金川砂子(かながわすなご)とは
「金川砂子」は、江戸時代の神奈川宿の様子を書いたもので、神奈川宿の住人「煙管亭(きせるてい)喜荘(きそう)」により、文政七年(1824)に作られました。豊富な挿絵と共に当時の宿の様子が詳細に描かれており、神奈川宿の内とその周りの神社仏閣、歴史、生活、行事などが分かります。当時流行った名所図会(観光ガイドブックのようなもの)の神奈川宿版といえます。作者の煙管亭喜荘については、東神奈川熊野神社宮司の照本力氏の書かれた「ふるさと 神奈川宿」に詳細があります。なお、喜荘は、文政六年(1823)に「神奈川駅中図会」を著しており、それを増補して「金川砂子」を作ったようです。
その神奈川宿(駅ともいう)というのは、今のJR京浜東北線東神奈川駅、京浜急行神奈川駅の辺りにあった宿場です。当時、今の横浜中心部の大部分は海の中で、神奈川宿の辺りが最も栄えていました。旅人も多く、港を出入りする舟も多く、東海道でも屈指の宿だったようです。
「金川砂子」は、国立国会図書館デジタルコレクションで”金川砂子”で検索すると「金川砂子 附神奈川史要」という本が見つかります。これは昭和5年に、石野瑛氏が金川砂子の平田本を写し石野氏本人の著した神奈川史要を加え、出版したものです。金川砂子の概要についても書かれています。
金川砂子の本文にはふり仮名が振られているため、くずし字ではありますが比較的楽に読めます。ところが、挿絵に書かれている俳句、短歌、漢詩にはルビがありません。そのため、読めないところがたくさんあります。しかし、インターネットで調べてみたのですが、これらの釈文(くずし字を活字になおしたもの)が見つかりません。
このサイトでは
「金川砂子」の跡を辿り、挿絵と現在の様子とを比較しようと思っています。又、本文と挿絵に書かれた歌の釈文作りにも挑戦しようと思います(但し、漢文には挑みません)。各図の下に釈文を記しますが、その際意味が通じる程度に現在の漢字に直し仮名遣いも直します。但し、自力での解読ですので、不徹底、不明な箇所、間違いなどが多いかと思います。正解を教えて頂ければさいわいです。私のブログ「作って試してみて聴いて 」でも、挿絵毎に記事をアップしております。
ご指摘、コメントなどありましたら、メールでお願いします。下のアドレスの#を半角@に替えて、送ってください。
tackarax#yahoo.co.jp
図を左クリックすると新たなタブに少し大きなサイズで開きます。なおここで用いた図で特に断りのないものは、国立国会図書館からダウンロードしたものです。写真は私が写したものです。
又、訪問記を作るに当たり、非常に多数の資料、ホームページを参考にさせて頂いております。ここに厚くお礼を申し上げます。
神奈川宿の全貌
先ず、神奈川宿の全体を紹介します。下にあるのは、国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所のホームページから借用した地図です。
赤い線は旧東海道、オレンジの部分が神奈川宿の範囲です。金川砂子では、東から西へ、図の右から左へ順に説明が続きます。東側は生麦(なまむぎ)、子安(こやす)から始まります。神奈川宿の江戸方入口は現在のJR京浜東北線東神奈川駅の辺りです。神奈川宿の京方入口は現在の首都高速三ツ沢(みつざわ)線横浜西口出入り口に近い上台(かみだい)橋の辺だったようです。神奈川宿のほぼ中央に滝の川が流れており、そこに架かる滝の橋で宿が東と西に分かれていました。東側は神奈川町、西側は青木町と呼ばれていました。上台橋の西には軽井沢、芝生(しぼう)村と続きます。
江戸時代に作られた東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)の神奈川宿の部分が、神奈川小学校の近く、上無川の説明パネルと並んで壁画として置かれています。下の写真です。
また、神奈川地区センターには神奈川宿のジオラマが置いてあります。当時の宿の雰囲気がよく分かります。
神奈川宿の訪問記
では、金川砂子に従って、神奈川宿の江戸時代の風景と現在を比較しながら紹介します。ここでは、ファイルが大きくなるため、金川砂子の記述の順に(ほぼ順に)東から下のように4つに分けて書きます。
序 神奈川宿の東隣(江戸側)の村々 生麦、子安の辺り
神奈川宿内の東半分 神奈川宿江戸方入口~滝の橋
神奈川宿内の西半分 滝の橋~神奈川宿京方入口
神奈川宿の西隣(京側)の村々 軽井沢~程ヶ谷宿入口辺り