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神奈川宿内の東半分
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神奈川宿の西隣(京都側)の村々
金川砂子 江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
勧行寺について金川砂子は「学陽山勧行寺 法華宗 越後国本成寺末 軽井沢にあり 滝の橋より十四丁ばかり」とあります。 | 金川砂子の絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 下は、挿絵と同じアングルのGoogle Earthの写真です。赤い線は旧東海道です。中央を上下に走っているのは首都高速三ツ沢線です。 右は、軽井沢の勧行寺(かんぎょうじ)です。挿絵では、田んぼの中にお寺がありますが、現在は、参道の上を首都高速が斜めに横切っています。右の写真は、首都高速の下を過ぎ、勧行寺の参道入口を通り過ぎたところで振り返って撮ったものです。つまり、左の絵の東海道の左端から参道入口を見ている写真です。 参道を進み、本堂を見ている写真です。勧行寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。
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金川砂子の挿絵には、右手前に「軽井沢」、左奥に「芝生(しぼう)村」、更に奥に奥には「浅間社」が書かれています。画面中央の少し上に右から左に川が流れており、「けかち川」と書かれています。なお、軽井沢は今の楠木町、芝生村は今の浅間町です。浅間社の参道の左側には「人穴」があります。
けかち川について金川砂子は「けかち川 神奈川の駅西入口 芝生村境に石橋あり 下流をいう」とあり、更に以下の様に続けています。 | 金川砂子の絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。 下は、挿絵と同じアングルのGoogle Earthの写真です。赤い線は旧東海道です。 挿絵には芝生村をけかち川が流れていますが、現在地図上にけかち川は見当たりません。先ず、この川を探します。 この辺りは今は、環状1号線(旧東海道)と県道13号線新横浜道(しんよこはまみち)が交差している浅間下(せんげんした)交差点となっています。右の写真は浅間下交差点の陸橋の上から三ツ沢方面(北西方向)を撮ったのですが、川らしきものは見えません。けかち川は村の境だという説明があったので現在の町境を調べるとこの境は浅間下交差点の50m程東京寄りでした。従って、この写真の右側を流れていた可能性があります。 旧東海道を50m程戻って海側に折れてみると、右の写真のような道がありました。右半分は車道で、左半分が何らかの構造物の雰囲気で、これは暗渠に違いありません。ここは江戸末期に作られた横浜道(よこはまみち)の起点でもあります。なお、旧東海道を挟んだ反対側の道には暗渠らしいものは見つかりませんでした。 この暗渠を辿って海側に進んでいくと(横浜道とは少しずれるのですが)、右の写真のように川の土手に出ました。 この川の向こう岸から見てみると(右写真)、水面スレスレに穴が見えました。満潮に近いため分かりづらいのですが、これが暗渠の出口だと思われます。この川は新田間川(あらたまがわ)です。これで、けかち川のルートが確認できました(と思います)。 この暗渠の出口のすぐ西側は新田間橋(あらたまばし)で、新横浜道(この辺りは元の横浜道と重なっている)が通っています。この横断歩道を渡りながら海の方向を撮ったのが右の写真です。ランドマークタワーが見えており、このまっすぐ先にはみなとみらいがあります。 新田間橋から更に進むと平沼橋があります。これは新横浜道の橋で、元の横浜道には元平沼橋が架かっています。右の写真は、元平沼橋で撮っています。上を通っているのが平沼橋です。 江戸後期には、この辺りは海際の湿地だったのですが、横浜開港に間に合わせるため大急ぎで横浜道を建設したのだそうです。当時の横浜道の様子は左の下側の図(貞秀)を見るとよく分かります。図の海の辺り、つまり横浜道の左側は、その後埋め立てられ、現在、横浜駅のある高島町やみなとみらいとなってビルが立ち並んでいます2枚上の写真のとおりです さて、金川砂子に戻り、浅間社(せんげんのやしろ)について書きます。右の写真のように、旧東海道に面して鳥居があります。金川砂子によると、鳥居をくぐり階段を上がり、右前方の参道を進むと本殿があり、左側に進むと人穴(富士山麓につながっているとの言い伝えがあったが、実際は横穴式古墳)があります。 本殿は参道を登った先の金川砂子の図のとおりの位置にありました。しかし、人穴の辺りは右上の写真の鳥居の左側にあるはずですが、崖が固められており昔の様子とは違っているようで、正確な位置はよく分かりません。 浅間社の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 |
拾遺 「世の中に・・」の歌は、平安中期に編纂された拾遺和歌集に収められた平兼盛の歌です。又、「山桜・・・」は、室町時代後期の連歌師である宗長の句です。 この金川砂子の絵は、豊顕寺(ぶげんじ)、三澤檀林(みつざわだんりん 今は三ツ沢と書く)の図です。絵の右下側から入ってくると左端の赤門を通り檀林講堂へ行け、赤門の手前の山門から豊顕寺本堂へ行けます。講堂の左側に「鐘楼」、「談合所」があります。
金川砂子の本文には、豊顕寺について「法照山豊顕寺 法華宗 越後国本成寺末 三沢村にあり。滝の橋より西へ十五町ばかりにあり。云々」とあります。三澤檀林については以下の記載があります。 | 金川砂子の絵に描かれた範囲は、上の地図の緑色の楕円の辺りです。豊顕寺は、東海道からは少し外れており、三ツ沢公園の500m程北にあります。 豊顕寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。
右の写真は金川砂子の絵の左下の位置で撮りました。写真の正面右側は山門で、左側へ進むと赤門(檀林の門)と呼ばれる門がありますので、左の絵と同じ配置です。 山門をくぐると本堂です。この本堂はできて間もないようです。とても大きく、本堂の後から右後へも建物が続いており、左の絵の豊顕寺と書かれた辺りから後全体に広がっているようです。 檀林については、豊顕寺の左側が一段高くなており、地形は左の絵と同じらしいことは分かりますが、今は何も残っていません。右が講堂の跡と思われる写真です。 金川砂子の江の左上側に鐘楼があります。その位置に鐘楼と思われる礎石がありました。
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金川砂子の本文には「鎮守八幡宮 赤門の正面坂上にあり。弁財天女赤門の坂中ほどにあり」とあります。 | 八幡宮は三澤檀林の赤門の坂の上にある、ということですが、その跡を見つけ出すことはできませんでした。 |
絵には、「善竜寺」と「溜池」が書かれています。 | 左の絵には、神奈川宿の北にある斎當分(さいとうぶん)の善竜寺が書かれています。斎當分は、今は斎藤分町(さいとうぶんちょう)となっており、東急東横線の東白楽駅の西側にあります。 上の現在の地図の緑色の楕円の辺りです。なお、現在の寺名は、善龍寺となっています。 右の写真は、山門側から写しました。善龍寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 右の写真からは、本堂の左奥が高く、右側が低くなっているのが分かります。従って、左の金川砂子の絵に描かれた境内の配置は現在とほぼ同じだといえます。
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神奈川の 駅ろの鈴の 音冴えて 歌の作者の名前が読めません。「翠通」としておきましたが。。。 上の絵には、「芝生(しぼう)村追分」から次の宿である「程ヶ谷入口」までが書かれています(現在は保土ヶ谷と書きます)。金川砂子は東から西へ向かって記述されており、ここで終わっています。 | 金川砂子の絵の描かれた範囲は上の現在の地図の緑色の楕円の辺りです。 下は、挿絵と同じアングルのGoogle Earthの写真です。赤い線は旧東海道です。 右図は、追分の辺りです。直進すると東海道で松並木を通り程ヶ谷宿に着きます。右に折れると八王子道です。 |
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