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都内一円 「六地蔵まふでの記」

文政四年(1821)八月十一日、村尾嘉陵は、六地蔵詣でに出かけました。この六地蔵は江戸六地蔵と呼ばれ、Wikipediaによると「江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである」ということです。それぞれ番号がつけられており、第一番 品川寺(品川)、第二番 東禅寺(浅草)、第三番 太宗寺(新宿)、第四番 真性寺(巣鴨)、第五番 霊巌寺(深川)、第六番 永代寺(深川)となっています

以下、このページの左側に嘉陵の記述を、右側に他の古文書による当時の様子と写真による現在の様子を記します。記載された地点の位置については逐一は書きませんので必要に応じて挿絵のリンク先(江戸名所図会)を参照してください。

江戸近郊道しるべ  江戸近郊道しるべこの日の記録は、「葉月の十一日は、うちうち御ひとめぐりの御忌の日」、つまり、どなたかの一周忌だという説明から始まります。この頃は心が塞ぐこともあり、今日も暑さのせいか特に辛く、老いの身を持て余しているのを誰も分かってくれない。などと考えていたら、見回りの係の者から庭を片付けよという指示があり、皆で、以前から育てていた畑などを慌てて片付けせざるをえなくなった。愛で育てていた木や花を切ったり抜いたり、あるいは、枯れた木を見ては色々思い出し、儚くなってしまった。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会富岡八幡宮
  ということで、「かくて今日うちにぐしゐなんには(屋敷の中に控えて居ては)、いよいよ心憂(う)からんに、洲さきの海辺見にとて、先(まず)深川の永代寺に参る」。「こゝに正徳の初め正元法師が作れりし金銅の地蔵尊あり。門を入て右のかたに、石がき高くつきあげて、上に像を安ず」とあります。これは最初に書いた第六番の六地蔵に当たります。右は、江戸名所図会の「富岡八幡宮」の挿絵です。挿絵の中央、嘉陵の書いたとおり、表門を入った右に「六地蔵」が見えます。永代寺は富岡八幡宮の別当(神社を管理する寺院)で、その本堂は右の挿絵に続く2枚後の絵に書かれています。永代寺については、江戸名所図会の「永代寺」にも記載があるように、大変な大きな寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり六地蔵も壊されたようです。ただし、現在、塔頭の一つが永代寺の名を継いでいます。

 霊厳寺六地蔵
  「拝み果てて思ふに、海辺行て海みんも、心晴るけなんにもあらじ(心が晴れるわけもなさそうだ)。ここを初めに、彼(正元法師)が作り置し六所の地蔵尊を、今日なん拝み巡らばやとて、同じ所の寺町霊巌寺(江東区白河)に参る」と江戸六地蔵巡りを決心し、霊巌寺に行きます。右は、街歩き仲間のIさんの撮影した第五番 霊巌寺の江戸六地蔵です。

「ここより第二の橋(おそらく堅川の二の橋)をわたり、回向院(両国)の前を北に川ぞひを行、大川橋(吾妻橋のこと)を渡り越し、三谷の町(山谷の家屋の多いところ 浅草の北側)を行き、小づか原(荒川区南千住の辺り)の縄手(あぜ道)を二丁ばかりこなた(手前に)、町なみの西側に、東禅寺(台東区東浅草)あり」到着です。右下は、街歩き仲間のNさんが撮影した第二番 東禅寺の江戸六地蔵です。

江戸近郊道しるべ 浅草東禅寺六地蔵「ここを出て、小づか原を過、三の輪(みのわ)の飛鳥の社(千住大橋の近くの素盞雄神社)に参る」、「社頭に芭蕉といふものの句を、鵬斎(亀田長興 儒者)が書たる石ぶみあり、、、」と、孔子の学問を学んだ者が芭蕉の句を書くとは、と嘆いています。「ここの石の鳥居を出れば、西に向て一すぢの馬路あり。左右みな田也」と、江戸名所図会の「飛鳥の社」の挿絵の「昔の奥州街道」を進んだようです。

江戸近郊道しるべ江戸近郊道しるべ ひぐらしの山の裾(荒川区西日暮里)に出て、その先、「要源寺の傍より王子道に出。少しゆけば目赤不動尊(南谷寺、文京区本駒込)道の西側にあり、拝みて過」ぎました。

江戸近郊道しるべ 江戸名所図会眞性寺吉祥寺(文京区本駒込)の前より富士の祠(富士神社、文京区本駒込)を道の東にみて、やや行けば、辻の番所ある所より西に横折て、板橋の街道(中山道)に出。北にゆき行ば真性寺(豊島区巣鴨)」に着きました。右は江戸名所図会の「巣鴨 眞性寺」です。挿絵の山門と本堂の間辺りの左側に六地蔵らしい像が見えます。挿絵の下側にある道が巣鴨通りです(旧中仙道)。下は、第四番 眞性寺の六地蔵です。 巣鴨眞性寺六地蔵  

新宿太宗寺六地蔵そこから、一旦北へ向い、庚申塚から西に折れて大塚を進むと、「しばしばして、なみきり不動尊(文京区大塚)。道の東少し高き所に堂あり。拝みて過行」。その後、護持院、音羽町、目白坂の不動尊(新長谷寺)、合羽坂、くらやみ坂、を通り、「四谷、内藤新宿に出。大宗寺に参る」と。右は、第六番 太宗寺の六地蔵です。

ここまでで、六地蔵のうち五つを巡りましたので、残るは、品川の品川寺(ほんせんじ)だけですが、ここから未だかなりの距離を残しています。

江戸近郊道しるべ江戸近郊道しるべ  「ここより追わけを新まち(新宿区四谷)さして、しばしばゆけば、道の東の側に上水をわたりて横みちあり」、更に進むと、「千駄ヶ谷八幡宮(現在の鳩森八幡神社) の北のそばより社の門前に出。宮居は東に向てしづもります、社頭に富士浅間の仮山あり」。しばらく進み、原宿の熊野の社(渋谷区神宮前)、渋谷八幡宮(金王神社 渋谷区渋谷)、羽沢の氷川の社(渋谷区東)、さらに、婆が茶屋爺々が茶屋を過ぎる頃には山道に松虫の声があちこちで聞こてきました。「いとあはれにかなし」。

江戸近郊道しるべ 品川品川寺六地蔵ここに来て、暮六つ(午後六時)の鐘が鳴り、ここから鮫洲(品川寺のあるところ)まで行けないこともないが、ここらの道はマムシも多いので草を踏み分けて行くわけにもいかず、遠くから拝むだけにして、ここで帰路につきました。

右は今回行けなかった品川寺の六地蔵です。

「白かねの台のまち(港区白金台)より家路には熟路なるに、わきて(とりわけ)夜なれば興なし。やや疲れたれば塩どめ(汐留 港区東新橋)より舟に棹さす。帰り着けば戊の刻(午後八時)やや過る頃にぞありける」が最後の文ですが、さすがの嘉陵も疲れたようです。

江戸近郊道しるべ江戸近郊道しるべ  「文政四年かのとの巳の葉月十一日 正靖記」で、紀行文は終わりますが、この後数ページ、附記が続くようです。しかし、私には判読できないのでここで終わります。