アラさんの隠れ家歴史散歩金川砂子(かながわすなご)>神奈川宿内の西半分


金川砂子(かながわすなご)の中のページ
   序 神奈川宿の東隣(江戸側)の村々
   神奈川宿内の東半分
   神奈川宿内の西半分 (このページです)
   神奈川宿の西隣(京都側)の村々

神奈川宿内の西半分

金川砂子 江戸時代の風景 今の様子と図の説明

神奈川方角図其二  (金川砂子より)
金川砂子 神奈川方角図其二

     蓑笠庵 紹

  笠紐?の 赤きもまぢる 春の旅

  旅人の 足も留(とま)るや 袖ヶ浦

神奈川台石崎楼上十五景一望之図 初代広重
   横浜市神奈川区役所「神奈川宿 歴史の道」
神奈川台石崎楼上十五景一望之図 初代歌川広重

左の金川砂子の図は、神奈川宿の西側半分の地図です。滝の橋から(上方)京側は青木町と呼ばれていました。青木町は、東から順に滝ノ町、久保町、宮の町、元町、七軒町、下台町、上台町といった町々で構成されています。東海道のすぐ近くまで海が迫っています。

作者の蓑笠庵(さりゅうあん)は(もし読みが正しいとすれば)、高橋梨一といい、別名は紹ともいう江戸中期の俳人です。

神奈川宿西側

金川砂子の青木町は、現在の地図(上図)の緑色の楕円の辺りになります。

左の錦絵は、初代歌川広重による青木町を一望した絵です。神奈川台の石崎楼から見える十五の絶景の位置を示しています。この図で、滝の橋から神奈川台を経て上台橋辺りまでが神奈川宿の青木町です。その先に、芝生村が見えています。正面の海は袖ヶ浦で、その向こうに十五景の幾つかとして平沼、野毛、横浜、本牧の地名が見えます。

なお、この広重の絵は、タイトルからすると、神奈川台の石崎楼の上空から見たらこう見えるだろうと予想して書いた絵、ともいえますが、視線の方向としては、権現山の北ないしは北東の上空から見た風景でしょう。

石崎楼はこの絵に書かれているようです。台町(図の右端の崖の上)の手前から順に「下田屋」「桜屋」「石嵜」「玉川」と茶屋の名前が見えますが、「石嵜」が多分石崎楼です。

滝の橋 権現山 (金川砂子より)
滝の橋 権現山

滝之橋は、神奈川宿の丁度中央にあり、川を挟んで東側(図の手前側)に神奈川本陣、西側に青木本陣がありました。図の右上の山が権現山です。

左下のジオラマの写真では、神奈川宿を海側から見ています。右側に滝之橋があり、中央に小高い権現山があります。

権現山について金川砂子の本文では以下のように記載されています。

「権現山 宗興寺上の山をいう。小社あり元宮という。熊野権現の旧地なり。例祭正月十七日。夫(それ)この山の嶺より駅中を眼下に見下ろし、申の方(西南西)を遠く見渡せば富士の高根(たかね)大山の高嶺(こうれい)雲に連なり、午の方(南)は久良岐郡(くらきのこおり)の小山続き、横浜州乾(干か?)弁天(しゅうかんべんてん)の出洲(いです)、本牧(ほんもく)十二天の森、寅の方(東北東)は生麦(なまむぎ)の松原、子安(こやす)海保(かいほ)山、西の方は在々の田畑小山続きなり。前は内海の礫(さざら)波悠々として海上遥かに房総の長嶺、漁する舟は昆虫の蠢(うごめ)くに似たり。諸国の商船水雲の中に鮮やかなり。ここは昔永正年中、上田蔵人(くらんど)という者、此の山を城郭に構え鎌倉の上杉と戦う。蔵人利なく、防戦叶い難く、城を閉じて落ちるとなり。この事北条五代記に著(しる)し、これを権現山合戦と云てこの近辺の大戦(おおいくさ)なりと言い伝えしも宜(むべ)ならん。今は太平を凱(うた)う聖代なれば、干戈(かんか)の音永く絶えて礼楽と変じ四海の浪風穏やかなり。星霜かさなり時世は変われども山は古今変わらず参勤の諸侯は弓を袋にして威風凛々たり」

神奈川地区センターにあるジオラマ
滝の橋 権現山

この欄は、「神奈川宿の東半分 」の「滝の橋 権現山」の記述と重複している部分があります。

滝の橋、権現山

金川砂子の滝之橋、権現山は現在の地図(上図)の緑色の楕円の辺りです。金川砂子の挿絵では、滝之橋で東海道が左に折れているように見えますが、現在は広い第一京浜になっているため、旧東海道の様子はまったく見当がつきません。

金川砂子の挿絵に近いアングルのGoogleEarthの航空写真です。

滝の橋

写真では右が北です。赤い線は旧東海道で、航空写真画面中央を左右に流れているのが滝の川(青い線)で、両者が交差している所に滝の橋があります。

幸ヶ谷公園 航空写真画面右上にある緑地(茶色の平地)は幸ヶ谷(こうがや)公園で、江戸時代はここから幸ヶ谷小学校にかけた辺りは権現山(金川砂子の図の右側にある大きな山。左下のジオラマの写真も参照)だったのですが、ここを削りその土で神奈川台場を築いたため山がなくなりました。右の写真は幸ヶ谷公園の一角です。

また、挿絵から分かるように、海岸線は旧東海道の直ぐそばまで迫っており、航空写真の旧東海道の左にある公園の左端辺りが海岸だったものと思われます。

浄瀧寺 (金川砂子より)
浄瀧寺

絵は浄瀧寺です。手前の川は滝の川で右が上流です。上の欄のジオラマ写真では、滝の川の上流左側にあります。

浄瀧寺について金川砂子の本文には「妙湖山浄瀧寺 日蓮宗池上本門寺末 滝横町にあり 橋より西へ二町ばかり、本尊 釈迦仏、多宝仏 云々」とあります。又、寺の由来、町の名の由来については以下のように書かれています。

「夫(それ)当山はいにしえ、権現山に瀑布(たき)あり。たきのほとりに庵を結びて浮世の塵を払い行いするせる(さる?)僧あり。名を妙湖(みょうこ)という。ある時日蓮上人経回のおりから、此の辺に立ち寄りよく見たまい知る。
 滝のもと こだかき庵に すむ妙湖
 火にも水にも 溺れざりけり   日蓮上人
妙湖はそれより日蓮師の従弟となりて一寺を建立す。妙湖山(みょうこさん)浄瀧寺という。この瀑布(たき)今は涸れてなし。名残りて山の下の町を滝の町という。橋を滝の橋と名付けて、滝の跡を山上熊野権現の旧地のほとりにて、麓の人家嶋屋何某(なにがし)が裏に滝壺の跡儘(まま)に残れりという」

浄瀧寺

浄瀧寺は、現在の地図(上図)の右上の緑色の楕円の辺り、滝の川の右岸にあります。

下は、左の挿絵に近いアングルで撮ったGoogle Earthの写真です。下を流れるのは滝の川です。

浄瀧寺

浄瀧寺 右の写真は、浄瀧寺の境内を南側の道路から見ています。寺の位置、本堂の向きなど挿絵の時代と同じかと思われます。

浄瀧寺 右は、石柱の辺りから本堂を撮りました。浄瀧寺は、開港時にはイギリス領事館にあてられたのだそうです。浄瀧寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

権現山合戦 (金川砂子より)
権現山合戦

 この山の なくなる迄は はなし種
      仲ノ町拾四間

金川砂子の図に書かれている権現山合戦とは、戦国時代(1510年)、権現山に城を構えた上田蔵人が管領上杉憲房と戦ったことをいいます。戦いは上田蔵人が負けたのですが、その経緯は金川砂子の本文に右の様に書かれています。

二つ上の欄にあるように、権現山は削られてしまいもう既になく、跡地は幸ヶ谷(こうがや)公園や幸ケ谷小学校他の敷地になっています。

「北条五代実記 二之巻の中
   武州神奈川権現山合戦のこと
去る程に上田蔵人(くらんど)入道は武蔵国 神奈川へ打ちて出、権現山に城郭を構え早雲と合体す。早雲小田原には子息氏綱を置き、わが身は松田大道寺以下の軍勢を引率し高麗山并びに住吉の古城に立て篭もる。管領上杉憲房は平井の城におわしけるが伊玄(いげん)入道に向けられける。又、神奈川の城を攻め落とさばその他は自ら(おのずから)落つべし。但し、大敵に国々の催し勢(招集勢)にては叶うべからず。上田が主人治部の少輔(しょうゆう)入道建芳(たてよし)を大将として向けられ、管領より加勢として成田下総守、渋江孫治郎、藤田虎寿丸、大石源左衛門、矢野安芸入道、成田中務丞、その他武州南一揆を駆け催し(招集し)、都合その勢二万余騎、永正七年(1510年)庚午(かのえうま)七月十一日、神奈川権現山の城郭を稲麻竹葦(とうまちくい)の如く(周囲を幾重にも取り囲む様)に取り巻き一度にどっと鬨(とき)を作れば、城中にも鬨を合わせ、敵味方の鯨浪(とき)の声山海に震動して大山も崩れて海に入り、天地も覆るかとしばしは止まず。抑(そもそも)此の権現山は四方険阻にして岸高く峙(そばだ)ち、南は海上満々としてほとり無し。北は深田(ふかだ)にて人馬の通路絶ゆ。西には小山続きしが、その間を堀切て山に続きたる本覚寺の地蔵堂を根城として越後小田原の加勢を篭めおき敵を眼下に見下ろし屈強の射手矢尻を揃えて鼻油引きて待ち掛けたり。塀裏には大石大木を積み重ねて所々に偕盾(かいたて)をかき、その陰に数万の軍勢甲(かぶと)の星を輝かし鎧の袖を連ね、その他の兵時に取りて弱からん方へ向かわんと控えたり。東の大手には大将上田蔵人が軍勢甲(かぶと)の緒をしめ矢束(やつか)解いて押し*け、敵遅しと待ち居たり。殊に要害堅固の地にて縦令(たとえ)幾万騎の勢を以って攻めたりとも易(たやす)く落つべしとは見えざりける。寄せ手の先陣成田下総守が五百余騎逆茂木を引き破り呼号(おめきさけん)で攻め入りたり。(以下、間宮彦四郎が現れます。次の欄に続きを書きます)」

神奈川ノ住人 間宮彦四郎勇戦 (金川砂子より)
神奈川ノ住人 間宮彦四郎勇戦

 莫勇の けむりの跡や 草の露
         仲ノ町十四間

間宮彦四郎勇戦というのは、上の欄の権現山合戦の際、上杉軍が城に攻め入ったとき、城中から「神奈川の住人間宮彦四郎」と名乗り上杉軍に突入した勇気ある武者のエピソードです。金川砂子の本文の間宮彦四郎の部分を右に書きます。なお、記述はページの終わりに「下畧」で終了しています。

「城中より神奈川の住人間宮彦四郎と名乗り金銀一枚交じりの紫の糸にて威(おど)したる鎧に鍬形打ちたる兜を着(ちゃく)し栗毛の太く逞しき駒に紅(こう)の厚房(あつふさ)かけ黒鞍(くら)に銀覆輪(ぎんふくりん)かけたるを置きてうちのり、四目(よつめ)の結(ゆい)の笠験(かさじるし)を濱風に吹きなびかし木戸を開きて切って出(いで)る。寄手(よせて)これを討ち取らんと成田が先陣五百余騎が中に取り篭めて我打ち取らんと争う。間宮これを事ともせず、射向(いむ)きの袖をかさみ四尺余りのを大太刀持ちて切り結び人馬当たるを幸い薙ぎ伏せ切り倒す。その勢い獅子の怒れる如くなり。城中より二百余人突いて出、間宮討たすなと声々に叫んで追いつ捲(まく)りつ半時ばかり戦いけるが、陣の新手三百余騎息をも続(つ)がせず攻め駆ければ、間宮これを事ともせず敵を八方へ切り散らし勇々然と城中へこそ引き入ったり。ここに武州稲毛の住人田島新五郎というもの木戸の釣り塀の縄を切り解く。城中よりこれを見て大石十ばかり続け打つに投げいだす。田島は甲の鉢を打ち砕かれ倒れ落ちる。後に続く兵一同に引き退き後陣に控えたる武州南一揆の者ども五百余騎入れ替わりて押し掛ける。山上より敵お見下ろし、引き詰め引き詰め射ければ二十八騎射倒さる 下畧」

青木御本陣 (金川砂子より)
青木御本陣

  都出て 神も旅寝の 日数かな  芭蕉

神奈川地区センターにあるジオラマ

滝の橋 権現山

青木本陣

青木本陣は、左のジオラマ写真の中央手前側にありました。現在は、上の地図の緑色楕円の辺りに対応します。なお、上でも書きましたように、本陣は二つあり、神奈川宿の中央の滝の川を挟んで東側に神奈川本陣、西側に青木本陣がありました。

青木本陣 青木本陣の辺りは現在神奈川公園かと思われますが、その北東側に右写真中央に写っている説明パネルが置いてあります。道路の向こう側が神奈川公園です。

ここで少し用語の説明をします。問屋(といや)は問屋場(といやば)ともいい公用旅行者の荷物の運搬や飛脚の業務を取り扱うところだそうです。ちなみに、見附とは宿場の門の役目で上方見附と江戸方見附があり、その間を宿内といいました。本陣とは公家、大名、幕府の公用の役人が宿泊するところ、旅籠は一般の旅行者が宿泊します。茶屋は旅人の休息のためのお店、高札場は幕府の掟やお触れを出すところだそうです。以上、国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所のパンフレット「てくてく東海道宿場探訪マップ」を参考にまとめました。

神奈川 注連(しめかざり)飾りの図
        (金川砂子より)
神奈川 注連(しめかざり)飾りの図

   蓬莱(ほうらい)に きかばや伊勢の 初便

東遊   
   門松と 春の景色の 道具立て
   かすみに注連を 引そめにけり
          東都白妙連 花雪庵

左の歌については、狂歌東遊に
   門松と 春の景色の 道具立て
   霞のまくを 引初めにけり
という類似の歌が掲載されています。

青木町 裏座敷ノ図 (金川砂子より)
青木町 裏座敷ノ図

青木町裏座敷

左の金川砂子の図は、神奈川宿の料亭街を海側から見た図です。右端は滝の川だと思われますので、最も右の建物は青木本陣で、金川砂子の図の場所は上の地図の緑色の楕円の辺りかと思われます。

青木町其二 (金川砂子より)
青木町其二

 神奈川に とびかふ鶴の はねさわや
  さしてぞ来ぬる 松のひともと   蜀山人

  丼りを たたくくいなの 音すなり
  弁当いはの みじか夜の月

左の金川砂子の図は料亭羽沢屋(はねさわや 羽根沢屋とも書くらしい)です。飛び出した桟橋から判断すると、左上の図の中央辺りにある店のようです。なお、羽沢屋の位置は、このページの最初の欄に示した神奈川台石崎楼上十五景一望之図に、本陣鈴木と同じ並びにあることから推定できます。

「蜀山家集 全」(J-TEXTS 日本文学電子図書館)の「放歌集」に、

鶯村君(酒井抱一のこと)の松の絵は金川宿羽根沢といふ桜(楼か)の庭にある松なり
   かな川の 松の青木の 台の物
   洲浜にたてる 鶴の羽根沢

との記載がありますので、蜀山人は、神奈川宿の羽根沢屋に行ったことがあるか、あるいは、知っていたことは確かです。

「丼を・・」の歌については、この辺りに弁当岩というのがあったのかもしれません。

活すの図 (金川砂子より)
活すの図

神奈川地区センターにあるジオラマ
滝の橋 権現山

金川砂子の絵によると、活けす(いけす)は、江戸に新鮮な鯛を届けるために、竹で組んで、青木町沖に設けられたもの、と説明されています。生簀(いけす)は、左下のジオラマの写真の左下部分にあったようです。

青木町 須崎社 (金川砂子より)
青木町 須崎社

金川砂子の本文では洲崎社は以下のように書かれています。

「夫(それ)当社鎮座の年暦旧記に所見なし。社頭神奈川一の境地(けいち)なり。前は海道にして行き来の貴賎引きもやらず。神徳は日々に新たにして詣人(けいじん)は陰晴(いんせい)を嫌わず間断なし。實(まこと)に神国の中の神国たるべし。」

金川砂子には、祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)について下のような記載があります。

「祇園牛頭天王 洲崎社相殿(あいどの)に祭る
       神奈川東の方の祭神なり
 塞神 素盞鳴尊 神主吉田氏 別当普門寺
          例祭六月十四日 神楽渡御

夫(それ)此の御神は荒宿上無川より出現まします。子安村萩原氏これを勧請す。その例として今、中ノ町内海氏前にて例年六月十四日舟の形を作り、下より吉田氏奉幣を出し船の上にて萩原氏これを請取り祝詞を奏し神酒を供御し奉る。これ昔よりの例なりと云う。祭りは六月七日神輿六ヵ町を渡御し、九番町御旅所に十二日迄まします。十三日は荒宿神無川土橋の際に一日その夜神事あり。詣人くんじゅ(ぐんしゅ 群衆か?)なし。十四日又六ヵ町を渡御し本社へ還幸なし奉る。すべて夏の末の月に素盞鳴尊を祭る事は京師祇園会よりて、委(くわ)しくは公事根源(くじこんげん)に見えたり。素盞鳴尊は祇園の社又祇園神社という。牛頭天王といえるは仏書より出たる名なりと云うこと、か島志(かしまし)という書に見えたり」

須崎社

金川砂子の図に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。

左下のジオラマの写真では、権現山の手前のふもとにあります。

下は、挿絵に近いアングルにしたGoogle Earthの航空写真です。中央左の樹木のこんもりとしたところが須崎社です。赤い線が旧東海道です。挿絵によると、須崎社の右上は権現山ですが、現在は削られており、幸ケ谷小学校が建っています。その左後方が幸ヶ谷公園です。

須崎大神

須崎社 須崎社は須崎大神と呼ばれています。右の写真は、旧東海道から鳥居を写したものです。

須崎社 右は、須崎社の拝殿です。洲崎大神の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

元町 普門寺 甚行寺 (金川砂子より)
元町 普門寺 甚行寺

金川砂子の本文によると、普門寺(ふもんじ)は「洲崎山普門寺 真言宗 駅の中の金蔵院末 青木元町にあり 滝の橋より四丁半ばかり 本尊大日仏・・・」とあり、甚行寺(じんぎょうじ)は「眞色山甚行寺 浄土真宗 伊勢国一身田専修寺末 青木元町にあり 滝の橋より五丁ばかり 本尊阿弥陀仏・・・」とあります。

神奈川地区センターにあるジオラマ
滝の町辺り

上のジオラマの写真で、普門寺と甚行寺は左側にあります。

普門寺 甚行寺

金川砂子の図に書かれている範囲は上図の緑色の楕円の部分です。

下は、普門寺と甚行寺辺りのGoogleEarthの航空写真です。赤い線が旧東海道です。両寺とも左の金川砂子の図と大体同じ配置です。

普門寺・甚行寺

普門寺 右の写真は、普門寺の旧東海道からの入口です。神奈川宿では「神奈川宿歴史の道」として要所々々に写真のようなパネルが置かれています。

普門寺 右の写真は、普門寺の本堂です。普門寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

甚行寺 右の写真は、甚行寺(じんぎょうじ)を旧東海道から見ています。

甚行寺 右は、甚行寺(じんぎょうじ)の本堂です。甚行寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

七軒町 本覚寺 (金川砂子より)
七軒町 本覚寺

金川砂子では本覚寺について「青木山延命院本覚禅寺 禅宗 小机村雲松院末 七軒町にあり 滝の橋より六丁ばかり 本尊地蔵尊 云々」とあります。

また、以下の様な記載もあります。

「夫(それ)此の禅刹(ぜんさつ)は金駅(きんえき 神奈川の駅)に名高く、前には紅海渺々(びょうびょう)として清月(せいげつ)禅心を照らし、後は山嶺(さんれい)巍巍(ぎぎ)として啼鳥(啼鳥)鐘声(しょうせい)に和し、堂前の諸木は四時(しいじ)の花を結び、此の門前は即ち東海道にして賑わしく駿河の清見寺(きよみでら)もかくあらんかと疑われけり」

神奈川地区センターにあるジオラマ
滝の橋 権現山

このジオラマの写真では、本覚寺は右端に写っていますが、一つ上の欄のジオラマの写真では左端に写っています。これらの写真から、昔は、本覚寺から権現山にかけて丘が続いているように見えますが、金川砂子の絵を見ると、絵の右下のところえ東海道から三ツ沢道が分かれていますので丘を縫って三ツ沢に至る道が通っていたのでしょう。

本覚寺

左の金川砂子の図の範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。

下は、挿絵と大体同じアングルのGoogle Earthの航空写真です。現在は、本覚寺と権現山の間が削られ、JR、京急、第二京浜(国道一号線)が通っています。赤い線は旧東海道です。青木橋の辺りで曲げて表現してありますが、江戸時代は真っ直ぐになっていました。

本覚寺

本覚寺 右の写真は、青木橋から本覚寺を撮っています。第二京浜の工事の際、寺の敷地をかなり削り、階段の向きも変えたようです。

本覚寺 金川砂子の絵では、旧東海道(中央下辺り)から右上に参道が続いており、ジオラマの写真でも同様です。しかし、現在は、青木橋のところで旧東海道から北へ上り坂を少し進んだところに、右写真のように方向が曲げられた形で本覚寺への階段が作られています。

本覚寺 階段を登り切ると山門です。正面に本堂が見えます。

本覚寺 右の写真は本堂で、境内は左の図と同じ配置になっているようです。本覚寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

本覚寺 本覚寺は、江戸末期の開国の頃、アメリカ領事館として使われました。この説明碑は上の山門の手前右にあります。

東台下(ひがしだいした) 飯綱社 (金川砂子より)
東台下

上の絵には東台下の様子が書かれています。東海道に沿って、「三宝寺」、「一里塚」、「金毘羅社」、「飯綱社」があり、その先、絵の左側は上り坂になって台町へと続きます。金川砂子の本文には「隠橋(かくればし) 台下飯綱社門前にあり この端神奈川に名たかしという」とありますが、名前のとおり、絵には橋がみつかりません。

飯綱社については「飯縄大権現 別当普門寺 東台下にあり 滝の橋から十町ばかり 云々」とあります。 

東台下

左の金川砂子の図の範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。左上のジオラマの写真の中央から右にかけた部分です。

飯綱社(いいずなしゃ)は現在、大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)と呼ばれており、大綱大神と金毘羅宮が祀られています。大綱金刀比羅神社の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

飯綱社 旧東海道に面して鳥居があります。左図と同じです。

飯綱社 階段を登ってくとその先の左に金毘羅宮があります。

飯綱社 左の図では、階段を登った正面に本殿があったように見えますが、今、正面には、右図のように太い木が置いてありました。大綱社の本殿跡のようです。

飯綱社 左の図では、飯綱社の右隣に三宝寺があるはずなのですが、それらしい建物がありません。よくよく注意してみると、大綱金刀比羅神社の10m程東に三宝寺と刻んだ石がありました。なお、この辺りに一里塚があったはずですが、今はそれらしいものは見あたりませんでした。

飯綱社 実は、今、三宝寺はその裏側の高い所にあります。右の写真のように巨大な高床式の建物です(東側から撮っています)。

飯綱社 本覚寺に行く道をそのまま登って行くと現在の三宝寺に着きます。右が三宝寺です。三宝寺の由緒他詳細については、猫の足あとを参照してください。

飯綱社(現 大綱金比羅神社)と三宝寺の現状は、下の写真でよく分かります。左の挿絵と略同じアングルにしてあります。旧東海道は赤い線で表しています。

大綱神社

上の写真や左の挿絵で左へ進むと、つまり西へ進むと、台町(だいまち)に至る上り坂になります。それで、ここは東台下なのでしょう。

台町 茶屋之景 (金川砂子より)
台町 茶屋之景

台町について、金川砂子には「台町 海岸は茶屋町にして神奈川に名高き絶景なり」とあり、以下の説明が続きます。

「夫(それ)此の台にて遠望すれば山水清輝(せいき)を含み百里に目を極む。先ず、東南の間には安房上総の峰々を遥かに眺(み)わたし、南の方を近くに見れば久良岐郡(くらきのこおり)の小山続き、金沢鎌倉の山に続いて遠近の連山錦にたり、前は戸部村(とべむら)横浜本牧(ほんもく)十二天の森州乾(干か?)弁天(しゅうかんべんてん)の社(やしろ)は出洲(いです)にして洲浜の長さ八町ばかり、小松生い茂り三保の松原もかくやと疑われけり。西の方には富士の高根(たかね)を山越しに見わたし、北は山嶺森々たり。東は海面(うみつら)遥かに晴れて帆かけ舟は浪を走り雲に連なれば田面(たのも)も雁の渡るに似たり。猟(漁)する舟は沖に小さく長閑(のど)けき春の波間に漁夫の業くれ(いたずら)、夏は磯部の磯辺の蛍飛び、秋は初雁の渡る影(かげ)、雲と水との中に消え、冬は波に群れいる小夜千鳥(さよちどり)の声すごく嵐烈しき折々は波ここ元に立ちかかり、まろね(旅寝)の夢を破りけり。潮(うしお)にひたす月の影は曇らぬ鏡を洗うがごとく海より出て海に入る。誠に風景の勝地なり。公卿諸侯多く此の所に駕(が)を停(とど)め、又は、貴となく賎となく足を躊躇してこの風色を賞し詩を**歌を詠するもあり」

田中家

東台下を西へ進むと上り坂になり、台町に入ります。ここは台地で、神奈川湊を見下ろすことのできる景勝地であり、又、さくら屋という有名な茶屋があり、よく絵に書かれた場所でした。上の地図に、緑色の楕円でこの場所を示してあります。

左下のジオラマの写真では、台のピークの少し右側です。

田中家 右の写真は、台町にある田中家で、さくら屋を受け継いだ料亭、とのことです。

田中家 右は、田中家を行き過ぎてから東台下方面を見ている写真です。長い下り坂になっていることが分かります。

西台之図 (金川砂子より)
西台之図

絵には、「台町」に「大日堂」、台を降りた左端には「日出稲荷」が見えます。

神奈川地区センターにあるジオラマ
滝の橋 権現山

金川砂子の絵の範囲は、左のジオラマの写真の左側の部分に当たります。

見晴所 台町の茶屋を過ぎて少し行くと、神奈川台の関門跡があります。右の写真です。これは、開港後、外国人殺傷が多発したため、それを取り締まるため設けた関門ですが、金川砂子が書かれた時には存在していません。右の写真は、その関門跡と袖ヶ浦見晴所の碑です。左の絵の右端の階段の辺りではなかろうかと思われます。

見晴所 さて、坂を降りて行くと、下りきる直前の辺りに右の写真のように上台橋(かみだいばし)があります。しかし、金川砂子の図にはその辺りに橋はありません。この橋は、昭和に入ってから、切り通しの道路ができるときにその上に架けられた橋なのだそうです。

袖ヶ浦之景 (金川砂子より)
袖ヶ浦之景

 懐に 入り来る帆あり 夕涼し   蓼太

  船ならで 帆に風うけし 梅が枝の
  薫りのつくは 誰が袖ヶ浦
        三河擣衣連(とういれん) 向柳亭

金川砂子の本文では袖ヶ浦について「袖ヶ浦 袖ヶ浦とも袖の裏ともいう。海浜袖の如し故に名とす。袖の浦は鎌倉にもあり。又、出羽国にもあり。歌によりてこれを分かつ。神奈川を一帯に袖ヶ浦という。又、ある人曰く、台の辺(へん)ばかりを袖ヶ浦という。いずれが是なるや非ならんや」とあり、その後、たくさんの歌が挙げられています。

金川砂子の図には袖ヶ浦の図とあります。この辺りは東海道のすぐ近くまで海が迫っており、この湾は袖ヶ浦と呼ぼれて、様々に描かれ、また、歌われてきました。しかしながら、現在はこの湾は全て埋め立てられ、横浜駅を含む高島町、みなとみらいなど、横浜市の主要な一部となっています。

下の地図には、現在の地図に、赤い破線で旧東海道を、青い破線で江戸後期の海岸線(大雑把な推定)を書きいれてあります。入り組んだ湾が袖ヶ浦です。この地図の二重丸の矢印は左上の西台之図の視線方向で、一重丸の矢印は左の袖ヶ浦の景の視線方向です。

袖ヶ浦マップ

袖ヶ浦の景のアングルに近いと思われるGoogleEarthの航空写真 です。航空写真の画面下部の写真は消してください。画面中央の少し左の上下に伸びている広い道が環状一号線で、旧東海道はその一本左側の少し曲がっている道です。また、旧東海道は高速道路と交わる辺りから画面の右下隅に向かって曲がっています。昔の袖ヶ浦は現在はビル街です。

「懐に・・」の句は、江戸時代中期の俳人で大島蓼太(おおしまりょうた)(雅号は雪中庵他)の作です。「船ならで・・・」は狂歌東遊(あずまあそび)に掲載されている狂歌です。

 


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   序 神奈川宿の東隣(江戸側)の村々
   神奈川宿内の東半分
   神奈川宿内の西半分 (このページです)
   神奈川宿の西隣(京都側)の村々