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金川砂子(かながわすなご)の中のページ
序 神奈川宿の東隣(江戸側)の村々
神奈川宿内の東半分 (このページです)
神奈川宿内の西半分
神奈川宿の西隣(京都側)の村々
神奈川宿内の東半分
金川砂子 江戸時代の風景 | 今の様子と図の説明 |
左は、神奈川の駅(宿)の説明です。以下に「神奈川駅」の釈文を書きます。 | |
鳴(啼)*そし **はめて かへる雁 一古 上の句については何箇所か読めません。作者もどういう人か分かりません。 この絵は、神奈川宿の東側半分を表しています。神奈川宿の町名、寺社他が記載されています。
| 左の絵に書かれている範囲は、上の現在の地図の緑色の楕円で囲った辺りに対応します。 旧東海道沿いに、江戸の側の入口(現在の京急神奈川新町駅辺り)から中央の滝の橋まで、順に、並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町という町が続いています。また、仲之町、西之町の海側には、小伝馬町、漁師町(猟師町)があります。また、十番町の北西、山側には仲木戸横町、御殿町、飯田町、二ツ谷町などがあることが分かります。並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町という町が続いています。また、仲之町、西之町の海側には、小伝馬町、漁師町(猟師町)があります。また、十番町の北西、山側には仲木戸横町、御殿町、飯田町、二ツ谷町などがあることが分かります。金川砂子の寺社の説明では、場所を示すため町名の使われていることが多く、おおよその場所は町名から判断できます。
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竜燈(りゅうとう)の 松に一声 ほととぎす ** 絵の右側には観福寺が描かれています。観福寺(かんぷくじ 観福寿寺ともいう)は神奈川宿の江戸方入口のほんのわずか江戸側の山側にありました。下に走っている東海道には、「新宿」、「並木町」といった町名の他に「白山社」の表記が見えます。又、絵の左側の遠景に、「富士山」、「大山」が見えます。 観福寺は、下のジオラマの写真の右端にあります。 | 金川砂子の図に描かれた範囲は上の図の緑色の楕円で示した辺りです。観福寺は1868年に消失し、現在、蓮法寺(れんぽうじ)となっています。 下は、左の挿絵のアングルと略同じかと思われるGoogle Earthの写真です。 ここ神奈川には、普段我々がよく耳にする浦島太郎とは少し異なる浦島太郎伝説があります。観福寺(観福寿寺)にあった縁起書にその伝説が書かれていたのだそうですが現在は失われており、金川砂子や江戸名所図会などに残っています。詳細は右の説明板を見て下さい。 右の写真は蓮法寺の本堂です。蓮法寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 右の写真は白山神社です。住宅街の中にひっそりと置かれていました。訪れた時、丁度、ご近所の方が掃除をしていました。
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観福寺の石坂の中段に仁王門があり、上の絵は石坂の縁にあったという多宝塔です。釈文を右の欄に書きます。 |
「仁王門
「多宝塔 |
上の絵は、神奈川宿の入口辺りです。左側のページの街道の両側に盛り上げてある土塁が見附の場所です。丁度その辺りに、長延寺があります。 | 左の金川砂子の挿絵に描かれた範囲は上図の緑色の楕円の辺りです。長延寺の門前の街道の両側に土を盛り上げてある土塁は、見附であり、神奈川宿の入口であることを示しています。左下のジオラマの写真でも見ることができます。 下は、左の挿絵のアングルと略同じにしたGoogle Earthの写真です。赤い線が旧東海道です。 現在、長延寺も見附もありませんが、JR神奈川新町駅近くの公園が長延寺跡で、その公園に長延寺と見附の説明板があります。
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絵の右側には街道沿いに「良仙寺(りょうせんじ)」があります。また、その奥に「稲荷社」があります。なお、下のジオラマの写真では、良仙寺は中央少し左にあります。 金川砂子の説明には、海岸山良泉寺は浄土真宗京東本願寺末で本尊は阿弥陀仏とあります。良仙寺ではなく、良泉寺が正しそうです。 | 左の金川砂子の図の範囲は上の現在の地図では緑色の楕円で示す辺りです。 右の写真は旧東海道から見た良泉寺です。良泉寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 良泉寺の西側の小径を入ると京急本線の向こうに笠のぎ稲荷神社が見えます。 右は笠のぎ稲荷神社の本殿です。笠のぎ稲荷神社の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。
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雲川の あるだけ酒を 能満寺 上の挿絵では、右側に「能満寺(のうまんじ)」本堂があり、その左に「神明社(じんめいしゃ)」が有ります。能満寺の門前には、「不動堂」と「薬師堂」があります。 能満寺については、金川砂子によると、海運山満願院能満寺は、真言宗宗長山村三会寺末で、本尊の能満虚空蔵菩薩は、言い伝えによると、当地の農民が海で漁をしていたところ、不思議な朽木がかかり、堂を建て祀ったところ、この朽木が虚空蔵菩薩に変わった、ということです。 | 左の金川砂子の図には、神明宮と能満寺が並んでいます。場所は上の地図の緑色の楕円で示す辺りです。 下は、 金川砂子の挿絵とほぼ同じ方向から見たGoogle Earthの画像です。 上の写真で、赤い線が第一京浜(旧東海道)で、写真中央右側に能満寺があり、その左側の木に覆われた地域が神明宮です。神明宮の旧東海道側の参道は駐車場になっており、能満寺の旧東海道側の半分はビルに変わっています。 右の写真は神明宮です。神明宮の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 右は本殿です。境内の内外の位置関係は金川砂子の時代とは異なっているようです。 右は能満寺の本堂です。能満寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 なお、神明宮と能満寺は、左下のジオラマの写真の中央右側にあります。 |
からのこし? 水に声あり 休鳥? 英賀? 絵の右にある川は「上無川」です。この橋は荒宿橋で、それを渡ると「慈雲寺」があり、山門の近くに「鬼子母神」が見えます。 金川砂子によると、上無川については以下のように書かれています。「荒宿橋」は土橋である。下流は上(かみ)がない故にかみなし川という(意味がよくわかりません)。上無川は、土橋の下流をいう。水源はあちこちの田の水だ。この川は昔は広くて歩いて渡っていた。ある時祇園天王が出現したため、人は神無世川(かみなせがわ)といい、あるいは、神無川(かみなしがわ)とも言った。いずれが正しいのやら、とあります。 上無川(かみなしがわ)と慈雲寺(じうんじ)は、下のジオラマの写真の中央に見えます。 | 左の金川砂子の図は上図の緑色の楕円で示す辺りです。現在、上無川はなく、慈雲寺のあったところは神奈川小学校になっています。
右の写真は、上無川があったところと言われている、神奈川小学校の東側の一角です。なお、写真左側自動販売機の向こう側に江戸時代の神奈川宿の絵図「東海道分間延絵図」の壁画が見えています。 上無川の名前の由来、神奈川の名前の由来はいろいろと伝わっているようです。 その一つ、江戸名所図会には「水源が何処かはっきりしなかったため上無川といったもので、上無川のミとシを取って神奈川の地名が生まれた」と書かれているそうです。 金川砂子にある由来は、左の欄に書きました。 |
絵の右から順に「東光寺(とうこうじ)」、「妙仙寺(みょうせんじ)」があり、更に左にある東海道と直角に交わる道は「仲木戸横町(なかきどよこちょう)」です。 | 左上のジオラマの写真の中央左側に東光寺と妙仙寺があります。 左の金川砂子の図は上図の緑色の楕円で示す辺りです。 下は、挿絵と略同じ範囲を示すGoogle Earthの航空写真です。赤い線は旧東海道(現 国道15号線・第一京浜)です。 挿絵では、東光寺の左斜め上に妙仙寺が並んで書かれています。しかし、現在、東光寺はありますが、妙仙寺の辺りは京急本線仲木戸駅(写真の右上駅)前の広い道になっているようです。 右の写真は東光寺です。旧東海道には面しておらず、一本入った道にあります。東光寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。
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翠通 上の絵は、「十番町」から「九番町」、「御殿町」にかけての神奈川宿です。右端に「金蔵院(こんぞういん)」があり、境内に「御手折之梅」があります。その左に「熊野社(くまののやしろ)」が並んでいます。左側奥に進むと、「御門石」、「御殿跡」があります。
金川砂子の金蔵院の説明には、「神境山金蔵院東曼荼羅寺は、新義真言宗で山城区に醍醐三宝院末とあります。御手折之梅は本堂の前にある」と書かれており、芭蕉の 下のジオラマの写真の右端に熊野社があります。金蔵院は少し上の欄のジオラマの写真の左端にあります。本当は並んでいるのですが、撮影時にちょっとミスしました。 | 左の金川砂子の絵に描かれた範囲は上の現在の地図の緑色の楕円で示す辺りです。 なお、左の挿絵では、東海道(図の下側の道)に面して熊野社と金蔵院(こんぞういん)の参道が平行に並んでいます。また、敷地も二つ並んでいるように見えます。金川砂子の神奈川方角図でもこのふたつは並べて書かれています。ところが、現在は様子が違っています。下は、挿絵と同じ様なアングルのGoogle Earthの写真です。赤い線は旧東海道(第一京浜)です。 上の写真には、熊野社と金蔵院が見えますが、旧東海道から見て、横に並ぶのではなく斜め方向に前後に並んでいるように見えます。この辺りは、関東大震災や横浜大空襲などで相当被害を受けているところですので、昔と異なっていることは大いに考えられます。 上の写真で、御殿跡にマーカーを付けていますが、これは金川砂子のいくつかの挿絵から推測した位置です。正確には分かっていません。 右の写真は熊野社の鳥居の手前から本殿を見ています。熊野社の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 右の写真は熊野社境内の右側です。上の写真とこの写真とで、熊野社の境内全体が大体分かります。 右の写真は金蔵院本堂です。金蔵院の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。
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石蕗(つわ)の葉の 魚煮る網に しおれけり | 左は、海場の魚問屋の風景です。金川砂子の説明には「海場 小伝馬町猟師町辺りに魚問屋ありて江府(江戸)へ送る」とあります。 |
上の絵には、「神奈川名産生魚数品有といえども筆墨(ひつぼく)に尽くしがたく、ただ、あいなめ、もいを、車海老は土地の名物にて美味なるゆえここにあらわすなり」とあります。また、おおのにつては「此おおのといふ、名物にして他所、其躯(そのかたち)圖(ず)す?」とあります。 |
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雁の声 おぼろおぼろと 何百里 上の句の作者、各務支考は江戸時代前期の俳諧師です。 絵の中央を流れる川は滝の川です。その右に「ごてんみち」、左に「二ツ谷(ふたつや)みち」が川にほぼ平行に走っています。 | 左の金川砂子の絵は、東横線東白楽駅とその西側辺りの風景で、左下は現在の神奈川区役所の近くのようです。 上の地図では、金川砂子に描かれた場所と思われる範囲を緑色の楕円で表しています。左図の中央を流れているのは滝の川で、現在は暗渠になっているようですが、右の地図の空色の破線の辺りを流れています。また、二ツ谷(ふたつや)みちと書いてある道は、現在の平川町通りだそうで、右の地図の第二京浜二ツ谷交差点から北北西へ伸び六角橋に繋がる道です。 二ツ谷交差点を50m程進んだところに二ツ谷橋があり、そこから右の写真のような「滝の川せせらぎ緑道」となっています。 更に進むと二ツ谷公園があります。ここは、左の金川砂子の図の中央手前にある林の辺りではなかろうかと想像しています。 ごてんみちと書いてある滝の川の右の道は、東白楽駅のすぐ東を通っている道ではないかと思われます(推測です。確認必要です)。 |
上の絵には「駅路の遊君は班女(はんじょ 班女という美女を主人公とした能がある)照手(てるて 相模には小栗判官と照手の恋物語が残っている)の末流にして、今も夕陽(夕暮れ時)は斜めならず(尋常ではない)」とあります。 |
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夏の夜も 賑わしけりや あめや傘 数カラム上にあった熊野社です。この絵には、宵宮の境内の様子が書かれていますが、実際随分と賑やかだったようです。 |
鳥居をくぐり右側を見ています。金川砂子の図の山車?が並んでいるところ辺りかとおもわれます。
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金川砂子には「六月十八日、神輿(しんよ)駅中を渡御し、けかち川(今の浅間町あたりにあった川で、「神奈川宿の西隣(京都側)の村々」のページを参照されたし)より夜に入りて本社へ還幸なし奉る」とあります。 | |
水やりは 夕虹かけて 鯵の照 桂荊閑逸 | 十番町というのは、上図の緑色の楕円で示す辺りかと思われます。描かれている店は、飴屋を営んでいる「あめ七郎宅」となっています。作者の煙管亭の知り合いでしょうか。
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絵には、「東海道名所図会に曰く 雲は山川の気なり。天に垂れ空に飛んで動静(どうじょう)たる無心なり。又道中筋に靉靆(あいたい 雲や霞がたなびく様)するは此外にして無心の境界(境地)に似て仕様事(しようこと)なしの風に従い東西に来往す。これを雲助という」と、雲助(駕籠かき)の謂れを書いています。 また、「日本書紀に曰く、孝徳帝の御宇大化二年に関宿を定め駅馬伝馬を定めらるる」とあります。 | 左の金川砂子の図は、問屋で、左のジオラマの写真の中央すこし右の東海道の手前側にあります。 問屋場は、上の現在の地図の緑色の楕円で示す辺りにありました。 問屋(といや)は問屋場(といやば)ともいい公用旅行者の荷物の運搬や飛脚の業務を取り扱うところだそうです。ちなみに、見附とは宿場の門の役目で上方見附と江戸方見附があり、その間を宿内といいました。本陣とは公家、大名、幕府の公用の役人が宿泊するところ、旅籠は一般の旅行者が宿泊します。茶屋は旅人の休息のためのお店、高札場は幕府の掟やお触れを出すところだそうです。以上、国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所のパンフレット「てくてく東海道宿場探訪マップ」を参考にまとめました。 |
行く月に 物のかからぬ 海辺かな 金川砂子の本文では「海浦山吉祥寺 真言宗金蔵院末であり、小伝馬町にあり、滝の橋より二丁ばかり」とあります。 | 左の金川砂子の図の小伝馬町は上図の緑色の楕円で示す辺りかと思われます。図に書かれている吉祥寺の跡は今は見当たりません。
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夕顔や 誰人住みて 源氏坂 英賀? 絵には、仲ノ町、御殿町、飯田横町が見えます。東海道を進んているのは大名行列かと思われますが、誰も土下座はしてません。これは、行列が将軍や御三家ではないことを意味しています。 また、絵の右側上の方に「森村」、「武野」と見えます。そして、「此の両家御殿番之旧家に今に相続す」とあります。 | 左の金川砂子の図は、仲之町側から御殿町を見た図です。上図の緑色楕円の辺りかと思われます。
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松原に 飛脚小さし 雪の暮 絵には「馬士(うまかた)の挑み合うは常にして、静なるを変態とす。傍らに労(ろう)する(ねぎらわれている)馬はこれを聞きながら眠りけるもおかし」とあります。 | 左の金川砂子の図には仲之町の「しらはた屋」の店舗が書かれています。場所は、上図の緑色楕円の辺りかと思われます。
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飯田足 極楽足の 一ノ宿 「飯田・・」の歌については、「足」ではなく「道」としている例もあります。「道」だとすると歌の意味が分かりやすくなりますが、私には「足」としか読めないので悩んでいます。また、仲ノ町拾四間は、金川砂子の作者煙管亭喜荘のようです。 金川砂子の本文には「正覚山法雨院成仏寺 浄土宗京東山知恩院末、 飯田町にあり、滝の橋より二丁ばかり。本尊 阿弥陀仏」等と書かれています。 |
金川砂子の絵にある浄仏寺は、上図の緑色楕円の辺りかと思われます。左のジオラマの写真では、問屋場の少し山側にあります。
浄仏寺は現在、成仏寺と書かれます。右の写真は、成仏寺の入口です。 成仏寺の本堂です。山門を真っすぐ進んだところです。成仏寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 なお、成仏寺は、金川砂子の時代の後(開港後)、ヘボン式ローマ字の創始者のヘボンやその他の宣教師が滞在しました。 |
絵の立て札には「禁制/ 一 軍勢甲乙人(庶民)等濫妨(乱暴)狼藉の事/ 一 放火之事/ 一 対地下人百姓等兆(逃か?)分・・・・/ 右の条々・・ /天正十八年四月 日」と書かれ、その右に、「此制札は成仏寺門前右の方にあり、太閤秀吉公北国巡検の時建て給うと云う」と説明してあります。 左の絵では、千貫松について「成仏寺の庭は諸木名石あまたあれども、筆墨に尽くしがたく、ただ浪石松とここに表す」とあり、浪石について「成仏寺の庭にあり又千貫石とも云う。図の如く地に埋まりその色黒くして浪のごとく白き所ありて甚だしく奇なり」と書かれています。 | |
満月や 土橋をいつか 通り越し 境内には、「本堂」、「熊野社」、「寂静院」があります。下を流れる川は滝の川です。左に「二ツ谷町」があります。 慶運寺について金川砂子の本文には「吉祥山芳艸院(ほうそういん)慶運寺 浄土宗京東山知恩院末 二ツ谷にあり、滝の橋より北へ三町ばかり・・・」とあります。 |
左の金川砂子の図の慶運寺は、左のジオラマの写真では滝の川の少し上流に写っています。 慶運寺は滝の川の左岸(東側)にあり、JR各線と京急本線の間に挟まれています。左の金川砂子の図は上図の緑色楕円の辺りを示していると思われますが、その右側には京急線、左側にJRが通っており、慶運寺は図よりも狭くなっているのかもしれません。 下は、挿絵と同じような位置をGoogel Earthで表示したものです。 右の写真は慶運寺の門前です。神奈川宿周辺には浦島太郎伝説が伝わっており、ここ慶運寺にも関係する遺跡が残っています。右写真の大きな石碑は浦島寺碑です。 右は慶運寺の本堂です。慶運寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。 左の歌に「土橋」とありますが、慶安寺の200m程南に右写真のような「土橋」という橋があります。その橋でしょうか?
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旅人や 暁方の 蚊の行方 | 神奈川宿の丁度中央に滝の川が流れ、旧東海道には滝の橋が架かっていました。川を挟んで東側(江戸側)に神奈川本陣、西側に青木本陣がありました。滝の橋から少し江戸側に戻ったところに神奈川本陣がありました。右の写真は第一京浜の歩道にある本陣跡の説明板です。位置については、下の欄も参照してください。 なお、左下のジオラマの写真では、中央に神奈川本陣が写っています。 |
上の絵には、神奈川宿の中心部が描かれています。「西之町」、「滝之町」、「久保町」、「宮之町」と続く東海道には「御本陣」、「高札」、「滝之橋」が書かれ、海側の「猟師町」には「諏訪社」、「漁家」が書かれています。又、右上には「権現山」があり、その麓に「宗興寺」が見えます。左は袖ヶ浦です。 ジオラマの写真で下に突き出しているのは台場です。権現山を削り海を埋めて台場を作ったのですが、金川砂子の時代には、権現山は健在で、台場は未だありません。 | この欄は、「神奈川宿の西半分」の「滝の橋 権現山」の記述と重複している部分があります。 滝之橋は、神奈川宿のほぼ中央にある滝の川をまたぐ橋であり、その東側(江戸側)が神奈川町で、西側が青木町です。左のジオラマの写真では、右上から左下に向けて滝の川が流れており、左上の小高い山が権現山です。 現在の地図(上図)の緑色の楕円の辺りです。金川砂子の図では、滝の橋で東海道が左に折れているように見えますが、現在は幅の広い第一京浜になっているため、旧東海道の様子はまったく見当がつきません。 金川砂子の挿絵に近いアングルのGoogleEarthの航空写真です。赤い線は旧東海道です。現在は、道幅の広い国道15号線(第一京浜)、更にその上を首都高速横羽線が直線上に延びています。しかし昔は、挿絵のように曲がっていたのかもしれません。 航空写真の画面中央を左右に流れているのが滝の川(青い線)でそれと旧東海道の交差している所に滝の橋があります。 右の写真は、滝の橋を青木町側から撮ったものです。左の金川砂子の図によると、橋の北東側のたもとに高札場があったようですが(現在は右の写真の正面中央か)、高札場の跡はまったくありません。 しかし、近くにある神奈川地区センターに高札場が復元されています。右の写真です。地区センターには神奈川宿のジオラマも展示されています。 なお、神奈川本陣は、金川砂子の図によると、滝の橋を少し江戸に戻った所にありました。 |
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