。 右は拝殿です。大國魂神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)です。江戸名所図会の宮之姫にあたる神社かと思われます。なお、現在、土俵は宮乃咩神社の本殿側に並んでいますので、挿絵とは少し位置関係が異なっています。 右は、旧甲州街道の西側から鳥居の方向を見た写真です。つまり、左の其二の挿絵の右下側から鳥居方向を見る角度です。 右は、府中高札場跡です。現在の府中街道と旧甲州街道の交差点にあります。左の挿絵の其一の右下の、甲州街道と相州街道の交差する所にチラッと見えているのがそれかと思われます。 なお、現府中街道に関して、この交差点から南を相州街道(川崎街道)、北を川越街道と呼ばれていました。ただし、相州街道と川越街道はこの交差点で若干ずれてクランク状になっていたようです。左上の図でも、相州街道と甲州街道のぶつかるところはT字路に見えています。 |
六所宮祭礼之図(ろくしょのみやさいれいのず)以下3枚はパノラマになっています。 其二。 其の三。 | |
六所宮田植(ろくしょのみやたうえ)の挿絵には以下のように書かれています。 「五月六日は御田植(みたうえ)の神事(しんじ)にて武蔵国(むさしのくに)の人民(じんみん)早苗(さなえ)を携(たずさ)え来(きた)りて、神田(しいでん)に是(これ)を挿(はさ)めり 。郷童(きょうどう)白鷺(しらさぎ)の形(かた)の造(つく)り物(もの)ある葢鉾(かさほこ)をささげて、せんはいこうしの傘(からかさ)と唄(うた)いて、今(いま)植並(うえなら)し田(た)の中に下(くだ)り立(たち)て早苗(さなえ)を踏(ふみ)しだき、こひぢ(泥)にまみれて踊舞(おどりまう)。故(ゆえ)に有(あり)しにも似(に)ず、ひぢ(泥)の中にしずみはえるが一夜(いちや)のうちにいとめて度(たた)起立(おきたち)て葉末(はすえ)に露(つゆ)むすびなんとしてうるわしき事かぎりなし」 | |
明光院(みょうこういん)安養寺(あんようじ)の挿絵の中央に、「明光院」、「方丈」、「本堂」がみえます。本堂の左手前に「仁王」があり、挿絵の左に「観音」があります。挿絵の右に、「安養寺」、「本堂」があります。 江戸名所図会の本文には、明光院の説明が以下のようになっています。 「本覚山妙光院(ほんがくざんみょうこういん) 眞如寺(しhんにょじ)と号(ごうす)。府中本町(ふちゅうほんまち)の南の小路(こうじ)にあり。真義(しんぎ)の真言宗(しんごんしゅう)にして花洛(からく)仁和寺(にんわじ)の御門跡(ごもんぜき)に属(ぞく)す・・・」 安養寺については以下のように書かれています。 「叡光山安養寺(えいこうざんあんようじ) 妙光院(みょうこういん)の南の小路(こうじ)を隔(へだ)て同じ並びにあり。此地(このち)の小名(しょうみょう)を矢の崎(やのさき)という・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は明光院(妙光院)、紫色の円は安養寺です。 右は、妙光院の仁王門です。境内は、江戸名所図会の時代とほぼ同じ配置になっているようです。 右は、本堂です。妙光院の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は、安養寺の参道入り口です。入り口は、明光院と並んで、府中街道に面しています。 右は、安養寺の山門です。左の挿絵の田圃の途切れた辺りになると思われますが、当寺は山門はなかったようです。 右は、安養寺の本堂です。江戸名所図会の時代と同じ配置になっています。の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
分倍河原(ぶばいがわら) 陣街道(じんかいどう)の挿絵には、首塚(くびつか)、胴塚(どうつか)と書かれています。 挿絵の中央、上下に走っているのが陣街道で、右に「首塚」、左に「胴塚」があります。 又、挿絵の下に「小野宮」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「陣街道(じんかいどう) 小野宮(おののみや)と分倍(ぶんばい)との間の耕田(こうでん)の地(ち)にして、府中本町(ふちゅうほんまち)より関戸(せきど)へ行道(ゆくみち)の名とす・・・」とあります。 小野宮については、「小野宮村(おののみやむら) 陣街道を隔てて分倍(ぶんばい)より艮(うしとら 北東)に当(あた)れる地(ち)をいう・・・」とあります。が、むしろ、西の方向ではないかと思われます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。水色の破線は陣街道です。赤い円は天王森(現 八雲神社、天王宮八雲神社)、オレンジ色の円は首塚(現在は稲荷と弁財天の碑があるのみ)です。胴塚の位置ははっきりしないようです。 右の写真は八雲神社です。天王宮と合祀されています。歳神はそれぞれ、素盞嗚命と牛頭天王です。昔は、この辺りは天王森と呼ばれていました。 右は八雲神社の拝殿です。八雲神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は首塚のあったところのようです。現在は、お稲荷さんが置かれ、その横に弁財天の碑があります。 陣街道は、上のマップに示すように、現在の中河原駅辺りから北上し、八雲神社辺りを更に北上しています。その先、東芝府中工場の中を通り、西国分寺駅の近くで府中街道(旧 川越街道)につながっていました。 |
小野神社(おのじんじゃ)の挿絵には、「本社」、「みたらし」、「いなり」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「小野神社舊址(おのじんじゃきゅうし) 小野宮村(おののみやむら)陣街道(じんかいどう)の右にあり、今わずかに叢祠(そうし 茂みの中にある祠)を存(そん)するのみ・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は小野神社の拝殿です。小野神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
谷保天神社(やほてんじんのやしろ)の挿絵には、「社内(しゃない)に常磐(ときわ)の清水(しみず)と称(しょう)する霊水(れいすい)あり」とあります。 挿絵の中央に、「本社」、「拝殿」、「いなり 太神宮 三郎殿」とあります。挿絵の右下には、「常磐清水」、「弁天」があり、右上に「観音」、「いなり、「淡島」があります。挿絵の左に、「仮屋坂」があり、左下に「安楽寺」があります。 挿絵では、鳥居が右上にのみありますので、表参道は、右上の鳥居(甲州街道に面している)から拝殿につながる道かと思われます。従って、参道を下って本殿に至ることになります。 江戸名所図会の本文には、「谷保天神社(やほてんじんのやしろ) 同じ街道(甲州街道のこと)西の方(かた)谷保村(やほむら)道(みち)より左側にあり・・・別当(べっとう)は安楽寺(あんらくじ)と号(ごう)す・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い丸は本殿、青い丸は常磐清水です。別当だった安楽寺は今は存在しません。 右の写真は、谷保天神社(現 谷保天満宮)の一の鳥居です。甲州街道に面しています。 右は、谷保天満宮の参道で二の鳥居です。谷保天満宮の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
清水立場(しみずたてば)の挿絵には、「甲州街道(こうしゅうかいどう)の立場(たてば)にして、此辺(このへん)ここかしこに清泉(せいせん)湧出(ゆうしゅつ)する故(ゆえ)に清水村(しみずむら)の称(しょう)ありと云。此地に酒舗(しゅほ)ありて店前(てんぜん)清泉(せいせん)沸流(ふつりゅう)す。夏日(かじつ)は索麺(そうめん)を湛(ひた)して行人(ぎょうじん)を饗応(きょうおう)せり。故(ゆえ)に此地往来(おうらい)の人ここに憩(いこ)いて炎暑(えんしょ)を避(さけ)ざるはなし」とあります。
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江戸名所図会の挿絵に描かれた清水茶屋は上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようです。 |
上は、 日野津(ひののつ)の挿絵です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた清水茶屋は上の地図の緑色の楕円の辺りにあったようです。青色の円は日野の渡し跡碑のあるところです。 |
芝崎(しばざき)普済寺(ふざいじ)の挿絵には、「境内(けいだい)に延文年間(えんぶんねんかん)に制(せい)する所(ところ)の六面(ろくめん)の石塔(せきとう)を存(そん)せり」とあります。 挿絵の中央右側に、「本堂」、「客殿」、「庫裡」、「城跡」があり、その右上には、「六角塔」、「有慶庵」とあります。参道を左下方向に進むと、「中門」、「惣門」、「青梅道」が見えます。左側遠景に「多摩川」があります。 江戸名所図会の本文には以下のように書かれています。 「玄武山普済禅寺(げんむさんふざいぜんじ) 日野渡口(ひのわたりぐ←い)より此方(こなた)の岸頭(きし)を右へ十丁ばかり入って芝崎村(しばさきむら)と云にあり。此所(このところ)を立川(たてかわ)と云。昔の郷の名なり。今は小名となれり。済家(さいけ 臨済宗)の禅林(ぜんりん)にして、相州(そうしゅう)鎌倉(かまくら)の建長寺(けんちょうじ)に属(ぞく)せり・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い丸は本堂の辺りです。 右の写真は普済寺の参道入口あたりです。この参道は、江戸名所図会の時代とは方向が少し違っているように思われます。 右は本堂です。普済寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
立川(たてかわ) 八幡宮(はちまんぐう) 諏訪社(すわのやしろ) 満願寺(まんがんじ)の挿絵の中央左側に「八まん」があり、中央上側に「すは」、左下に「満願寺」、「太子」があります。 挿絵の中央右に「立川」が見えます。 江戸名所図会の本文には以下のように書かれています。 「八幡宮(八幡宮) 同所(芝崎村のこと)二町ばかり北の方にあり・・・」 「醫王山満願寺(いおうざんまんがんじ) 同所南の方四十歩計(ばかり)を隔(へだ)つ。黄檗派(おうばくは)の禅窟(ぜんくつ)にして・・・」 「諏訪(すわ)社 八幡宮(はちまんぐう)より六十歩ばかり東にあり。祭神(さいしん)建御名方命(たけみなかたのみこと)・・・」
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江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は諏訪神社、オレンジ色の円は八幡宮跡、濃い青色の円は満願寺跡です。 右は諏訪神社の拝殿です。諏訪神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
多磨川(たまがわ)と其二の挿絵はパノラマになっています。多磨川の挿絵には以下のように書かれています。 「六玉川(むたまがわ)のひとつにて、今(いま)多磨を玉に作る」 上の挿絵で左右に流れている川は多摩川です。対岸に「菅生」、「中の島」、「菅村」、「矢の口渡」が見えます。 其二の挿絵には以下のように書かれています。 「玉川(たまがわ)は、砂場(すなば)廣豁(こうかつ)にして其(その)流(なが)れ一帯にあらず多く、雨後(うご)抔(など)には渡口(わたりぐち)移転(いてん)して定(さだま)る事なし。西北に秩父(ちちぶ)および甲州(こうしゅう)の諸山(しょざん)を望(のぞ)み、東南は堤塘(つつみ)の斜(ななめ)に連(つらな)るを見る。鮎(あゆ)を此川の産(さん)とす。夏秋(なつあき)の間(あいだ)多(おお)し。故(ゆえ)に常(つね)に漁人(ぎょじん)絶(たえ)ず 」 其二の挿絵には、対岸左から「堰村」、「宿河原」、「長尾山」が見えます。此岸左に「駒井」があります。右遠景に「大山」が見えます。 |
左の2枚の挿絵の描かれた場所は、現在の稲城市の矢野口辺りからの下流側で、狛江市の駒井と川崎市の宿河原の岸の間辺りで、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます(遠景の範囲は省いています)。 「其二」の挿絵では、駒井と宿河原の間は、この時期、橋を2つ渡るようになっていたように見えます。 |
玉川(たまがわ)猟鮎(あゆかり)の挿絵には以下のように書かれています。
「夫木(ふぼく和歌集) |
左の挿絵の描かれた位置に関する明確な記載はありません。しかし、左の絵の右側上部には2つの橋が描かれていますので、上の欄の「多摩川 其二」の近くかもしれません。 |
上の挿絵には、以下のように書かれています。
「拾遺愚草 | |
高幡不動堂(たかはたふどうどう)の挿絵の左下に「仁王門」があり、その先参道を進むと左右に「神楽殿」、「弁天」を見ながら「不動堂」に至ります。その後ろ側に「あたご」、「??」があります。挿絵の右上には「本堂」、「庫裡」、「かね」、「大師」とあります。 江戸名所図会の本文には、「高幡山金剛寺(たかはたさんこんごうじ) 高畑邑(たかはたむら)にあり。東鑑(あずまかがみ)に高幡三郎(たかはたさぶろう)と云人(いうひと)の名あり。此所(このところ)より出(いず)るか・・・」とあります。又、「本尊(ほんぞん)不動明王(ふどうみょうおう)は古仏(こぶつ)にして作不詳(さくつまびらかならず)。坐像(ざぞう)一丈餘(あまり)あり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は大日堂の位置です。 右の写真は、高幡不動(金剛寺)の正面です。高幡不動の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は、山門です。大日堂の手前にありますが、挿絵にはない門です。 |
平村(たいらむら) 平惟盛(たいらこれもり)古墳(こふん) の挿絵中央の板碑には、「文永八年辛未中冬日」とあります。 本文には、「平維盛(たいらのこれもり)之墓(のはか) 金剛寺(こんごうじ)より一町ばかり西南(にしみなみ)平村(たいらむら)・・・似あり。青き一片(いっぺん)の板石(いたいし)にして高さ七尺五寸あまり、巾(はば)二尺程、厚さ二寸ばかりあり。上の方に、きりく字を彫(ほり)、下に文永八年辛未中冬(ちゅうとう)日とあり、土人(どじん)相伝(あいつた)えて平維盛(たいらのこれもり)の碑(ひ)なりと云(いう)・・・」とあります。 |
右の写真は、高幡不動の境内に置かれている文永八年の板碑です。 この板碑については、その後の研究で、鎌倉時代の早い時期に武蔵の国の高麗地方から現在の日野市に移住し勢力を伸ばした平姓の高麗一族の始祖の供養塔であろうと、推測されているようです。 |
茂草(もぐさ) 松蓮寺(しょうれんじ)の挿絵の中央上側に松蓮寺「本堂」があり、その周りに、「書院」、「庫裡」、「かね」、「観音」があります。境内の下側には「表門」、「裏門」があります。挿絵の左側には百草八幡宮の「拝殿」、「本社」があり、その右側に「かさもり」、「あなは」が見えます。 江戸名所図会の本文には、「慈岳山(じがくさん)松蓮壽昌禅寺(しょうれんじゅしょうぜんじ) 高幡(たかはた)より十二町斗(ばかり)東南(とうなん)の方(かた)百草邑(もぐさむら)にあり・・・黄檗派(おうばくは)の禅林(ぜんりん)にして江戸白金(えどしろがね)の瑞聖寺(ずいしょうじ)に属(ぞく)せり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は松蓮寺のあったと思われる辺り、オレンジ色の円は百草八幡宮の位置です。 右の写真は、百草園の入り口です。挿絵の三つの階段の一番右側に当たる階段ではなかろうかと思われます。 右は、松蓮庵です。ここに、松蓮寺の前にあった真慈悲寺の跡から出土した瓦などが展示されています。 右は、松蓮寺跡の碑です。説明板には、ここには、奈良時代から真慈悲寺があり、その後松蓮寺となり、明治になり廃寺となったことが書かれています。 右は、百草八幡宮の鳥居です。左の挿絵の一番左の階段の鳥居かと思われます。 右は、百草八幡宮の拝殿です。百草八幡宮の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上の挿絵は、 一宮大明神(いちのみやだいみょうじん)社です。 江戸名所図会の本文には、「 一宮大明神(いちのみやだいみょうじん)社 百草八幡宮(もぐさはちまんぐう)より十五六町北の方(きたのかた)多摩川(たまがわ)の南岸(なんがん)一宮(いちのみや)にあり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、拝殿です。小野神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
小山田旧関(おやまだのきゅうかん) 関戸惣図。(せきどのそうず)には以下のように書かれています。
「六百番歌合 上の挿絵には、下から右上に、「大くり川」、「関戸」、「天守臺」、「秩父」が見え、挿絵右端に「一宮」が見えます。 小山田旧関については、江戸名所図会の本文には、「小山田關旧址(おやまだのせききゅうし) 今(いま)関戸(せきど)と称(しょう)するところ即(すなわち)これなり・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の一帯を右上から見ているものと思われます。緑色の楕円は一宮大明神(現 小野神社)、赤い円が天守台の辺りです。 上のマップで、赤い破線は旧鎌倉街道で、水色の破線は大栗川です。左の挿絵で左側を上下に走る道が旧鎌倉街道で、右中央から左下へ流れる川が大栗川です。 |
関戸(せきど)天守臺(てんしゅだい)の挿絵の左側、下から上に、「神楽殿」、「こんぴら」、「仁王つか」があります。挿絵の右側に「玉川」、「府中」が見えます。 |
上の地図で、天守台跡の碑は赤い円の辺りにあり、金比羅宮は紫色の円の辺りにあります。 |
国安宮(くにやすのみや) 威光寺(いこうじ)の挿絵の左側に、「国安社」、「仮殿」、「社人」があります。挿絵の下側に「威光寺」があります。挿絵の右上側に「明覚寺」、「かね」があります。 上の挿絵に書かれた明覚寺については、江戸名所図会の本文には、「勝雲山明覚寺(しょううんざんみょうかくじ) 矢の口村(やのくちむら)街道(かいどう)より南の横にあり。渡し場(わたしば)の南拾五町あまりあり。臨済宗の禅林にして・・・」と書かれています。 威光寺については、「州原山威光寺(しゅうへんさんいこうじ) 同所明覚寺より道を隔(へだ)てて一丁斗(ばかり)向(むこ)う側二丁斗(ばかり)左へ入(いり)てあり。新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)にして・・・」と書かれています。 国安宮については、「威光寺の南五十歩斗(ばかり)を隔(へだ)てて同じ側(がわ)左の小道(こみち)を三十歩斗(ばかり)入てあり・・・」と書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い円は明覚寺(現 妙覚寺)で、濃い青色の円は威光寺です。 挿絵から推定すると、国安宮はオレンジ色の円の辺りにあったものと思われますが現在は不明です。なお、本文の記載では挿絵はと異なる位置にあったようにも読めます。 右の写真は、妙覚寺の本堂です。妙覚寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
矢之口(やのくち)穴澤天神社(あなざわてんじんのやしろ)の挿絵には、以下のように書かれています。 「此辺(このへん)傍(かたわら)を小澤が原(おざわがはら)と号(なづ)く。當社(とうしゃ)の後ろの山頂(さんちょう)は小澤次郎重政(しげまさ)が住(すみ)たりし城跡(しろあと)にして文明(ぶんめい)の頃(ころ)も金子掃部助(かねこかもんのすけ)此城(このしろ)に楯籠(たてこまも)りたるを吉里宮内(よしさとくない)左衛門尉以下横山(よこやま)より打(うつ)て出(いで)此城を責落(せめおと)す由と、鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)にみえたり」 上の挿絵の左上に、「穴沢天神」があり、右下に「岩窟」があり、更に手前には「水車」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い円は穴澤天神社で、濃い青色の円は弁天社です。 右の写真は、穴澤天神社の拝殿です。穴澤天神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、弁天社です。鳥居の向こう正面に御神水が出ており、現在も、大きなペットボトルを持って水を持ち帰る人が後を絶ちません。 |
寿福寺(じゅふくじ)の挿絵の中央に、「本堂」、「かね」があり、参道を下ると左右に「阿弥陀」、「土蔵」を見ながら「表門」に至ります。挿絵の右には「方丈」、「くり」があります。 江戸名所図会の本文には、「仙谷山寿福禅寺(せんこくさんじゅふくぜんじ) 谷の口(やのくち)の東の山続(やまつづき)矢の口(やのくち)渡し場(わたしば)より十二町東南(とうなん)の方(かた)菅村(すげむら)にあり・・・」と書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。赤い円は現在の寿福寺です。 右は、本堂です。寿福寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上は、 吐玉水(とぎょくすい)の挿絵です。 江戸名所図会の本文には、以下のように書かれています。 「吐玉泉(とぎょくせん) 寿福寺(じゅふくじ)より後(うしろ)の方(かた)の谷(たに)を隔(へだ)て西の山際(やまぎわ)農民(のうみん)の地にあり。水源(みなかみ)白砂(はくしゃ)を吹出(ふきいだ)す故(ゆえ)に号(な)とす。昔は小澤の白清水(おざわのしらしみず)という・・・」 | |
法泉寺(ほうせんじ)の挿絵の中央右に、「本堂」、「くり」、「みたらし」があります。中央上に「根上明神」、「天皇」が、左側に「福昌寺」があります。 江戸名所図会の本文には、「大谷山法泉寺(だいこくさんほうせんじ) 吉祥院(きちしょういん)と号(ごう)す。寿福寺の南十丁ばかりを隔(へだ)てて菅村(すげむら)の内(うち)府中道(ふちゅうみち)の右にあり・・・天台宗(てんだいしゅう)にして深大寺村(じんだいじむら)の深大寺(じんだいじ)に属(ぞく)せり・・・」と書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は法泉寺、濃い青色は根上明神(現 子之神社 ねのかみしゃ)、オレンジ色の円は福昌寺です。 右は、法泉寺の山門の右下にある子之神橋です。旧三沢川(挿絵の右下を斜めに流れる川)に架かっています。 右は、法泉寺の本堂です。挿絵と同じ配置のようです。法泉寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は、子之神社です。境内の配置は、挿絵と少し異なるようです。 右は、子之神社の拝殿です。子之神社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 右は、福昌寺の本堂です。福昌寺の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
巻之三 天璣(てんき)之部
第七冊 永田町、霞が関、麻布、広尾、目黒
第八冊 祐天寺、赤坂、渋谷、世田谷、溝の口、登戸、丸子
第九冊 四谷、千駄ヶ谷、代々木、深大寺、国分寺、府中
第十冊 府中、立川、玉川、高幡不動 このページです。