アラさんの隠れ家>歴史散歩>江戸名所図会(えどめいしょずえ)>巻之三 第八冊
巻之三 天璣(てんき)之部
第七冊 永田町、霞が関、麻布、広尾、目黒
第八冊 祐天寺、赤坂、渋谷、世田谷、溝の口、登戸、丸子 このページです。
第九冊 四谷、千駄ヶ谷、代々木、深大寺、国分寺、府中
第十冊 府中、立川、玉川、高幡不動
江戸名所図会 巻之三 天璣(てんき)之部 第八冊
江戸時代の風景 | 現在の様子 |
祐天寺(ゆうてんじ)の挿絵では、右下も「惣門」があり、その先、「仁王門」をすぎると左右に「阿弥陀堂」、「経堂」、「手水や」を見ながら、「本堂」に至ります。本堂の左には「禅堂」、「勤行(ごんぎょう)鐘」があり、本堂の右には「玄関」、「方丈」、「庫裡」があります。仁王門の右には「鐘」、「月光 大師堂」があります。 江戸名所図会の本文には、祐天大僧正が開祖で、本尊は恵心僧都の作になる阿弥陀如来である、と記されています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。祐天寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
碑文谷(ひもんや)法華寺(ほっけじ)の挿絵には、右側中央に「本堂」」があり、その周りを反時計回りに「二王門」、「かね」、「方丈」、「榎」、「観音」とあります。二王門の左には「表門」が見え、画面右下端に「裏門」が見えます。また、画面左には「八まん」とあるのは、碑文谷八幡宮です。 江戸名所図会の本文には、「妙法山(みょうほうざん)法華寺 碑文谷にあり、祐天寺の南、半道斗(はんみちばかり)にあり。吉祥院(きちじょういん)と号す。天台宗にして東叡山(とうえいざん)に属す。本堂本尊は釈迦如来にして・・・」とあります。 また、碑文谷八幡宮については、「同所耕田(こうでん)を隔てて南の方一町斗(ばかり)にあり。相伝う、畠山重忠の崇信(すうしん)せし御神なりという・・・別当は天台宗にして法華寺末(まつ)神宮院(じんぐういん)奉祀(ほうし)たり」と書かれています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。 右は、法華寺(現 円融寺)の山門です。上の地図のオレンジ色の楕円の位置にあります。法華寺は平安時代に天台宗で法服寺として創建され、鎌倉時代に日蓮宗に改宗し法華寺となり、江戸時代中期に再び天台宗となり、江戸時代末期に円融寺となったのだそうです。円融寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、阿弥陀堂です。挿絵の方丈の辺り(あるいはその少し本堂よりかもしれません)にあります。 右は、挿絵の「はちまん」(現 碑文谷八幡宮)の鳥居です。八幡宮は上の地図の赤い円の辺りです。 |
奥沢村(おくざわむら)浄真寺(じょうしんじ) 九品仏(くほんぶつ)の挿絵には、画面中央に「本堂」があり、その手前右側には「ニ王門」、「客殿」、「方丈」があり、本堂の上には反時計方向に「曼荼羅堂」、「中品堂」、「上品堂」、「下品堂」があり、画面奥には、「開山塔」、「開山堂」が見えます。 江戸名所図会の本文には「九品山(くほんざん)浄真寺 碑文谷より一里あまりを隔てて西南の方奥沢村にあり。浄土宗にして唯在念仏院(ゆいざいねんぶついん)と号す・・・」とあります。 本堂については「本尊阿弥陀如来・・・」とあり、この本尊については「あるとき、高僧が背負って持ってきてその由来(聖徳太子が四十二歳のときに彫造されたものと)を説明したことから、この寺のものとなり、その後、この像のご利益を受けた者が多く、九品仏を作るための費用が十分できた」旨が書かれています。 中品堂(ちゅうほんどう)については、中品(ちゅうほん)上生(じょうしょう)、中品下生、中品中生の三体が置かれており、上品堂(じょうほんどう)には、上品の三体が、下品堂(げほんどう)には、下品の三体が置かれていることが記載されています。
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江戸名所図会の挿絵に描かれた九品仏浄真寺の範囲は上の地図の青色の楕円の辺りです。浄真寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は浄真寺の参道です。左の挿絵の下側左から進む参道で、正面が総門です。なお、浄真寺は、参道も含め、江戸時代の配置がよく保存されています。 右は総門をくぐりすぐ右に閻魔堂があります。左の挿絵には「えんま」とあります。 さらに進むと正面に開山堂がありますが、これは、左の挿絵の「方丈」に当たるものかと思われます。 参道を左に進むと仁王門があります。挿絵では「二王門」と書かれています。 仁王門の先を進み、右に曲がると本堂です。なお、挿絵では、途中の参道には沢山の店が並んでいますが、現在は店はなく、静な境内です。 本堂に対峙して、九品仏のお堂が三つ並んでいます。右の写真は中央にある上品堂です。この右に中品堂、左に下品堂があります。
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満願寺(まんがんじ)の挿絵には、左下に「満願寺」「本堂」が書かれています。 本堂の手前左には、「かね」、「地蔵」、「廣沢墓」があります。挿絵右上に「くまの」とあります。挿絵の手前斜めに通っている道は右側で「目黒道」、左下で「ニ子街道」となっています。 江戸名所図会の本文には、満願寺について「至航山(ちこうざん)満願寺 二子(ふたこ)街道等々力(とどろき)村道より右にあり。新義の真言宗にして、山城醍醐報恩院に属す。開創の時世(じせい)詳(つまびらか)ならず・・・当寺は世田谷の吉良(きら)左兵衛佐(さひょうえのすけ)源頼康の祈願所にして、その頃は頗(すこぶる)盛大の寺院なりしとなり・・・」とあります。 又、「総門の額「致航山」の三文字は、小篆(しょうてん 漢字の書体の一つ)にして廣澤先生(こうたくせんせい)の筆・・・」という文に現れる廣澤先生は、細井広沢という18世紀始めに活躍した儒学者で書家・篆刻家です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図のオレンジ色の楕円の辺りです。緑色が満願寺です。 右は、満願寺の山門です。満願寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、講堂のある建物で、挿絵の「地蔵」と書かれた辺りです。日本三体地蔵といわれた一言地蔵尊が安置されています。 右は、玉川神社で、江戸名所図会の挿絵で「くまの」と書かれている神社です。上の地図の赤い楕円の辺りにあります。 右は、玉川神社の本殿です。玉川神社の詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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今井谷(いまいたに)。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた今井谷は、乃木坂から赤坂通りにかけて、つまり、上の地図の緑色の楕円の辺りの谷筋のどこかではないかと思われます。 |
赤坂氷川社(あかさかひかわのやしろ)の絵の右下に「物心門」があり、入ってすぐ左に階段があります。階段の上の門をくぐると右手に「はちまん」「神明」、「春日」、「鹿島」と境内社があります。真っ直ぐ前には鳥居があり、その先に「弁天」、「護摩堂」があります。右に曲がると更に鳥居があり、左手に「いなり」「諏訪」を見ながら「中門」を抜けると「拝殿」、「本社」があります。拝殿の左には「裏門」があり、拝殿の右には下り坂が見えています。 江戸名所図会の本文には「赤坂今井にあり・・・」「祭神(まつるかみ)当国一宮(いちのみや)に相(あい)同じ。赤坂の総鎮守にして祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現(現在の日枝山王神社)と隔年に修行す・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上右の地図の緑色の楕円の辺りです。氷川神社の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は氷川神社の鳥居です。現在、この鳥居は、江戸名所図会の挿絵の鳥居の位置とは異なり、挿絵の左下側に移っています。つまり、参道が、拝殿からまっすぐに、左下側の道迄延びており、そこに鳥居があります。
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上の挿絵の右下端に一木弁天(ひとつぎべんてん)があり、その左隣りに「龍泉寺」、「いなり」、「やくし」と見えます。目を少し上に転じると「松泉寺」、「二十三夜」、「弁天」とあります。さらに先に「専修寺」「本堂」と書かれています。 又、位置に関する情報としては、龍泉寺について「一木町道より右側に・・・」とあり、浄土寺(現存)が「龍泉寺より半町程南の方同じ側にあり」とあります。 |
一木弁天も龍泉寺他の寺も現存しないのですが、左にピックアップした江戸名所図会の記述から、挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと推定されます。
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種徳寺(しゅとくじ)については、江戸名所図会では、狩野興意(かのこうい)の墓のある寺として紹介されています。狩野興意は、桃山時代から江戸時代の狩野派の絵師です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りのようです。 右の写真は、種徳寺です。門柱の字は読めなくなっています。境内は綺麗に掃除されてはいますが、寺として活動している匂いはしません。
右の写真は本堂です。種徳寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。
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泰平観音堂(たいへいかんのんどう)は青山の梅窓院にありました。江戸名所図会によると、祀られているのは銅製の千手観音であり、鑑真が天平十五年(745年)に日本にもたらしたもので、それを、源頼義が奥州に持参し、その後青山家に伝わり、この寺に移した、という経緯を辿ったのだそうです。 上の挿絵では、右側から入ると参道に沿って露店がいくつかあります。又、入り口から参道の左に「地蔵」、「いなり 秋葉」、「虚空蔵」、「大日」とあり、参道を右に曲がると、「本堂」に至ります。右下の広い道は大山道です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。但し、現在の様子は江戸名所図会の絵とまったく異なっています。観音堂は、昭和20年の戦禍で失われてしまい、戦後再建されました。更に、平成には、鉄筋コンクリートの近代的なビルに変わり現在に至っています。梅窓院の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、大山道(国道246号線)側から梅窓院の参道を見ています。参道の両側に竹が美しく植えられていますが、江戸名所図会に竹藪は見えませんので、比較的新しいものと思われます。
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上は、海蔵寺(かいぞうじ)の挿絵です。手前は現在の外苑西通りかと思われます。 本堂の周りを時計回りに、「開山堂」、「方丈」、「庫裏」、「鐘」、「毘沙門」が取り巻いています。 黄檗宗の寺院です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。現在の外苑西通りに面しています。 江戸名所図会の挿絵では広い境内になっていますが、現在は、かなり削られているようで、道路に面した山門をくぐると正面が本堂になっています。 右は、海蔵寺の山門ですが、中国風?の雰囲気です。海藏寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 山門の正面にビルがあり、本堂になっています。裏側に墓地があります。
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上の熊野社(くまののやしろ)の挿絵では、門の先に、鳥居、拝殿、本殿が真っ直ぐに延びています。参道の左側には、 「神輿蔵」。「かぐら所」、「秋庭」、「太子」があります。右手前には「別当」があり、奥には「聖天」、「あいぜん、不動、弘法大師」が並んでいます。 江戸名所図会の本文には、「同町(青山海蔵寺のこと)東南の方三丁斗を隔て原宿町にあり。祭る所南紀の熊野権現と同じく三社なり。青山の鎮守にして祭礼は隔年九月廿一日に修行す。別当は真言宗にして浄性院と号す」とあります。 |
熊野社は現在青山熊野神社と呼ばれています。挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。熊野神社の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、参道入口です。その先に鳥居があり、更に先に拝殿が見えます。現在も、江戸名所図会の時代とほぼ同じ配置になっています。 右は、拝殿左側にある境内社です。秋葉神社、伏見神社、御嶽神社が入っています。江戸名所図会の時代とは少し異なっています。
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上の挿絵は、青山善光寺(ぜんこうじ)です。右側の道から参道に入り進むと「二王門」があり、その正面に本堂があります。二王門の左には、「三社宮」、「観音」とあります。二王門の右には「寝釈迦」、「地蔵」があります。又、その奥には「庫裏」、「客殿」、「玄関」とあります。 善光寺について、江戸名所図会では、「信州善光寺本願(ほんがん)上人の宿院にして浄土宗尼寺なり。本尊阿弥陀如来は御長(みたけ)一尺五寸、脇士(わきじ)観音・勢至のニ菩薩は共に一尺づつあり・・・」、又、「当寺は永禄元年戊午(1558年)の創建にして始めは谷中にありしを中興(ちゅうこう)光蓮社(こうれんしゃ)心誉知善上人明観(みょうかん)大和尚の時、宝永二年(1705年)台名(たいめい)によって此の地へ移されけるとなり・・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。青山善光寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
笄橋(こうがいはし)について、江戸名所図会の本文では、「青山(あおやま)長者が丸(ちょうじゃがまる)の谷間(たにあい)の小溝(こみぞ)に架(わた)せり」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 右は、緑色の中心から西を見た写真で、この坂は牛坂(うしざか)と呼ばれています。牛坂の説明碑には、牛坂は笄橋に続く道である、と書かれており、緑色の楕円の中心あたりで最も低くなっています。
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渋谷(しぶや)長谷寺(ちょうこくじ)の挿絵には、中央上側に「観音堂」、其の先に「本堂」があり、その右側に「鳥* 妙摩」、「いだてん」、「庫裡」、「方丈」があります。 観音堂の前に「中門」があり、その右に「秋葉」、「天神」、「夜叉神 大こく」があります。左下に「惣門」があります。 江戸名所図会の本文には、「・・曹洞派(そうとうは)の禅窟(ぜんくつ)にして江戸檀林(だんりん)の一室(いっしつ)なり・・」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。現在の長谷寺はオレンジ色の楕円の辺りになっています。また、現在の地名は麻布になっていますが、江戸時代はこの辺りは渋谷と呼ばれていました。 右は、長谷寺の山門です。長谷寺は戦災にあっており、境内は大きく変わったようです。写真の参道は南から入るようになっておりますので、江戸時代とは大きく異なります。 右は、長谷寺の本堂です。長国寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は、大観音です。長谷寺の観音は、大和長谷寺、鎌倉長谷寺と同本同体の観音だったそうですが、戦災で焼け、昭和50年頃に再建されたものだそうです。 |
上の挿絵は、渋谷 氷川明神社(ひかわみょうじんのやしろ)です。絵の右上に氷川明神社の「拝殿」、「本社」があります。本殿に至る道は二つあり、一つは絵の左側から参道が伸びており、もう一つは絵の下から「宝泉寺」(ほうせんじ 氷川明神社の別当)へ向かい、途中で二回折れ曲がり右上の本殿に向かっています。 また、江戸名所図会の絵の左側に「土俵」が見えます。 氷川明神社について、江戸名所図会では以下のように書かれています。 「氷川明神社 渋谷川の端にあり、相伝(あいつた)う。右大将頼朝卿の勧請なりと・・・」 「祭礼は九月二十九日なり。此の日社前にて角力(すもう)を興行す・・・」 「別当は天台宗にして恵日山薬王院宝泉寺と号す・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。現在、渋谷氷川神社(氷川明神社)と宝泉寺の敷地が離れており、参道も分かれています。 右の写真は渋谷氷川神社の鳥居です。江戸名所図会の絵に描かれた位置とほぼ同じかと思われますが、参道は道路から直線状に伸びており、左の絵にあるようなクランク状の曲がりはありません。渋谷氷川神社の詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。 鳥居をさらに進むと石段があります。右は石段を見ている写真ですが、少し右に曲がって伸びています。江戸名所図会の絵では参道が鳥居から石段を通り本殿までまっすぐに伸びているように見えますので、後世に参道の向きの変更があったようです。現在は、石段を上がり進んで行くと、左に直角に曲がって本殿に向かうようになっています。 右は、拝殿です。上に書いた理由で拝殿の向きは江戸名所図会の向きとほぼ90度違っています。 右の碑には、本社の跡と書かれています。これは、江戸名所図会の本社の位置に当たるようです。 右は、当時行われていた金王相撲跡で、写真中央に土俵が見えます。 右は、宝泉寺の本堂です。宝泉寺の詳細については「猫の足あと」を参照して下さい。
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上の挿絵は、金王八幡社(こんのうはちまんのやしろ 現在、金王八幡宮)とその別当である東福寺(とうふくじ)で、左右に並んでおり、その間に仕切りはありません。 絵の中央辺りに「表門」があり、その奥に「拝殿」、「本社」があります。参道右側に「高良*神」、「いなり」があります。これらは金王八幡社です。絵の中央右側に「裏門」があり東福寺の山門になっています。裏門の左側に「金王さくら」、「かね」があり、右側に「地蔵」、「えんま」があります。正面には「東福寺」「本堂」、「弁天」とあり、その左に「不動 ごま堂 観音」とあります。 金王八幡社について江戸名所図会の本文には、「渋谷八幡宮」という項だてで「中渋谷にあり、此の所の産土神とす云々。本社祭神 応神天皇・・・」と数ページにわたる説明があります。が、それではなかなか要点をつかめませんので、金王八幡宮のホームページからかいつまんで下に記します(つまり、金王八幡宮の説です)。 先ず、金王八幡宮は渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ 後の土佐坊昌俊)という人に因んで名前が付けられたものです。平安時代後期、この辺りは渋谷家が支配していました。渋谷家は桓武平氏の流れをくんでいます。武綱、重家の代に後三年の役で源義家の軍に従い大きな殊勲をあげ、「河崎」の名を賜り、その後、堀河天皇から渋谷の姓を賜りました。そして、この八幡宮を中心に館を構え居城とし、これが渋谷の発祥ともいわれています。 さて、金王丸のことですが、渋谷家重の子として1141年に生まれました。家重夫婦は子供を授かるようにこの八幡宮に祈願を続けたところ、金剛夜叉明王のおかげで男子を授かったので「金王丸」と名付けたのだそうです。 金王丸は、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その後義朝に従っていましたが、平治の乱(1159)で義朝が敗れたとき、その最後に立ち会い、剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。 金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊はいやいや義経の館に討ち入りましたが捕らえられ命を落としました。 この八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。また、境内にある「金王桜」は、源頼朝が金王丸の名を後世に伝える事を厳命し鎌倉の館より移植したと伝わっています。 なお、渋谷家の系図は多数あり、また、金王丸についても伝説的な部分が多く、史実としてはあまり明確ではないようです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。金王八幡宮の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。 右は、金王桜であると説明があります。但し、位置は江戸名所図会の絵の位置とは異なるように見えますので、おそらく、何代か後の桜かと思われます。 右は、東福寺の門柱です。江戸名所図会の絵の右端の地蔵、えんまと書かれた辺りから入っているようです。江戸時代は同じ敷地になっており境もありませんでしたので、明治時代に神仏分離令で分けられたものと思われます。東福寺の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、東福寺の参道に入ってすぐ右に曲がったところで撮った写真です。左に鐘楼、正面に本堂が見えています。
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上は、金王麿(こんのうまろ)影堂(えいどう)です。金王麿が保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像を、ここに納めた、ということです。 |
江戸名所図会の「金王麿」は、現在「金王丸」と書かれています。 |
金王麿(こんのうまろ)産湯水(うぶゆのみず)。 |
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富士見坂(ふじみざか) 一本松(いっぽんまつ)の挿絵には、左上に「ふじみ坂」、「ふじみ橋」がみえます。坂を下り少し手前に来て画面右に進むと、画面上側中央に「道玄坂」があります。さらに右に進むと挿絵の右端に分かれ道があります。江戸名所図会の本文によると、 まっすぐ(画面右方向に)進むと大山道で三軒茶屋への道であり、右(画面手前方向)に進むと駒場野(こまばの 現在の駒場)を経て北澤淡島への道です。手前に進んでくると画面下端に川があります。 |
江戸名所図会の挿絵に書かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りだろうと思われます。道玄坂上の西、駒場へ向かう道の途中から東を見た図です。赤の破線は旧大山街道で、紫の破線は淡島道りです。 富士見坂は現在の宮益坂で、富士見橋というのは、渋谷川(赤羽川)に架かる宮益橋のことです。 手前の川は、三田用水かと思われ、この辺りでは、現在の山手通り(旧道)の西側を流れていたようです。つまり、 この挿絵は、山手通り(旧道)と淡島通りの交差する辺りで描いているものと想像されます。 |
駒場野(こまばの)。 | 描かれた位置は不明ですが、かなり標高の高いところからの景色であることは分かります。遠景に富士が描かれていませんで、西から北西の間の方向を見ているようです。つまり、道玄坂上の辺りから淡島通りの方向を見ているのかもしれません。 |
上の挿絵には北澤粟島社(あわしまのやしろ)と池尻祖師堂(そしどう)が書かれています。江戸名所図会本文には以下のような記載があります。 「北澤淡島明神社 北澤村八幡山(はちまんざん)森厳寺(しんがんじ)といえる、浄土宗の寺院に勧請(かんじょう 神仏の分霊を迎えること)す。当寺は此の地八幡宮の別当たり。・・・」つまり、森巌寺は、境内の中にある淡島社の別当であり、また、近くの八幡宮の別当でもある、ということです。 「除剣難(けんなんよけ)日蓮大士堂 同所八町斗(ばかり)南の方池尻村二子街道の右側常光院(こうこういん)という日蓮宗の寺に安置す・・・」とあり、この大士堂は祖師堂と同じ意味です。 挿絵の左上に「本社」とあるのが北澤淡島社で、「別当」は森巌寺(しんがんじ)で、中央上側の「八まん」は北沢八幡です。中央下の「祖師堂」は常光寺で、その左下にある「いなり」は現在の池尻稲荷神社のようです。右下の道は大山道です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤は池尻稲荷、青は森巌寺、橙は北澤八幡宮です。赤い破線は旧大山街道です。 右の写真は、絵図の挿絵に「いなり」とかかれている、現在の池尻稲荷神社で、旧大山街道側から撮っています。参道に説明板があり、池尻稲荷は、大山街道の常光寺の一隅に勧請された旨が書かれています。なお、祖師堂(常光寺)は現在ありません。 池尻稲荷神社の本社です。池尻稲荷神社の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。 右の写真は森巌寺(しんがんじ)山門です。森巌寺については、「猫の足あと」に詳しくかかれています。 右は淡島堂で、挿絵に「本社」と書かれている北澤淡島神社に当たります。仏式の建物に見えますが、これは拝殿で、後ろに本殿がある、レッキとした神社です。1836年(天保7年)再興された、森巌寺最古の建物だそうです。 現在、森巌寺の境内には幼稚園が併設されており、江戸名所図会の時代とは趣が違いますが、本社、本堂などの凡その位置関係は保たれているようです。 右は、北澤八幡神社の本殿です。北澤八幡神社の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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上の挿絵の 子明神(ねのみょうじん)について、江戸名所図会の本文には以下のように書かれています。 「正一位子明神 二子(ふたこ)街道下馬牽澤(しもうまひきざわ)邑道(むらみち)より左の方、耕田(こうでん)を隔て丘の上にあり・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。子明神は現在馬繋(うまつなぎ)神社と呼ばれています。馬繋神社の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、馬繋神社の鳥居です。鳥居手前には、現在緑道になっている旧蛇崩川(じゃくずれがわ)に架かっている神橋があります。 右の写真は、馬繋神社の社殿です。馬繋神社では、6月15日から7月3日頃迄茅の輪(ちのわ)神事が行われています。この神事は、茅の輪をくぐり越え、罪穢れを祓い落とす、とされています。私が訪れたとき丁度茅の輪の準備中でした。 |
馬引沢古事(うまひきざわのこじ)について、江戸名所図会には以下のように書かれています。 「馬牽澤旧跡 同所子明神の前、今田畑となれる地の旧名なりといえども、今は上目黒世田谷へ跨(またが)りて都(すべ)て上中下の三(みっつ)に分かれたる邑名(ゆうみょう 村の名)となれり。里諺(りげん 土地の言い伝え)に云(いわく)、文治年間頼朝卿奥州征伐の時、渋谷八幡宮へ参篭(さんろう)あり。其時、荏原野(えばらの)より東條葦毛(とうじょうあしげ)の馬を撰んで献ぜられんとし、此の地を牽かれたりしに、躓(たおれ)たるにより、是を止められしと云う」 江戸名所図会は、さらに引き続き、その異説を述べています。 「或いは云う。頼朝卿御狩(みかり)の時、この所にて乗りたまう所の馬頻(しき)りに驚き、誤って澤に落入(おちいり)て死せり。故に塚に築籠(つきこめ)たりとも。そのことは葦毛塚の条下(じょうか 該当する文章の部分)を照らし合わせて見るべし。又云う、頼朝卿の乗りたまいしは葦毛なりしとて、今も此の地にては葦毛馬を畜(か)わずとなり。もし、あやまってこれを畜(か)うことあるときは、必ず祟(たた)りありとて恐れ、つつしめりとなり」 | |
江戸名所図会は、常盤橋(ときわばし)について、以下のように記述しています。 「常盤橋 二子街道中馬牽沢村、世田ケ谷入口三軒茶屋の往還角(かど)の所より、向(むこう)へ三丁ばかり入りて、小溝に渡す石橋をしか名づく。里諺(りげん)に云く、昔吉良頼康の妾(しょう)常盤といへる婦人、不義の事ありてこの所に害せらる。然る にその霊、里人に祟(たたり)す。依つてその霊を弁天に崇(あが)め、その腹に出生の男子を若宮八幡と崇め奉るという。何れも上馬牽沢村にあり。この常盤といえる女は、大平出羽守が女(むすめ)なるよし、世田ケ谷私記(せたがやしき)にみえたり」 更に、以下のように書かれています。 「按ずるに、この橋より二十歩ばかり東の方、道より北側に松を植ゑたる塚あり。これを常盤の墓と云う。上に不動の石像あり。又同じ南の方にも塚あり。これなりともいえど、いづれか実ならん」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた常盤橋は、上の地図の左端の緑色の楕円の辺りにあったものと思われます。ここは、現在、用水路と世田谷通りの交差するところです。 江戸名所図会に書かれた常盤の非業の最期を悼み、右の写真のような塚が、上の地図の赤色の楕円の辺りに置かれています。 その塚の横に、右のような説明碑があります。常盤橋とこの常盤塚の位置関係は、江戸名所図会の記載と異なっていますが、右の説明碑を読むと、かなり長い間放置されていたようでもあり、やむを得ないのかなという感じがします。 江戸名所図会に書かれているように、常盤のお腹にいた子が祀られたのは若宮八幡で、現在の駒留(こまどめ)八幡神社です。上の地図の青の楕円のところにあります。右は、その鳥居です。 |
江戸名所図会には、 世田谷(せたがや) 豪徳寺(ごうとくじ)とその周辺について以下のように書かれています。 「大渓山(たいけいさん)豪徳禅寺(ごうとくぜんじ) ・・・当寺は文明年間吉良家創建の精舎(しょうじゃ)にして旧(いにしえ)は弘徳庵と号す・・・中興の開基(スポンサーのこと)は井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝候、同中興開山(初代住職のこと)は天極修道(てんぎょくしゅうどう)和尚なり・・・」 「 吉良氏古城の跡 豪徳寺構えの内(うち)右の方に続きたる地を云う。今は井伊家の林となれり・・・」 「宮坂八幡宮(みやさかはちまんぐう 現在の世田谷八幡宮) 同じ寺(豪徳寺のこと)より西の方の岡続きにありて、その間三町計(ばかり)を隔つ。・・・」 上の挿絵の右中央の少し上に豪徳寺の「本堂」が見えます。本堂の手前から反時計方向に、「臥竜桜(がりゅうのさくら)」、「かね」、「庫裏」、「客殿」、「選仏場」が囲んでいます。右の下には「吉良氏城址」があり、豪徳寺の左上には、「照心堂(しょうしんどう)」、「吉良氏古えい」があります。また、左下には「いなり」、「碧雲関(へきうんかん)」、「楓樹林(ふうじゅりん)」、「松柏壇(しょうはくだん)」、「八まん」「清涼橋(せいりょうきょう)」、「黄鳥哺(こうちょうほ)」などが見えます。この「八まん」は現在の世田谷八幡神社で、宮坂八幡宮(上の節を参照)として本文に記載されています。画面下の川は烏山川(現在は烏山川緑道)です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。豪徳寺の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、豪徳寺の参道入り口にある門柱です。挿絵の左側手前に書かれた山門の位置にあるものと思われます。そこから50mほど南に烏山川(からすやまがわ)緑道があります。 右は、豪徳寺山門です。挿絵の丁度中央に書かれている山門の位置にあるようです。 右は、仏堂で、挿絵の「本堂」の位置にあります。ここには、三世仏が置かれています。運よく、とてもお話の上手なボランティアガイドの方がいらっしゃり、いろいろと教えて下さいました。 右は、三世仏で、左から阿弥陀、釈迦、弥勒の各如来です。ガイドさんのお話では、夫々、過去、現在、未来の仏さまだとのことでした。お寺によっては、夫々、現在、過去、未来の仏、と説明されている所もありますが、豪徳寺は前者の解釈なのだと思います。 なお、この豪徳寺は、招福猫(まねきねこ)の発祥の寺、として有名なようですが、江戸名所図会には、招き猫に関する記述はありません。江戸時代には未だ招福猫のお話は広まっていなかったのか、あるいは、江戸名所図会の作者の興味を惹かなかったのか? 右は、世田谷城址公園です。挿絵の右下に書かれている「吉良氏城址」に当たります。 右の写真は、世田谷八幡宮の鳥居です。挿絵の左側に書かれている「八まん」に該当します。江戸名所図会では小さく書かれていますが、現在、大変立派な神社で、大勢の参詣客を集めているようです。 右の写真は、世田谷八幡宮の本殿です。世田谷八幡宮の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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江戸名所図会は、世田谷八幡社(せたがや はちまんのやしろ)について、以下のように記しています。 「世田谷八幡宮 同所(弦巻(つるまき)郷のこと)にあり。相伝う。八幡太郎義家朝臣の勧請なりとぞ。則ち此の地の産土神(うぶすながみ)にして祭礼は八月十五日なり」 |
江戸名所図会の世田谷八幡社の記述には迷うところがあります。それは、世田谷八幡社の候補が近くに二つあることによります。 一つは、世田谷区宮坂(豪徳寺の近く)にある世田谷八幡宮です。この神社は、宮坂八幡宮、宇佐神社などと呼ばれていましたが、大戦後に世田谷八幡宮に戻したということです。現世田谷八幡宮(宮坂八幡宮)については上の段に記載します。 もう一つの世田谷八幡宮は、現在の弦巻神社に関係しています。明治末期に、弦巻神社の場所(弦巻三丁目)にあった稲荷社と、近くにあった向(むかい)天神社(弦巻一丁目)、八幡社(弦巻四丁目)が合祀され弦巻神社となったのですが、この八幡社が江戸名所図会の示す世田谷八幡宮のようです。 江戸名所図会の挿絵に描かれた世田谷八幡宮の場所は、上の地図の左端の赤色の楕円の辺りかと思われます。なお、弦巻神社は緑色、現在の世田谷八幡宮は青色の楕円の位置にあります。 右の写真は、世田谷八幡宮があったことを示す八幡祠です。マンションの一角に置かれています。 右の写真は、八幡祠の向かいの大山道児童遊園にある旅人の銅像です。この遊園は蛇崩川の跡に作られたようです。江戸名所図会の挿絵の、手前側を流れている川が蛇崩川ということになります。 |
この挿絵には、中央少し上に 氷川明神社(ひかわみょうじんのやしろ 現在の喜多見氷川神社)が「氷川」として、その右に祷善寺(とうぜんじ)が、画面中央の少し下に慶元寺(けいげんじ)が描かれています。 氷川明神社の本殿から右下に参道が延び、鳥居、更に右下に「観音」が見えます。 祷善寺の「本堂」の左に「いなり」と見えます。祷善寺は氷川神社の別当でしたが、現在はありません。 慶元寺の「本堂」の右に「庫裏」が、左手前に「いなり、太子」が、又、「かね」があります。 慶元寺は、江戸氏の氏寺として1186年に現在の皇居の辺りに創設されたようです。その後、江戸氏は現在の世田谷区喜多見に移り住み、慶元寺も移りました。なお、江戸氏は、徳川家康の江戸入府の際に江戸の名を憚り喜多見氏と名前を変えたようです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれ範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。 右の写真は、慶元寺の門柱周辺です。左の挿絵の右下端を外れたところです。慶元寺の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は、慶元寺の参道を正面から見ています。左の挿絵からも予想できるように、かなり長い参道です。 参道を進むと現れる山門です。1755年に建立となっていますので、江戸名所図会の挿絵の山門と同じかと思われます。 その先に本堂があり、1716年に再建されたととの説明がありますので、図会の時代と同じ建物のようですが、屋根は昭和になって瓦葺きにしたのだそうです。 右の写真は、喜多見氷川神社の鳥居です。参道の方向は図会の時代と同じで、鳥居のある場所も図会とそれほど違ってはいないだろうと思われます。 右は、喜多見氷川神社の本殿です。喜多見氷川神社の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。 祷善寺は現在廃寺になっており、氷川神社の境内に右の様な碑がありました。
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挿絵の中央に、 泉龍寺(せんりゅうじ)の「本堂」があり、境内には時計回りに「衆寮」、「鷲明神」、「天神」、「書院」、「庫裏」、「厠」、「鐘楼」があります。図会の本文に依ると、「・・当寺は良辯(りょうべん)僧都の草創にして往古(むかし)は法相華厳(ほっそうけごん)を兼ねて大伽藍なりしとなり。中興を鉄叟瑞牛(てっそうずいぎゅう)和尚と号す。相伝うる孝謙天皇の御宇天下大いに旱魃す。依って良辯僧都請雨(あまごい)の法を修(しゅう)せられしに、奇特ありて清泉湧出すと云う。即ち門外南の方に有る霊泉是なり」。又、この地を和泉邑と名付けたのもこの霊泉による、と書かれています。 画面中央少し下に「霊泉」があり、手前に「弁天」が見えます。 画面中央上には「経塚」があります。 経塚について図会には、昔、良辯僧都が寺の北東の小さな岡の上にお経を埋め、松を植えて印とした、という記述があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれ範囲は上の地図の青色の楕円の辺りかと思われます。 泉龍寺には古い建物が多数保存されているようです。 右は、泉龍寺の山門です。1859年の再建とありますので、江戸名所図会の挿絵とは、位置は同じですが、建物は異なるようです。竜泉寺の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右は、2階建ての鐘楼で、参道をまたぐ形で立てられています。1844年の建立とあり、江戸名所図会の時代にはあったのかもしれませんが、挿絵とは位置が異なっていますし、形も違っていますので、図会の作者は、この鐘楼ができる前に泉龍寺を訪れているようです。 右は本堂です。1706年の再建、昭和34年に大修理、とあります。 右の写真は、弁財天池です。図会には「霊泉」と書かれている池です。水量も豊富だったようですが、ついに涸れてしまい、昭和48年に復元されたのだそうです。 右は、経塚です。泉龍寺側から撮っています。これは、上の地図の赤い円の辺りにあり、5世紀後半の古墳ですが、図会の時代にはそう認識されてはいなかったようです。中世には墓として利用され、江戸時代には左に書いたように良弁についての言い伝えもありました。なお、この経塚は、隣のマンションの管理人に依頼すると入れるそうなのですが、運悪く管理人が巡回中で中に入ることはできませんでした。
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和泉村(いずみむら)の霊泉(れいせん)は、図会の本文には、「此の池水、いかなる旱魃にも涸るることなく、此の近里(きんり)悉(ことごと)く耕田(こうでん)の用水に引く、と云えり」と紹介されています。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれ範囲は上の地図のオレンジ色の楕円のようです。 右に、上に載せた弁財天池を再掲します。挿絵と似たアングルを狙いましたが、正確かどうかはよく分かりません。写真の左端に弁財天があります。挿絵の右端に見えている鳥居に該当するものは現在見当たりません。
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韋駄天山(いだてんさん)は、挿絵右上に「いだてん社」と書かれています。その前には「いなり」、「天神」があります。麓の鳥居の左右には「弁天」、「地蔵」、「庵」が見えます。 廣福寺(こうふくじ)については、画面左側に「廣福寺」と見え、下から順に、「本堂」、「観音」、「開山塚」、「稲毛塚」が見えます。遠景には「桝形山」があります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。韋駄天社は赤色、廣福寺は青色で示してあります。 右の写真は廣福寺の門柱です。小田急線に沿った道から数十m登ったところにあり、左の挿絵の中央したから左斜め上に登ったところにある山門の位置かと思われます。 右は本堂です。挿絵の本堂と、位置、向きも同じです。広福寺の詳細については「猫の足あと」を参照してください。 右は境内の内側から見ている山門です。この先は、天神社(韋駄天社)に向かっています。 右の堂宇は、挿絵の観音堂の位置にあります。この堂宇の山側は現在墓地になっており、塚等の存在は分かりませんでした。 右の写真は、枡形天神社(韋駄天社)の鳥居です。この左右には庵らしきものはありません。 右の写真は、枡形天神社(韋駄天社)本殿です。枡形天神社の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。
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上の挿絵で、飯室山(いいむろやま)がどの山かは記載されていませんがおそらく画面中央の山かと思います。山の右側中腹に「長者穴(ちょうじゃあな)」と呼ばれる穴が三つほど見えます。又、画面左下に「稲荷本社」とあるのが、長森稲荷(ながもりいなり)です。 江戸名所図会の本文では、長森稲荷は「長森稲荷社 同所四丁計を隔てて菅生(すごう)村府中往来の街より右の方蒼林(そうりん)の中(うち)にあり。同所日蓮宗安立寺奉祀せり・・・」 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。長者穴はオレンジの円の辺り、長森稲荷は赤い円の辺りにあります。安立寺は青い円の辺りです。 右の写真は、長森稲荷です。長森神社の詳細は「猫の足あと」を参照して下さい。飯室山は、写真を撮っている私の背中方向ですので、鳥居と本社は、江戸名所図会の時代と大体同じ様な位置関係にあります。写真の奥に安立寺があります。 右は、安立寺の門柱から境内を見た写真です。安立寺は長森稲荷の別当でした。長森稲荷の東300m程の所にあります。 右は、安立寺本堂です。安立寺の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。 右の写真は、長者穴です。写真では非常に見づらいのですが草むらに僅かに見えています。長者穴というのは横穴墓です。この場所には三つだけですが、この谷には32基の横穴墓があるそうです。ここは、生田緑地の中にある道で、これを更に進むと飯室山山頂に着きます。
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雪が坂(ゆきがさか)について、江戸名所図会には「雪が坂 飯室山の南の続きより曲折して西へ下る坂道を云う。登戸の辺りより平(たいら)村辺への通り道なり。頗る美景の地なり」とあります。 | 現在、府中街道に雪が坂という名のバス停留所がありますが、地名としては残っていないようです。但し、その辺りには雪が坂と名の付いたマンション、住宅が多数あります。上に書いた安立寺の近くですので、挿絵は、安立寺の上の坂道辺りかもしれません。 なお、ここは、飯室山(生田緑地)の東側になりますので、江戸名所図会には「西へ下る」とあるのは「東へ下る」の間違いなのかなと想像しています。 |
大師穴(だいしあな)について、江戸名所図会では、「大師巌室(だいしがんしつ) 土人、大師穴と称(とな)う。薬師堂の山の後(うしろ)西向(にしむかい)の所にあり。入口は一間四方ばかりあり。空中は二間四方にして、高さも相同じ。享保の頃、一人の山伏心願のことありとて、断食にて此の窟(いわや)中(うち)に十七日の間篭(こも)りたりと云伝(いいつた)うるのみにて、大師と称する所謂(いわれ)知りがたし。今巌中(がんちゅう)に青き板石の古碑四五枚あり」と書かれています。 | 江戸名所図会によると薬師堂(妙楽寺)の後ろの西向き斜面にあったらしいのですが、その場所はよくわかりませんでした。 |
挿絵の上右側に 妙楽寺(みょうらくじ)「本堂」があり、その左に「やくし」、「かね」と見え、さらに左に「五所権現」があります。 画面左の山が「七面山(しちめんざん)」です。手前の川は、二ヶ領(にかりょう)用水(本川)だろうと思われます。 江戸名所図会の本文では、妙楽寺は、薬師堂という項だてで次のように書かれています。 「薬師堂 長尾村の内二子街道の右側山の上にあり。本尊薬師如来の霊像は影向寺の本尊と同木にして慈覚大師の彫造なりと云う。秘仏にして常に拝することなし。天台宗同所妙楽寺別当たり」 五所権現については、以下のように書かれています。 「五所権現社 薬師堂の南の山続きにあり。祭神詳らかならず。神体はいずれも坐像にして、丈(たけ)七八寸ばかり、烏帽子を冠(かむる)が如きもの、或いは僧形のものもあり、都(すべ)て五体なり・・・」とあり、ご神体は人型のようです。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。右端の橙色の円が七面山(しちめんやま)の候補で、左端の赤い楕円が妙楽寺、青い楕円が五所権現(現在の長尾神社)です。緑色の楕円の右上辺りに沿って二ヶ領用水が流れています。左の挿絵は、右図青い矢印の辺り、あるいはそのもう少し東側からの視点で書いているものと思われます。 なお、七面山とはどの山を指すのかよく分かりません。溝の口駅近くの七面山(津田山)である、との説もあるようですが、妙楽寺、五所権現などの位置関係から、むしろ、上に書いた位置の方が近いのではないかと思っています。 右の写真は、妙楽寺の参道入口です。この寺はあじさい寺として有名で、私が訪れた時は丁度あじさいの時期で大勢の人が訪れていました。 右の写真は、妙楽寺の本堂です。江戸名所図会の挿絵と同じ位置にあるようです。妙楽寺の詳細については、「猫の足あと」を参照して下さい。 右の写真は、薬師堂で、挿絵には「やくし」と書かれています。江戸名所図会によると、妙楽寺が別当でした。挿絵では本堂から離れた少し高い所にありますが、現在は本堂に至る参道の左側に置かれています。 右は、鐘楼で、挿絵では「かね」と書かれています。薬師堂と同じく参道の左側に移されています。薬師や鐘楼のあったところは、現在、墓地になっているようです。 右は、長尾神社本殿です。長尾神社の詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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稲毛(いなげ)薬師堂(やくしどう)の挿絵には、中央に「本堂」があり、その手前の左右には「かね」と「十王堂」があります。本堂の裏には「白山」、「弁天」、「山王」の祠があります。本堂右側には「庫裏」と「方丈」があります。本堂から左へ参道が延び、階段を降りると「天王」があり、右に視線を変えると「影向石」が見えます。 |
稲毛薬師堂は野川の影向寺(ようごうじ)のことで、上の地図の緑色の楕円の辺りです。影向寺の由緒・詳細については、「猫の足あと」を参照してください。 右の写真は影向寺の山門です。図会の挿絵には見当たりませんで、中央の階段の辺りにあります。 薬師堂で、図会の挿絵では「本堂」の位置にあります。江戸時代中頃の建立のようで、神奈川県の重要文化財の指定を受けていますす。 右は阿弥陀堂です。その位置は、図会の挿絵の「本堂」の右後ろにある「白山」「弁天」「山王」の辺りになるようです。現在、法要はこの阿弥陀堂で行われているそうです。 右は太子堂の写真ですが、図会の挿絵の「十王堂」の位置にあります。太子堂は聖徳太子を祀る堂宇であり、十王堂は閻魔大王を始めとした冥土の裁判官が並ぶ堂宇のようです。両者性格が異なりますので、違うものと思われます。
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十三塚(じゅうさんつか)。 |
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橘明神祠(たちばなみょうじんのやしろ)。 |
橘明神祠は現在橘樹神社と呼ばれ、上の地図の青色の楕円の辺りにあります。 右は橘樹神社の本殿です。由緒・詳細については、「猫の足あと」を参照してください。
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上の挿絵の中央に登戸宿(のぼりとじゅく)があります。中央左側に「善立時」、右下に「光明院」があります。善立寺の前の道を右に進むと「榎戸」を経由し「菅村」に至ります。これは津久井道(つくいみち)と呼ばれたようです。旧津久井道は、西へ進むと柿生、鶴川、更には相模川沿いに橋本、津久井へと至り、東は多摩川を渡り三軒茶屋で大山街道と合流する道だったようです。「榎戸」辺りで、津久井道と交わっている川は二ヶ領用水です。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は妙光寺、青い円は善立寺です。赤い破線は旧津久井道です。
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登戸渡(のぼりとわたし)。 | 左の挿絵が描かれたのは多摩水道橋(多摩川に架かる世田谷通りの橋)の周辺だろうとは思われますが、時代により、場所を変えたと思われますので、あまり正確には分かりません。 |
上の、最明寺(さいみょうじ)の挿絵の右側中央に最明寺の「本堂」その周囲に「庫裏」、「えんま」、「観音」、「淡島」があり、挿絵の中央左に「丸子宿]が、挿絵の左側に「天王」が、挿絵の右下に「天神」があります。左側の川には 「丸子渡し」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い丸は最明寺(西明寺)、青い丸は丸子宿の辺りです。 右は、真言宗の西明寺の参道です。丸子橋からの中原街道はこの参道の直前でクランク状になっています。江戸時代始めにここに将軍の宿舎である小杉御殿があったことによるものだそうです。御殿そのものは江戸時代初期には廃されており、江戸名所図会では、本文には跡地との説明があるものの、左の挿絵には小杉御殿はみえません。 右は、西明寺の山門で、挿絵と同じ位置にあります。現在、山門の前に仁王門があります。 右は、本堂です。西明寺の由緒・詳細については「猫の足あと」を参照してください。 |
上の 樹源寺(じゅげんじ)の挿絵の中央右に樹源寺の「本堂」があり、挿絵の左側の階段の上に「神明」とあります。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。赤い円は樹源寺、青い円は神明(現在 天照皇大神 あまてらすすめおおかみ)です。 右は、神明社への参道です。左の挿絵にも見えている石段の参道と同じ雰囲気です。 右は、神明社の拝殿です。神明社の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
上の、 中丸子(なかまりこ) 羽黒権現(はぐろごんげん)の挿絵の左側に「本社」とあり、その周囲に「弁天」、「天神」、「神明」、「蔵王」、「文殊」とあり、挿絵の右側に「中丸子」が見えます。 |
江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。羽黒権現は現在神明大神(しんめいだいじん)と呼ばれています。 右は、神明大神の参道入口です。この撮影した位置は左の挿絵の川があったと思われるところです。周囲の公園、住宅地には川の跡がはっきりと見えます。 右は、拝殿と境内です。境内は、左の挿絵と同じ配置になっているようです。神明大神の由緒・詳細は「猫の足あと」を参照してください。 |
巻之三 天璣(てんき)之部
第七冊 永田町、霞が関、麻布、広尾、目黒
第八冊 祐天寺、赤坂、渋谷、世田谷、溝の口、登戸、丸子 このページです。
第九冊 四谷、千駄ヶ谷、代々木、深大寺、国分寺、府中
第十冊 府中、立川、玉川、高幡不動